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[diary]08/06 おばけ、いるよね、という話

私の母は「視える」人である。――などと言うと、冷笑されたりバカにされたり警戒されたり、マイナスな反応がかえってくることのほうが多い。
前向きな反応も偶にはある。が、「面白い話が聞けるかな」と目を輝かせる人の期待に添えるほどの、面白エピソードも、特にはなかったりする。

たとえば、母が若かりしころ下宿していたアパートでの話。
ベランダへ出る窓のカーテンの陰に、真っ黒な人(の、ようなもの)が佇んでいた。口もきけないほどびっくりしていると、その影はふらりと部屋をつっきり、玄関のドアを突き抜けて外へ出て行った。びくびくしながらふと窓の外を見下ろしてみたら、面した通りで死亡事故が起きていた。
とか。
その程度の軽い(?)話しかないのだ。
そういうわけで、前のめりな人からの反応も、最終的には芳しくないものになってしまう。

懐疑的な人々は、大抵「ただの思い過ごしでしょう」と笑う。あるいは「それは●●の働きが作用してどうこう」とか。
そうかもしれない。けど、だったらなんだって言うのだ。たとえメカニズムがそうだとしても、見えてしまっているという事実の根本的な解決にはならない。(母は自分のそういう体質をたいそう嫌っている。)
そうやって、何かしらジャッジを下そうとしてくる反応があまりにも多く、しかもその大半が無意味で鬱陶しい。
なので、母本人は他人にそんな話をしない。同様に私も、母のそういう体質を他人に明かすことはまれだ。

それでも、何度かその体質に重宝したこともあった。
私は幼いころから身体が弱く、何もなくてもすぐに熱を出した。38度とかその程度なのだが、学校から連絡が行って家に帰される。母は専業主婦をしていたので大抵いつでも家にいたが、それにしても迎えに来るのが迅速だった。
私が発熱すると、大体わかるのだそうだ。脈絡なく、「あ、ヤツは今熱を出した」と思うらしい。そうすると大体、1~2時間後に連絡が来る。だから その間に準備ができるのよね、とケロッとした顔で言っていた。
祖父や祖母が亡くなったときも、誰も予想していないタイミングなのに、気味の悪いほどピタリと言い当てていた。
でも、まあ、それだけのことだ。
良いとか悪いとかじゃなく、母は「そういう人」だというだけなのである。

おばけを信じるか、と聞かれたら、今は素直に「いると思う」という。
信じる、というのは何か違う感じがする。いて欲しい、というのとも違う。
信じる、というと、かなり力が入るかんじがする。いてほしい、もそうだ。欲しい、に力が入っている。
でも、もうちょい自然に。あくまで、いるんだろうなあと「思う」のだ。
狸や狐が化かすのも、「まあ、化かすんだろうなあ」と思っている。神様も、唯一神とかかはわからないけど、なにかデッカい存在はあるんだろうな、と思う。
「まあ、いるんだろうなあ」の「まあ」に、万感が籠る。
そこに、根拠とか、理屈はない。
ふだんは理屈っぽいくせに、そこだけエアポケットみたいにすとんと抜けるのが、自分でも面白い。

若い頃は違った。
もう少しかっこつけて、「わからない」と言っていた。
たぶん、「いるんだろうなあ」と“思う”自分が、ちょっと信用ならなくて怖かったんだろう。軽々に「いる」と言って、妙な宗教とか、勧誘とか、そういうマズいものにハマったらかっこ悪いなと計算していたフシもある。

最近は、そういうのに蹴つまづく可能性も含めて、「まあ、それでもいいのかな」と思いはじめている。
が、それは、見栄を張る筋肉がどんどん弱くなっているだけであって、決して賢くなったとか、真実に近づいたとかじゃない。
単純に、老いの小さなワンステップの成果として、不思議なモノのそばに近づいている。そんな気がする。
そうやって人は、少しずつ、少しずつ、この世から遊離していくのかもしれない。
学校も試験もなんにもない、にむかって。

ちなみに、娘の私はまったくオバケなど見えない、いわゆる零感というやつだ。むしろオバケに嫌われている、と指摘されたこともあるので、恐らくなのだけど、岩井志麻子さんレベルでマイナスな可能性もある。
にも関わらず、いやだからか、怖い話が大好きだったりするからタチが悪い。加えてめっちゃくちゃに恐がりで、怪談実話本を好んで読むくせに、読んだその夜は電気を消しては眠れない。
こういう人間がオバケになってしまった場合って、自分のことも怖くなったりするんですかね……。それはちょっと、やだな。