「つくね小隊、応答せよ、」(廿八)

10Bのえんぴつで塗りつぶしたような色の森の向こうに、太陽がゆっくりと沈んで行った。

島の上空をとんびのようにまわっている偵察機と、日本の方向へ飛び立っている爆撃機のエンジン音がいくつか通過していく。日が沈んだ後は航空機も数が減り、島は分厚い森のふとんをかけて眠っているみたいに静かだ。時おり、寝言のようにどこかの獣や鳥が鳴く。


釣りをした川の岩肌には、水に削られてできたらしい洞窟があった。その洞窟のなかで火を焚き、仲村が捕らえた魚を焼いている。夜だから、煙に頓着しなくていいのと、洞窟の中は、遠方から火を視認されにくいので、今日は豪快に魚を焼いている。


魚は、青い色で、こぶのある不気味な魚で、ぎょろぎょろした目で、血抜きをする渡邉をじっと見つめた。渡邉は彼を銃剣で三枚におろし、それをみっつのサクに切り分け、枝を切り出した串に刺して焼いている。火が通っていくにつれ、油がしたたり落ちて、じゅじゅじゅんっと香ばしい音が聴こえてくる。


渡邉は飯盒に川の水を入れて焚き火で沸騰させたものに、ぶつ切りにした魚のアラをいれた。そして丁寧に灰汁をとり、味見をし、首をかしげて言う。


「味噌も塩もないから、こんなもんかな、やっぱり」


「え?せっかくこの真下に海水あんだからよ、潮汁にしたらいいんじゃねえのか?」


「なんだその、うしおじるって…」


「あ、浜で漁師が食事するときによ、海水と水だけで魚を煮て食うのよ。え、渡邉、知らねえの?」


「ああ。俺は海なし県だからな」


その会話を聴いていた清水が、服を脱ぎながら立ち上がった。


「じゃあ、俺がとってくるよ」

清水は水筒を肩に斜めがけする。


「おい、学徒ちゃん、泳ぎは得意じゃないって言ってただろ?俺いくぜ?」

仲村が心配そうに言うと、

「いや、潜って浮かぶくらいはできる。汗も流したいから、行ってくるよ」


清水はそう言って、岩肌の洞窟の出口、20センチほど下にある水面にゆっくりと入った。あ、と思い返して、帽子とめがねを洞窟の入り口に置いてから、また潜る。


南国と言えど、源泉が近くにあるのかもしれない。川の水はひやりと冷たかった。


夜の密林も充分に静かだが、ゆるやかな流れのこの川の中は、さらに静かだ。透明度があるので、洞窟から漏れる焚き火の灯りだけで、川底がうっすらと見えている。水面の方を見上げると、橙色の洞窟の内部と、星空が揺れているのが見えた。まるで宇宙にいるのかと錯覚するほど、不思議な空間だった。


清水は岩壁に掴まりながら、4メートルほど下に潜ってゆく。

すると、足先に少しぬるい水があたる。海水だろう。海から逆流してくる海水が、塩分濃度と水温の違いで混ざり合うことなく上下で分かれているのだ。

清水は更にもぐり、ぬるい水の中で水筒の蓋をあけた。水筒の中からは、くらげの子どもたちのような水泡が星空に昇ってゆく。ごぶん、とぽん、と音を立てながら、水筒が水を吸う。水筒が満ちたことを確認して、蓋を閉じた。そしてまた、岩肌に掴まって水面へと戻ってゆく。


どむんっ


背後で大きな水のうねりが起きたような気がした。川魚はそんなに大きくないが、川底の海水で生活している魚たちはかなりの大きさのものたちもいる。その川底の魚たちが、夜に川遊びをしている闖入者を不思議に思って近づいてきたのだろうと思った。


振り向くと、ぬらりとした大きな鱗の生き物が、こちらをじっと見ている。ヒレを動かし、浮遊しながら、こちらをじっと見ている。清水は目を細める。
夜、水中、裸眼だ。
なにかの影がこちらの様子を伺っているのは分かるが、はっきりとは見えない。ヒレを動かしているので、ワニではないことはわかる。


清水は60センチほどの全長のその生き物をしばらく見つめていたが、息が続かなくなったので浮上した。そして息を吸い、眼鏡をかけて、水中をもう一度覗く。暗くてはっきりとは見えないが、その生き物はさきほどの場所からこちらをじっと見つめ、ヒレをせわしなく動かしている。


雲間から月が少し顔をのぞかせた。気になった本のページをぱらりとめくるぐらいの時間、月が川底を照らす。


清水は水中でぶはぁっ、と息を吐いた。


こちらを見つめていたものは、60センチほどの大きさの、青い鱗と緑色の目を持った生き物だった。そしてその生き物は、両手と両足の先のヒレを器用に使い、立ち泳ぎしている。その生き物は、人の形をしていた。


清水は、水上に顔を出し、

「おっ!おい!!見ろよっ!」

と2人を呼んだ。

ふたりは洞窟から顔を出す。

「どうした?」

「見ろよ!!あれ!」

「どれだ!?なんだ?!」

「ほら!水の中!!緑色の目!見えねぇえのかよ!」


清水が振り向いて水中を見ると、月が雲に隠れ、さきほどの生き物は姿を消していた。



「どうしたんだ?まさかワニか?」

渡邉と仲村は清水を引き上げながら訊く。

すると清水は、どう答えたらいいのかわからないといった顔つきでつぶやいた。

「いや、なんか、…見間違いかな、なんか、変な、魚がいたんだよ」


「なんだよ、変な魚って…」

仲村が言うと、渡邉が奥で言った。


「まあいい、おい、冷めないうちに焼き魚食っとけ、あと、海水もらうぜ」


渡邉が清水の水筒を開けて、海水の味見をする。たしかに海水だったようで、彼は何度か頷いて、それぞれの飯盒の中に注いだ。透明な油の浮いた飯盒のなかのスープに、味が足されてゆく。


仲村がうきうきとした顔で焚き火の傍に座り、箸で飯盒のスープをかき混ぜる。唇を火傷しないようにしながら、飯盒のふちに慎重に唇を近づけて、ずずるずると透明な潮汁をすすった。


すると仲村は不機嫌そうな顔で、飯盒を下に置いて、渡邉を睨む。


「おい、渡邉」


「なんだ、口に合わなかったか?」


「いや、凄まじくうまい。戦場だということを忘れるぐらい美味い。飯盒じゃなけりゃ、ここは料亭なのかって思うぐらい美味い。こんなもんを食わせてくれて、ありがとう」


そう言って仲村は大げさに土下座をして渡邉に礼を言った。仲村は鼻で笑う。


清水は体を拭き服を着て、焚き火の傍に来た。渡邉が彼に、切り身の串と、飯盒の潮汁を渡す。清水は浮かない顔をしている。


「で、魚がどうしたって?」


渡邉が汁をすすりながら訊いた。生姜や酒などの臭み取りのものは一切入れていないが、ぬめりを洗い、血を洗って、沸騰したお湯に入れて一気に火を通し、アクをとった。最小限の生臭さと、最大限の魚の旨味で出汁がとれたと、自分で思う。


「いや、魚っていうか、なんていうか、幼児ぐらいの、子供の姿してる魚だった…」

清水がそう言うと、仲村が食いついた。

「あら!それ海童よ、うみわろ。海に出る妖怪で、子供の姿で鱗だらけ。海で泳ぐときに、よく大人に言われたよ、海童がでるぞ!気をつけろっ!って。ま、でも南国の島の奥地に海童がいるわけもねえから、学徒ちゃんのたくましい想像力がそんなものを映したのかもね」

むきになった清水が反論する。

「いや、でも、けっこう長い時間目が合ってたし、月明かりでもしっかり確認した」

仲村がひらひらと手を振って笑う。

「戦闘機が飛んでよ、潜水艦が海底を進んでよ、超特急のあじあ号が陸を走ってるこの科学万能の時代によ、そんなもんいるわきゃねぇだろ、見間違いだろ」


渡邉は黙っている。

わけのわからん、もにゃっとしたラジオや、南国の密林に存在するはずのない松の盆栽や、そして団扇を持った天狗の姿を、渡邉は目撃してしまっている。別に清水を援護する理由もないが、仲村に“ただの見間違い”だと軽く言われると、胸の奥にしこりのようなものを感じた。

ただでさえ戦場で神経をすり減らしている状態で、おかしくならない方がおかしい環境で、変なものを見てしまったことを、否定したい自分と、肯定してしまいたい自分とふたりいる。

だから、仲村のその言い草に、否定も肯定もできない渡邉がいた。けれど、別の方向で話を掘ってみる。


「ここに住んでた島民たちが、いろんなこと教えてくれたって、前言っただろ。ワニのいる場所とか、食える植物とか、危ない虫とかよ。
で、島民があることを言ってたんだよ」


なんだよ、あることって、と、清水が興味を持つ。


「海や、川の中にいるらしいんだよ。
“ショコイ”っていう妖怪がよ。人を引きずりこんで、食うらしいぜ…全身鱗で、子供みたいな背格好なんだとさ…ほら!仲村!危ないっ!!!」


仲村の背後を指さしながら渡邉が言うと、仲村は20センチほど飛び上がった。それを見て、渡邉が笑い、清水が忍び笑いをする。


「渡邉上等兵殿、そ、それはちょっと、こういう場所ではちょっと、洒落になりませんよ、上等兵殿」


なんでいきなり丁寧になってんだよ、とかなんとか言いながら、3人の食事の時間は過ぎてゆく。そうやって普通の会話をしていると、清水も、もしかしたら南国の魚を見間違っただけなのかもしれないと、思いはじめた。



川面から、3人を見つめている緑の目の生き物。
幼児のようなその生き物が、ゆっくりと川に潜ったことには、誰も気づかなかった。



「さてと、じゃあ、阿波狸合戦も、まもなく大詰めですよ、おふたりとも。やっぱりこう、タバコなんぞいただけると、こう、話し甲斐もあると申しますか、嬉しくて飛び上がろうというものでございますけれども、その、おふたりとも、余っているタバコなんぞありましたらね、ぜひこの仲村めに、与えていただきたいな、と、そう思っている次第でございましてですね」


渡邉は胸の隠しから一本タバコを取り出して仲村に渡す。

仲村は清水を見るが、

「俺は吸わないから、とっくに小隊のやつらにやっちまったよ」

と彼は言った。


「それじゃあ仕方ありませんね、じゃあ、学徒さまには貸しがひとつということで。それでは、こほんっ、お話をさせていただきましょうか」


仲村は洗った飯盒で沸かしたお湯を、飯盒の蓋に注ぎ、一口くちに含んでから話し始めた。講談師や落語家の湯呑を模しているのかもしれない。


「さて、勝浦川より大鷹を連れ帰った金長一行。

金長を一方的に逆恨みして寝込みを襲おうとしたこと。そして追手の四天王たちが4対1で大鷹を殺したこと。

このふたつだけでも、小松島のたぬきたちを奮い立たせ、打倒!津田の六右衛門、という心持ちにさせたわけでございます。

けれども相手は津田の六右衛門。阿波を束ねる元締め。手勢のたぬきの数はざっと600。

小松島のたぬきは250。数で見れば、返り討ちに遭うのは目に見えています。

しかしこのまま放っておいては、いずれ金長やほかの阿波のたぬきたちも、逆恨みの末に殺されるという運命が待ち受けておるわけです。

金長、信頼のできるたぬきたちに便りを飛ばし、集まってくれるように頼みました。

さて!金長のもとへ集まってきた、たぬきたちのご紹介でございます!」









「金長の旦那!きいたぜ!大鷹がやられたってな…ちっくしょう六右衛門のやろうめっ!力にものを言わせて汚えことしやがって!!この庚申新八っ、旦那の方につくぜ!!!」


もしサポートして頂けた暁には、 幸せな酒を買ってあなたの幸せを願って幸せに酒を飲みます。