他人の基準にとらわれている自分(旧:やりたくても躊躇すること)
自分はなぜこんなに生きにくいのか?
その理由を考えてみた。
真っ先に頭に浮かんだのは、「こんなことをしてはいけない。」とか、「こんなことをしたら、他人からどう思われるだろう。」ということを常に意識しているから。というものである。
他人から見たら、「そんなのどっちでもいいじゃん。」と思うようなことでも、自分はそう受け流すことができない。
簡単な例を挙げると、自分は自分の事を、会社などの公の場で「僕」ということが出来ない。それから、家族との間で、自分の事を、「俺」ということもできない。
会社や公の場では「私」、両親に対しては「自分」、家族に対しては「パパ」と言ってしまう。(家族に対しては、本当は「お父さん」と言いたいが、そう切り替えるタイミングを逸してしまった。)自分の事を「僕」や「俺」と言うことに、罪悪感と言うか、違和感というか、羞恥心というか、複雑な気持ちが沸き上がり、その単語を発することが出来ないのだ。
そして、自分以外の人間が、自分の事を会社や公の場で「僕」と言ったり、家族や両親に対して「俺」と言っていると、腹立たしさや批判の念が沸き上がって来てしまう。
いい大人になって、会社で人の上に立つ人間が、自分の事を「僕」などというのは非常識な人間だ。部下の自分がちゃんと「私」と言っているのになぜあなたは同じように「私」と言わないのですか!(心の声)
他にも、朝公園を散歩していて、マスクをせずにジョギングをしている人を見ると、「息を切らせて走っていたら、飛沫が飛ぶというのに、なぜマスクをしないんだ。全く人の迷惑を考えない自分勝手な奴!」と思い、腹が立ってしまう。
現在は、日本政府すら、「熱中症予防のために、屋外など十分に人と人との距離を確保できる場合はマスクを外すことをお勧めします。」と言っている現在でも、自分はマスクを外さないため、マスクをしていない人間を見るとどうしても批判的な目を向けてしまう。
また、テレビでお笑い芸人がバラエティ番組でボケと突っ込みで出演者一同が爆笑しているような場面で、自分以外の家族が「可笑しい!」といって笑っていても、自分はなぜか腹を抱えて心から笑うことができない。
何だか分からないが、自分が馬鹿笑いをしているところを家族に見られるのが恥のような感覚があり、その場面を想像すると、自分が笑っているのを見られたくない。という気持ちになってしまう。
写真を撮られることも正直苦手だ。口角をあげて歯を見せて笑顔をすることが出来ない。無理に歯を見せて笑おうとすると、頬が引きつって痙攣してしまうのだ。
また、写真で自分の顔を見るのも嫌いだ。今時、SNSでは自分の顔をプロフィール写真で公開して顔と名前を積極的に晒している人達が多いが、自分は人に見せられるような顔でもないし、第一自分の顔が嫌いだ。なので、自信に満ちた表情で写真を載せている人達が羨ましい。
自分はなぜこんなに窮屈な考え方をする人間なのだろうか・・・。
よくよく考えてみると、自分は他人が設定した基準を満足することに常に囚われている。そして、その基準を逸脱することが悪であるかのごとく刷り込まれてきた。
例えば、一人称としての「僕」、「私」だが、就職活動時は、自分の事を「僕」というのは一般常識を知らないとか、幼稚であるため使わないこと。と教え込まれていた。
また、会社に入って新入社員研修でも、自分の事は「私」というのが常識だと教え込まれた。
しかし、世間を見てみるとどうだろう?
名の知れた大企業の社長ですら、自分の事を「僕」という人間は多くいる。採用面接で自分の事を「僕」と言う候補者を「非常識だ。」と評価している会社のトップが自ら公の場で「僕」と言っている。中間管理職でも、自分の事を「僕」という人間も沢山見てきた。それってズルくないか?
自分は、幼い頃から母親に厳しくしつけられてきた。
県庁所在地ではない小さな田舎の市に転勤族の子供として社宅に住んでいた自分の周りには、その地に長く住んでいる地元住民の子供達がいて、同じ幼稚園、同じ小学校に通っていた。
地元の子供達は、その地域の訛った言葉を話す。友達と遊ぶと、自分もそのような言葉を覚えてくる。しかし、社宅のベランダでその様子を見ていた母親から睨まれ、呼びつけられると、「そんな汚い言葉を覚えてはいけません。あなたはいずれ県庁所在地にある学校に入るんですよ。」と言われた。
まだ幼い自分は、母親の言うことは絶対的に正しいと信じていた。だから、そう言われた後は、意識して標準語を話すようにした。
それ以外にも、母親からは常に、「人様に迷惑を掛けることをしてはいけません。」、「自分の事を「俺」と言ってはいけません。」、「ドリフターズの番組は下品で馬鹿になるから、あんな番組は見てはいけません。」「ひょうきん族なんてくだらない。」、大流行していたある歌手の歌声を聞き、「あんなガラガラ声の歌の何がいいんだろう。」など、自分が興味を持ったことや、その当時の世間の流行などに対して、批判的で受け入れようとしなかった。
自分は次第に、そういうものなんだな。という感覚を植え付けられ、あれもダメ、これもダメ、こういうこともしてはダメ・・・。と、自分が興味があることややってみたいことを我慢し、母親から認めて貰えるように振舞うことが当たり前と思う子供に育って行ったような気がする。
まだ小学生や中学生の内は、親の期待に応えることも出来たが、高校生、大学生、社会人・・・となっていくに連れて、努力をしても必ずしも自分がこうならなければならない。という目標を達成することが困難になってきた。
すると、どんどん自分に対して自信を失い、やりたいことがあってもそれを達成できない自分が能力の低い人間に思え、成功して評価されている人間を見ては妬んだり、自分自身に対して失望し、ひたすら他人からの評価を気にして自分がやりたいこと、言いたいことを抑圧する修行のような人生を歩んできた。
こんな状況から何とか逃れたい、解放されたい、という思いから、今読書中の本がある。
この中で、まさに自分がこの状況だよな。
と思う内容があったので以下に引用する。
現実にふさわしい「自分基準」の更新ができないまま、自分は「暫定基準」にがんじがらめにされている。
如何にこの状況を脱するか、同書を読み進めたい。
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