ついたちとふつか

大晦日、わたしにとってゆいいつテレビを見る日みたいになってきた。紅白を垂れ流していた。どの歌手も、どの歌も、はみ出してる気がしてたけど誰かが受け入れてくれたとか、赦されたとか、仲間ができたとか歌うなか、椎名林檎だけが「あなたに愛して貰えない今日を正面切って進もうにも難しいがしかし」と煩悶しつつ「それは人生 私の人生 誰の物でもない 奪われるものか」と見得を切ってみせる、そのタイトルが『人生は夢だらけ』。ぼうっと眺めていたけど、林檎姐のあいだだけはばしっと目が開いた。うわーめっちゃエンタメやん、かっけーと笑顔になりつつ、そういや『人生は思い通り』って曲もあったよね、姐さん、って思い出したりした。あれもなかなかにねじくれた歌でしたね。

元日はよく晴れていて、氏神様のお稲荷様に初詣にいくついでに、某駅前まで散歩に行った。人はほとんどいなかった。デパートも休みだからだろう。今でこそ休日になるとわんさか人がやってきて、悪いインターネットの人たちに「人生が正しくない人お断り」の土地、とか揶揄されたりしてるけど(すごくいやだ)、むかし――二十年以上前はいつもこんなかんじだった。まだ垢抜ける前の東急ハンズがあって、すごく便利で、なぜか犬と猫も売ってて、雑種の仔犬・オスを3,000円で買ったことがあった。というのも、その頃祖父がずっと飼ってた犬を亡くしてしまい、なんとなくしょんぼりしていたのだ。あたらしい犬をあげれば元気になるのではという子どもの恐ろしく短絡的なアイディアに、よく母が乗ってくれたなと今では思う。母も私も犬が好きで、でも私が喘息でどうぶつは飼えなくて、だからもしかしたら理由はあとづけで、ちょっとだけでも犬と暮らしたいとか、そういう下心だったのかもしれない。
3,000円の仔犬は、茶色で、耳がちょこんと折れていて、鼻のあたまがまっくろな、性格のやさしいおおらかな犬だった。数週間、東京のうちでお世話して、それから新幹線で祖父の住む東海の地域までいっしょに行った。許可とったりするのはたぶん母がやってくれたんだと思う。キャリーのなかでくぅくぅ鳴く声は、まだなんだか覚えている気がする。その犬も、ずいぶん昔に亡くなった。

今日は、デパートの初売りにくるヒトビトを見たいと母が言い張るので、午前中は頼むからやめて(福袋ハンターたちは真剣なので本当に怖い)と懇願して、午後の二時すぎから出向いた。地上はそこそこの人出だから、なんだあ大したことなかったねと笑って地下に潜ったら人が轟々と流れていて、母も私もものの五分で具合が悪くなってすぐに撤退した。おかげでいま猛烈に眠い。

書きたいものがあるのに、書こうとすると動悸がひどくなったり、書けないというレベルじゃなくPCのうえで手がこおりついたように動かなくなるのは、なんなんだろう。考えているのがばからしくなって手を動かすけど、にっちもさっちもいかない。1,000字書ければいいほう、みたいな日が圧倒的に多い。書いては消して、を繰り返すうちに、なんとなく見えていたはずの姿がふわっとゆらいで消えてしまう。勢いよく上手くいってるときも、唐突に「あ、これじゃダメだ」と気づいてしまう。全部消す。何をしてるんだろうなあ、と落ち込む。

友人の絵が好きで、彼女がまいつきネットプリントで配布しているカレンダーが、わたしの机のうえには常にある。今月は足踏みミシンのイラストで、黒鉄のペダル部分の光沢が、こわいくらい艶やかだ。ほぼ白黒なのに、ちょっと前は「できない」と言っていた立体感・奥行きが、見事に表現されている。彼女みたいにやれたらなあと憧れる。彼女は努力するひとで、私とは桁違いで、私はそもそも努力したことないんだよなあ。と一人で悶々としていたら、豊崎社長が同じようなことをツイッターでつぶやいていらして、「そんなあ」と思った。「頑張ったことはあるけど、努力したことない」と。そう、それ。がんばるけど、努力したって実感したことがなくて、たぶんそれはなんか違うんだよ、それじゃダメなんだよな。ってところで思考が停止する。努力ってどうしたらいいんだろう。

明日は予定のない、ただの休み。また書く。書けなくても、書く。はあああ。

というわけで、本年もどうぞよろしくお願いいたします。(言ってなかったよね?)