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[movie]『グッバイ・クリストファー・ロビン』('17)ー残酷な神が支配する

「家族のことは、家族にしかわからない」。
問題があると指摘される(児童虐待などに対して、この考え方は大きな障壁となる)ことも多いこの言葉は、しかし一面ではまぎれもない事実でもある。
外から不幸にみえたとしても、その中に確かに存在した喜びや、あきらめの同居する許しの気持ちそれ自体を否定することはできない。
虐待する親であっても、ともに在りたいと求めて手を伸ばしてしまう幼子の、祈りのような願いそのものを、正しいとか間違いだとかいう軸で断じることは、誰にもできない。
この映画は、そういう話だ。

「つくりもの」が壊れるとき

本作を観ていてまっさきに面白いなと思ったのが、「絵本の挿絵みたいな、つくりものめいた画面」だった。
映画の1/3が過ぎるまで、画面はどこまでも嘘っぽい。唯一なまなましい戦場のシーンが映し出されるのはものの数秒で、すぐに華やかな社交界や、お金持ちの邸宅に取って代わられる。
そのどれもがまるで「絵のよう」に美しい。そこに立つ登場人物たちも、やはり「絵のよう」だ。髪の毛一本乱れず、美しい服をまとい、しゃれた台詞ばかりを口にする。

ストーリーが進み、ブルー(ドーナル・グリーソン)一家が片田舎に引っ越し、妻ダフネ(マーゴット・ロビー)が家を出て、乳母ヌー(ケリー・マクドナルド)が暇を取り、息子ビリー・ムーン(ウィル・ティルストン)と二人取り残されたブルーの日常が展開する段階になると、映画にもほんの少しだけ「リアル」が訪れる。
ブルーの髪型は少しだけ乱れ、走れば靴に泥がつき、ズボンにも皺が寄る。
しかし、この段階でも違和感はまだ残っている。
ビリーはいつまで経っても見た目が変わらず、ずっとかわいらしい少年のままだし、彼が寂しさを感じているのはずの場面で、華やかな画面に引きずられるようにして軽快な音楽が流れたりする。
こうした小さな違和感は、ビリーの引き延ばされた少年期が積もり積もった歪みに耐えきれず決壊するシーンまで漂い続ける。
そして、次のカットに切り替わった瞬間、ビリーは唐突に「大人」の見た目になるのである。(ちなみに、成長したビリーを演じているのがアレックス・ロウザーだった。「このサイテーな世界の終わり」の主役の子。めっちゃびっくりした。)

もちろん、こうした画づくりは意図的なものだろう。映画の後半で語られる「創作の犠牲者」というテーマに直接リンクしていくからだ。
「絵のように」美しく語られてきたお話の違和感が暴かれるとき、「現実」の痛みが剥き出しになる。こども然としたビリーが唐突に大人の姿に切り替わるグロテスクさは、そのままビリーが子どもとしての成長期を強制的にスキップさせられたことを表している。
映画は、画面そのものでもって、残酷な事実を体現して見せるのだ。

『くまのプーさん』といえば、この映画には直接登場はせずとも、どうしてもディズニーとのあれこれも過らざるを得ず、芋蔓式に『ウォルト・ディズニーの約束』('13)を思い出してしまうのだが、あれがどちらかと言えば陽性の物語だったのに対し(ディズニー資本であるにも関わらず、限界を少し踏み越えてみせるような爽快さと諧謔があって、私はとても好きだった)、『グッバイ~』はその足元で生け贄となっていた者たち、いわば創作の代償に焦点を絞った物語とも言えるだろう。

弱さへの生贄

先ほど「生け贄」と書いたが、本作はまさに「人間の弱さに捧げられる続ける弱者」についての物語である。
ゆえに、わかりやすい悪役はいない。
映画には戦争の傷が大きく影を落としているが、それだけではない時代の流れに翻弄される人間の悲しさが描かれる。

筆頭がブルーの妻・ダフネだ。
「この家ではめそめそしないで」という鉄の掟を振りかざし君臨する彼女は、本作においては、ほとんど悪役とすら言えそうな存在だ。
だが恐らく、彼女は彼女なりに夫を愛している。
ダフネが豊かな上流階級の出であることは、社交術に秀で、立ち居振舞のすべてが贅沢に洗練されきっていることなどから明白である。
つまり、彼女は、彼女が学んだ方法で、「当時のあるべき上流階級の家庭」を維持しようと腐心しているのである。すなわち、「夫をプロデュースすること」そして「外面を乱さないこと」によって。
それが当時の主流だったのか、あるいは彼女(の家)の信条だったのかはわからないが、とにかくダフネは己の信じたものを貫いた。そのためには、母になることを拒否することさえも辞さなかった。(身分の低い乳母に「牛」と罵られても、外面を取り乱さずにはいられないであろう母親という役割を拒絶し続けたわけで、何がなんでも信条を曲げなかった強さと覚悟のほどには驚嘆せざるを得ない。)
演じるマーゴットの作り物めいた美貌と、そこに時折入る罅割れのような哀しみの演技が、とにかく素晴らしい。
彼女の哀しみは決してオーバーフローすることがなく、劇中ただ一度、ままならなさを爆発させるに留まるのだが、当該シーン(「それでも父親なの!」)ですら、意図的にカメラがブルーを追うことでぶつりと断ち切られてしまう。それは監督の情けなのかと思えてしまうほどにダフネは強く、そして弱かった。

対する夫・ブルーもまた、時代の要請に応えられないことで自身を追い詰めていく。
彼は、繊細で臆病な男である。自身の殻から出てくることがなかなかできず、すぐに内に閉じこもる。しかし、ただ男性であるというだけで、自身に釣り合わないもの(兵士、一家の主、父、社交家)を一手に引き受けざるを得ず、結果さらに内に籠る。
真実を見通す賢さを持ちながらも、その繊細さが仇となり、大事なことを口にするタイミングがいつも一足遅い。それが悲劇に繋がる。
弱さゆえに揺れる人間を演じさせたら天下一品のドーナルが、今回も素晴らしい仕事をしている。
作り物のエリートの顔、PTSDで精神が半壊した顔、他人を拒絶する臆病な顔、分厚い殻の奥に隠された繊細でやさしい顔、親になりきれない人間特有の、無邪気なこどものような顔。いくつもの表情を自然なグラデーションで演じ分け、ブルーという複雑な作家に、魅力的な厚みを与えている。

そして、そうした「弱い」大人たちの、あるいは創作の熱狂(と、ひたすらにわかりやすい物語をもとめてやまない観客)の犠牲になったのが、息子・ビリー・ムーンだった。
彼は、(当時上流階級において両親とはあまり接触せずに乳母に育てられることはさして珍しくないとはいえ)その特異な環境において両親を奪われ、少年期を奪われ、愛した思い出のみならず名前まで奪われそうになる。
さらに、ゆいいつ傍にいてくれた愛する人・乳母ヌーも去ったことで、彼は幼年期に「人はみな孤独である」という事実を嫌というほど叩き込まれてしまう。
そんな彼が救いを求めたのは、個々の人間性を根こそぎ奪う「戦争」だった。
なによりも彼が求めて止まなかった両親を破壊した元凶こそが戦争だったにも関わらず。
こうして、人の弱さは新たなる悲劇を生み、連鎖する。

それでも、たしかに輝くもの

戦争そのものが、人間の弱さによる産物だと考えれば、この映画は、贄としての弱者たちと、贄を産み出さざるを得ない弱い人間の業についての物語であるといえるだろう。

戦争で傷ついた男たちが呆然と故郷の絶景を眺めるかたわらで、無垢の象徴のようなビリーが遊ぶ場面がある。
この映画のシンボリックな場所/場面であり、一見すれば非常に美しいこのシーンは、しかしビリーの置かれている状況を知るほどに苦みが混じり、私は嗚咽を漏らしてしまった。
犠牲になるのは、いつでも弱い者たちだ。
子ども(ビリー)や貧しい女性(ヌー)の優しさが、深く傷ついたブルー達を回復させていくのは、美しいかもしれないが、それ以上にものがなしい。

だが、本作はそうした悲しさを、決して批判しない。淡々と「そういうものだ」と描く。
本作のラストでは、時代に、自身の弱さに翻弄され続けながらも、懸命に生活を営んだ者達が、ひとつの優しい結論に落ち着いていく。
ビリーの育った家庭は、たしかに歪だったかもしれない。正しくなかったかもしれない。
しかし、正しさから遠く離れ、泣き笑いで過ごしてきた日々のきらきらと輝く思い出は、そこに確かに存在する。彼らだけのものだ。誰にも奪えない。
哀しみは哀しみのままだし、傷跡も完全には消えないかもしれない。
それでも生き続ける弱い人間たちへの優しいまなざしは、つよく心を打つ。

テーマが広範囲にわたり、ひとつひとつが拡散しすぎたきらいはある。また、役者たちに施された老けメイクはあまり仕事をしているとは言えず、没入を削ぐ結果になっているのも残念だった。
また、「わかりやすい物語」を拒否していたはずが、ムリに大団円に持っていこうとしているかのような終わらせ方にも疑問は残る。
しかし、役者たちの熱演や美しさを楽しめる作品であることは間違いない。
なにより、弱さゆえに弱き者を生け贄として捧げ続けざるを得ない人間の哀しみが、これでもかというほどに描かれている。
精神的に余裕のあるときに、つらくなるのを覚悟でゆっくり観たい映画だった。