No.955 セラピストに求められるもの、、この問いに、”それはただ一つ、純粋な私であることだ”と即答する…

先週の土日は久しぶりにゲシュタルト療法のトレーニングコースへとお邪魔した。こんな日々はストレスも感じない。

そこにあるのは、ワクワク感である。

セラピストに求められるものを一つ挙げなさいと問われれば、それはただ一つ、純粋な私であることだと即答するだろう。

先日、福岡でのトレーニングから帰り、この2日間の私自身の在り様を反芻してみた。

特に、セラピストとしてクライエントに向き合っている時の私の在り様はどうだっただろうか、、と。

全体的には自然体であったとは思うのだが、まだまだ私のありのままを曝け出していない場面もあったなと感じる。

クライエントが何か混沌とした中にいる時、私自身はどうだったろうかと、その場面を反芻してみる。

すると、焦りを隠している自分が浮かんでくる。そんな時、セラピストの私とクライエントは繋がっていない。

セラピストの私がクライエントの世界を共に歩んでいないのだ。
セラピストである私は私の世界に閉じこもり、クライエントの世界をイメージできていない。

このことが大きなセラピスト側の間違いであるのではない。

誰しもこういうことはある。セラピストも人間であり、間違ったり、誤ったり、悩んだりするのだ。

だから、このようなことがセラピストへ起こった時、純粋な私に戻れるのかということである。

私の大きな間違いは、その時、純粋な私でなかったことだ。

もしその時に、私が純粋な私としてクライエントの前にいたなら、いや、純粋でない私に気づいたなら、私は私の世界へと閉じこもった私から、開かれた世界へと戻ってきたはずである。

例えばこんなことだ。

もし、セラピストが純粋でない私に気づいたなら、”今あなたがどんな気持ちなのか、どんな感覚なのか、私には理解できてないんだけど、教えてもらえますか”、又は”今私は混沌とした、よくわからない感覚があるのだけど、あなたはどんな感じですか”、など、私自身を正直に開示したであろう。

上手くいかないセラピーには必ずと言っていいほどに、このセラピスト側の態度が欠けている。

私のこれまでの経験からそう確信している。
このことによって、一度途切れたセラピストの世界とクライエントの世界の繋がりが再開する。

セラピストはクライエントのことを理解する必要がある、一方でクライエントもセラピストの世界を理解した時、そこには信頼という繋がりが生まれる。

そうか、セラピストもそんなことを感じていたのか、、

このクライエント側の理解はセラピストへの信頼とともに、クライエント側の感覚へも直接働きかけることとなる。

例えば、”今私は混沌とした、よくわからない感覚があるのだけど、あなたはどんな感じですか”とセラピストが正直に自分自身を開示した時、クライエントは自分自身の内面にセラピストの感覚を取り込むこととなる。

この場合だと、混沌とした、よくわからない感覚というものをクライエントの感覚へと取り込み、クライエントが感じている感覚と照合することが可能となる。

このことにより、クライエントの感覚がリアルに、実感として浮かび上がってくる。

私にも混沌とした、よくわからない感覚があるな、とか、私の感覚は霧の中にいて、前が見えない感覚だな、とか、何か実感として理解できなかった感覚が浮かび上がる。

そして、その気づきによって、これまで行き詰まっていた感覚が前進する。

もし、セラピスト側が私はセラピスであるから、クライエントへ弱さを見せてはいけない、クライエントへ間違ったことを言ってはいけない、などと感じていたなら、いつまで経ってもこのセラピーは上手くいかない。

セラピストを鏡として、クライエントも上手くやらなければならない、セラピストに迷惑をかけてはいけない、という感覚がどこかで起こってしまう。

これにより、互いに良いセラピストと良いクライエントという関係の中で、本当の感覚は生まれてこないだろう。

セラピーの場において、必要なことは、クライエントが正直に自分自身の気持ちや感覚を話せるということである。

正直でないセラピストの前でどうして、正直な私をオープンにできるだろうか。

セラピストはセラピストである前に生身の人間である、そして、クライエントもクライエントであり、生身の人間であることを忘れてはならない。


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