「地味力」VS「派手力」
「アイドルになりたい」と夢見て田舎から東京に出てくる。
メイド喫茶でアルバイトをしてキャバクラで働いて、出られてAV。それすら難しい。
それがほとんど、なのではないかなあと思う。
夢をかなえるために過ごす時間。それほど至福の時はないのかもしれないがそれほど過酷で残酷な時はないのかもしれない。
私の父は田舎から「デザイナーになりたい」と出てきて、芸大に行くお金もなかったので昼は専門学校、夜は夜勤で働きながら有名なコンクールにいくつも作品を提出し、賞を受賞し、デザインセンターというデザイナーの登竜門に入り、その後銀座にある華やかな広告代理店のアートディレクターとして華やかにデビューした。その後も収入も軽く4桁を稼ぎ続けていた.
出身はど田舎貧乏で母は夜なべをして父親はパチンコでお金を使ってしまうという不幸を絵に書いたような暗い家から飛び出して、銀座だニューヨークだと飛び回る毎日に心臓がいつもバクバク高揚して夢のような毎日だったと父は語った。
夢を追い現状を打破する。毎日が高揚し次の夢に向かう毎日。
いいなあ。
ついでにドラマのようなドラマテックで高揚感と絶望がいり混じる恋愛とかしちゃったりしてー!と妄想していたけど。
私もそんな人生がいいなあ!
とおもっていたけど現状は。
めちゃ安定しつつ平和。
わたしも編集だ、ライターだと華やかな仕事につきたい!とおもっていたけれど、時は超氷河期。大した学歴も目立つ才能もないわたしがなれるわけもなく。
OLよりはいいかなあと半分妥協案として社会福祉士の資格をとり就職した。
心臓がバクバクするような高揚感はないが、案外性に合っていて、人様の人生とたくさん関わり派手でないけど子育て家庭の毎日の営み、お子さんの成長の中に尊いドラマをみてきて、少しでもお役に立てることに喜びを感じられるようになった。
彼氏との出会いも、衝撃的な一目ぼれ!でもなく、ドラマチックに略奪!
とかでもなく、「友人関係からなんとなく始まった」と言う感じ。
もちろんイケメンだなあ。とかいい人だなあ。とかはあったにせよ、すでに恋愛への妄想と言うのはあまりなくなってしまっている年齢で、しかも闘病中と言うこともありあまり恋愛をするつもりの時期でもなかったので「劇的な何か」ではなく「なんとなく」と言う表現がしっくりくる。
そもそも「イケメン」ということも「ときめき」の材料と言うよりは「遊び人じゃないでしょうね?」という疑いの材料になるくらいの経験は経てしまっている。
けれどつきあっっていくうちに、人間としてのやさしさを感じたり期待に応えようと頑張ってくれる姿を見て積み木を積み上げるように愛情が積みあがっていくという実感はある。
夢に向かって羽ばたく人生、があるのならわたしは「積み木積み上げ型人生」なのだなあ。と悟る。
でも大切な本質はむしろこの「地味な毎日」の中にあるのかもしれない。
父も夢のような人生を送りながら、常日頃幼少期に築くことができなかった父親との愛着関係に苦しんでいるようにも見えたし、晩年はとくにそれが顕著に出ていていい老後とは言えなかった。
「地味な部分」が欠落してしまっていては「華やかな現状」だけで本当の幸福には至らない。
日々生きる人間の基本的な営み。それこそが尊くて、人間関係は思いやりと言う地味なベースがあり尊いのだなあ、と思う。
親に愛されず夢をかなえたとて、信頼関係なく不倫に燃えたとて、それは一時の興奮状態であり幸福状態ではない。
もちろん華やかな気分状態はひとを幸福にさせるし、それも大切だ。けれど根本を支える「地味力」これこそが幸福の正体なのではないか。と最近は思うのでした。
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