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岩倉曰の短歌アイ—岩倉曰第二歌集『ハンチング帽のエビ』を読む


▼かづみ的岩倉曰の短歌論

 いつから岩倉曰の短歌に注目し出したのか、記憶にない。
 いつTwitterをフォローしたのか、いつ短歌と作者名をセットで意識するようになったのか。
 
 ここ数ヶ月、岩倉曰の短歌がTwitterで流れてくると、つい引用リツイで一言感想をつけている。岩倉曰がどのタイミングでその日の一首を流しているのか、知らない。Twitterを眺めているところに、その日の一首が流れてくると「おっ」と反応するだけだ。毎日定期的に流しているのかもわからない。岩倉曰のアカウントまで確認しに行くことはない。でも、いつもその日の一首を確認できている気がする。そんな距離感だ。
 
 岩倉曰第二歌集『ハンチング帽のエビ』が上梓されたことも、岩倉曰のツイートで知った。その頃には充分岩倉曰ファンだったが、すぐに購入しようとは思わなかった。わたしにとって「岩倉曰の短歌」は、常に一首だけを味わうものだった。そして、その一首だけで「ええもん読んだ」と満足を起こすものだった。歌集のようにまとめて読むのはなんか違う…勝手にそのように思い込んでいた。第一歌集『harako』が出ていることを知っていたのに、手を出していなかったのも同じ理由だ。
 
 しかし、岩倉曰のツイートで第二歌集が「残り30部」と宣言された時、無性に焦りを感じた。川柳句集と同じで、自費で出される歌集も一旦売り切れると入手が難しいに違いない。買ってしまった後悔は一瞬だが、買わなかった後悔は一生だ。ポチッて二日後に歌集は届いた。お洒落なカバーを纏った文庫サイズの歌集。一ページに、多くて6首。ぎっしり詰まったページに構えながら読み始めた。
 
 冒頭からの「フードフードフード」「塩味」の4ページを読んだ時点で、これはとんでもない歌集だと気付いた。これを買って後悔する? 何て馬鹿なことを思っていたのだろう。むしろ、これを買わずに後悔する人たちを救わねばならないのではないか、という気持ちが沸き立った。反射的に「今すぐ買え」「短歌知らなくても買え」ということを丁寧な言葉でツイートしていた。
 
 岩倉曰『ハンチング帽のエビ』は、「すぐれた短歌を集めた歌集である」という流れでは語れない。実は、岩倉曰の短歌が、「短歌としてすぐれてる」と言い切っていいのか、門外漢のわたしとしては判断しかねるところもある。だが、「この世を味わうために、短歌というのはこんなにも優秀なツールだったのか」と気付かされる作品たちなのである。これは、他の歌人たちの歌からは見えてこない機能だ。
 
 岩倉曰の短歌で、わたしが一番感銘を受けるのは、「誰もが見えている風景で、誰もが当たり前すぎて見過ごす風景から、ドラマを引き出す作品」だ。それは、ドラマを創出するのではない、そこにある風景が持っている意味のポテンシャルを「引き出す」のだ。すでに見えている風景だから、岩倉曰の短歌で指摘されると「ああ、そうだ」とその風景の意味に気づく。それは一種の「あるある」を指摘する行為と似ているかもしれない。
 
 だが、いわゆる「あるある」が多くの人たちが薄々気付いていることを言語化するのに対し、岩倉曰の短歌は意識してなかった目の前の事実を突きつける。創作者の一人として「わたしはすでに見ていたのに、何故それが見えていなかったのか」という恥かしさを感じる時もある。けれど、岩倉曰の作品群を読んでいけば、もうこの「岩倉曰の短歌アイ」を通してこの世を楽しむことしか考えなくなる。
 え、それをそう見るの。ああ、それはそう見ればそうなるんだ。何もないと感じた平凡な風景は、「岩倉曰の短歌アイ」でたちまちカラフルな遊具を揃えた遊園地変わってしまう。歯ブラシの間で乾いてるネギ、カニカマを取り出したあとのビニール、故障した押しボタン式の信号…こんなものたちも「岩倉曰の短歌アイ」を通せば、楽しむしかない魅力を湛えたサムシングになってしまうのである。
 
 でも、そのことで岩倉曰が「平凡な日常に楽しみを見つける達人」だと言うつもりはない。むしろ、短歌の内容から感じるのは、生き方が少し無器用な主体の姿である。岩倉曰短歌の主体は、中央で華やかに振る舞うグループにはいない。そこから距離をとった、やや隅に近い場所にひっそりとたたずんでいる印象だ。その位置だからこそ、見えた風景だと思わせられる作品も多い。
 
 また、岩倉曰短歌の魅力は「比喩」の独特さと絶妙さにもある。どうやったらこの比喩まで「飛べる」のだろうとたびたび驚かされる。そして、いかに人(もちろんわたしも含め)はありものの比喩に頼りがちになっているかを思い知らされるのだ。
 
 作品の全体を通して、岩倉曰の短歌はユーモアに満ちている。自分が明るくあろう、読む人を笑わせてやろうというユーモアではない。人と人が対面する時に必要とする潤滑油のようなユーモアだ。岩倉曰の照れ隠しのように感じる歌もないではない。しかし、顔と顔を合わせたときに、本能的にはにかんでしまう岩倉曰の優しさなのではないかと思う。
 作品のいくつかは、内容的にハードで重いものもある。その時にもユーモアは漂っている。ハードな内容を和らげるためのユーモアではない。ハードで重い内容に、「読んだ人が泣かないように」と配慮したゆえの結果のように思うのだ。
 
 と延々わたしが語るより、岩倉曰の短歌を読んでいただくのが一番早い。

 岩倉曰さんのお許しを得て『ハンチング帽のエビ』から短歌を引かせていただく。わたしの感想は蛇足かもしれないが、1人の読者の受け止め方として合わせて読んでもらえれば幸いである。

▼岩倉曰歌集『ハンチング帽のエビ』より抜粋

元気ですか 鍋も洗わずラーメンを一度に二つ茹でていますか/岩倉曰

・今は遠い所へ行ってしまった友達へ。主体は、その友達にいつも「洗わない鍋」で作ったラーメンで歓待されていたのだろう。あなたは変わらずあなたのままでいますか、一緒にラーメンを食べてくれる友達は出来ましたか、という呼びかけが優しい。

わかるわの声のひときわ大きくてむしろわかって欲しいのだろう/岩倉曰

・大勢の客でにぎわう居酒屋で、急に響いた「わかるわ!」という女性の声。「誰かに強く共感している自分」をアピールし、「こんなにも他人思いの自分」を受け入れて欲しいという希求。その切なさ。離れた席に座っている主体は、声がした方をちらりと見ただけで、あとは淡々と酒を飲んでいる。

濡れているベンチに誰も座らない泣いたらみんな離れていった/岩倉曰

・上の句で「そんなの当たり前じゃん」と思ったら、すぐに下の句で口をふさがれてしまう。下の句についても「当たり前」と言い切る勇気はない。でも、そうなることもまた真実。慰めを求めているのではない口調に、いっそうの悲しさを感じる。

わたしよりずっと近くで猫を撮る高校生の大きな荷物/岩倉曰

・主体もその猫を撮影していたのだ。しかし、逃げられるかと思い、距離をとって。高校生は、逃げられることを恐れず、体勢をとるのに邪魔な荷物もものともせず、果敢に猫に挑んでいく。「鞄」ではなく「荷物」としたところで、高校生の姿がくっきりと浮かび上がっている。

おにぎりの何%を落としたら「おにぎりを落とした」っていうんだろう/岩倉曰

・言われてすぐには答えられない。少しだけ落としたなら「ご飯が落ちた」だもの。だからどうしたという疑問に「何%」という硬い表現を使っているのが手柄。

花束とニラ束がありニラにするあなたもそうするだろうと思う/岩倉曰

・人生で花束とニラ束の二択を迫られる機会はおそらくないだろうが、メタファーとしても楽しい具象だ。主体が「あなたもそうするだろう」と思うとき、その「あなた」への深い信頼を感じる。この世に起きるどんな二択を突き付けられても、主体と「あなた」は同じ選択をする。答え合わせをすることはない。だが「あなた」もニラを選ぶとき、主体がニラを選んでいると確信していたりするのだろう。

「あんな人やめときなさい」のあんな人ですがトイレを貸してください/岩倉曰

・お付き合いしている方の親御さんに挨拶に行った時の一場面か。相手と親御さんがふいに席を外し、二人がこっそり裏でしている会話が聞こえてしまった。でも、そこで怯むわけにはいかない。事態は急を要しているのだ。トイレ、どこですか。

あの産湯気持ちよかったですよって言わないところが赤ちゃんだよね/岩倉曰

・他人を無責任に褒める(あるいは皮肉を言う)フォーマットに、ありえない赤ちゃんネタを盛り込んだ一首。「あの報告書よく出来てたねって言わないところが、課長だよね」と比べると味わいがわかりやすいかも。

かなしいはかなしいけれどエビチリを出されたらもうエビチリだった/岩倉曰

・Twitterで見たとき、死ぬほど笑った一首。そうなのよ、かなしい気持ちは消えてないけど、好物が目の前にきたらもう気持ちがそちらに向いてしまうのが人間なのよ。美味しい料理を食べたら、少しはかなしい気持ちも薄れるかしら。

しまむらで買った服ほど長く着る二人は生涯親子であった/岩倉曰

・この歌は、ぜひ『ハンチング帽のエビ』の<二人以上で暮らしていたら>の連作の流れて読んで欲しい。わたしは涙が滲んで仕方なかった。

▼最後に。

 『ハンチング帽のエビ』の収録数は600首ほど。上記わたしセレクト以外にも、もっともっと楽しんでもらいたい歌がたくさん収録されている。
 最後にあとがきから一言。
「この本がいい感じに売れたら、大好きな人とお寿司を食べたいです」
 どうぞ岩倉曰がお腹いっぱいお寿司を食べられる状況になりますように。
 
(終わり)

#短歌 #岩倉曰 #徳道かづみ

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