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きみはコントロール ~ ドーナル・グリーソンと『全滅領域』再映画化の夢想

私には、妄想がある。
大好きな役者のドーナル・グリーソン氏に、ジェフ・ヴァンダミア〈サザーン・リーチ三部作〉のコントロール役を演じて貰いたい、というすさまじくどうでもいい夢想だ。
Twitterではほぼサビと化し、定期的に呻いている。
今日はその思いの丈をここにぶちまけたい。そしてあわよくば、「じゃあ読んでみようかな」という人を増やし、最終的には「わかるー」と言って欲しい。
そんな趣旨である。

〈サザーン・リーチ三部作〉

ジェフ・ヴァンダミア著『全滅領域』『監視機構』『世界受容』。通称〈サザーン・リーチ三部作〉と呼ばれるSF小説が、私は大好きだ。
第1部『全滅領域』は、Netflixで『アナイアレイション-全滅領域-』のタイトルでアレックス・ガーランド監督(『エクス・マキナ』)によって映画化されているので、ご存知の方も多いかもしれない。
が、映画は原作小説とはまったくもって100%別物なので、いったんその存在じたいを忘れてほしい。そして、二度と私にこの映画の話をしてはいけない。いいね?

〈サザーン・リーチ三部作〉は、突如世界に出現した謎の領域〈エリアX〉をめぐり、世界の成り立ちを問い、その問いに翻弄される人間存在の寄る辺ない後ろ姿までをも描ききった傑作だ。
──などと書くと小難しそうだが、「いきなり世界に出現した異世界を調べる話」「その異世界はあまりにも異常で、人智では理解が及ばない」「過去に派遣された調査隊は全員死ぬか発狂している」「調査隊を派遣する組織も権謀術数うずまく世界で、あやしげな秘密がゴロゴロしている」「ていうかモロSCP財団」「登場人物たちはみな性格に難があり、世界に馴染めないダメ人間ばっかり」などなど、要素をあげれば“俺たちの好きなやつ”で満ちあふれたエンタメである。

雰囲気も抜群だ。
おぞましくも蠱惑的な〈エリアX〉に登場する、生物学的にありえない生態で植物が生い茂る沼地、人間の目をしたイルカが潜む河(!)、なにか恐ろしい者が到来する予感だけを孕んだ海と浜辺。灯台。
文章から喚起される濃霧にけぶる異界は、どこまでも不吉で美しい。

あるいは、調査機関である〈監視機構〉の不穏さ。蔓延する「どうせ調べてもわからない、世界は全滅するんだ」という諦念とは裏腹に、じっとりと染み出してくる科学者たちの静かなる〈エリアX〉への狂熱は、薄気味悪く、最高である。

そしてなにより、登場人物たちの歪み方。“社会”でうまくやれない人間たちの丁寧な心理描写も巧みで、同じようにこの世界への馴染めなさを抱えている人間には胸に迫るものがある。非人間的と誹られた経験を持つ人なら、きっとこの物語の誰か一人(あるいは全員)に「自分」を見出してしまうのではないだろうか。

ドーナル・グリーソンの魅力① 賢く、故に愚か

ところで、いきなりひどいことを書くようだが、ドーナル・グリーソンという人はいわゆるスタータイプの、持って生まれた怒濤の太さみたいな魅力で勝負を賭けられる役者ではない。
断っておくが、もちろん彼には突出した才能があるし、他の追随を許さない素晴らしい役者である。
生まれ持った環境(これも能力である)からくる育ちの良さ、容姿の良さ、演出意図を的確に見抜き再構成する頭の良さ、それを演じるだけの素質、更には素質を磨くために惜しみなく努力する才能。これらをすべて備えている者はそうそういない。
だから、彼は類い稀な役者と言っていい。それは大前提だ。

だが、彼の演技はもちろん、インタビューなどを見てもわかるとおり、彼は「良くも悪くも」非常に賢い人だ。しかしそれ故、存在感や理屈を超えた説得力を体現する才能には乏しい「理の人」でもある。
彼は、どうあっても頭の良さゆえに「此岸」にとどまらざるを得ない、「こちら」「凡庸」の側の役者である、というのが、私の基本的なドーナル観だ。

そして、そうした強みと表裏一体の弱点には、おそらく本人も自覚的であろう。演じた経歴から見てもほぼ間違いない。
たとえば『エクス・マキナ』や『FRANK』。彼の演じる「凡庸な」人間の為す悪。凡庸であること自体が罪という苦い現実を、彼は一歩も退くことなく、身体を張って魅せる。

だから、『The Little Stranger』(サラ・ウォーターズ『エアーズ家の没落』の映画化)でファラデー医師を演じると聞き、さらに監督が『FRANK』のレニー・アブラハムソンであると知ったときも、「わかっているなあ」と思った。ネタバレは避けるが、ファラデー医師もまた(原作では)己の凡庸さゆえに害を為し、そのことに潜在意識では気づいていながら目を背けてしまう人物である。映画ではどのようなキャラクターとして造形され直したかはわからないが、少なくとも直近のGQのインタビューにおいて、ドーナルは以下のように答えている。

He could get all the money in the world, and he will never be of that class. He will never be of that house. He could live in that house, and he will not belong there. So what he wants he can never have. And I think that is a hollowness in him that he knows he can't fill.

どんなに願っても、「自分はそう“在れない”」ことに(潜在意識で)自覚的な者の痛みを、彼ははっきり意識して演じている。

自分に求められる資質、他人に映る自分。それらに自覚的であって初めてできることであり、その精神力と自負、冷徹なまでの自己分析には恐れすら抱いてしまう。
本当にかっこいい人なのである。

こうした「賢さ故に愚かなタイプの人間」の悲しみを体現できる人である、というのが、私がドーナル・グリーソンに感じる一番の魅力であり、ついつい身勝手な投影を行ってしまう理由でもある。

ドーナル・グリーソンの魅力② 境界の人

さらにもう一点、私が大好きな彼の芝居に、「境界で揺れる者」の演技がある。
最たるものは『シャドー・ダンサー』、『ブルックリン』だろう。(あるいは後の「女子に害をなさなそうなので女子が都合良く夢と欲望をぶつけられる純情ナード男子」系列の仕事にも繋がっていく『アンナ・カレーニナ』にも、その片鱗が見て取れる。)

『シャドー・ダンサー』では、家庭が暴力装置と化した地獄で揺れる青年の役をみずみずしく演じている。役者としてこなれてきてはいるけれど、まだ洗練に欠けた田舎くささも残り、それが役柄と絶妙にマッチしている。純真と屈託の境界で揺れ動く籠った熱量と色気が、映画にもたらした奥行きは計り知れない。

あるいは『ブルックリン』。「どこにも行けないことを知っている」者の哀しい顔は、彼でなければ演じられない。気持ちは通えども越えられない断絶には言葉を失う。
『ブルックリン』という映画じたいが、主人公の成長譚というよりは、己の性質を再確認し解放するために居場所を掴みに行く話なのだが、だからこそ彼の存在は映画の根幹を為す。シアーシャ・ローナンとドーナル・グリーソンは対立構造を為しており、登場シーンの短さにも関わらず映画の強度を支えたドーナルの存在感が凄まじく良い。

『シャドー・ダンサー』『ブルックリン』両方大好きな映画なのだが、どちらにも共通するのが、境界の内と外、どちらも見通すことのできる聡さゆえにどちらにも属することができず、揺れ、鬱屈することで熱量を秘める、繊細な横顔だ。
彼の真骨頂(のひとつ)だと断言できる。

「コントロール」という男

さて、〈サザーン・リーチ三部作〉に話を戻そう。
第二部『監視機構』から登場する(第二部では主人公をつとめる)人物に、〈コントロール〉という男がいる。
代々スパイの家系(ってなんやねんと思われるかもしれないが、文字どおりのブッ飛んだおうちなのである)に生まれた彼は、スパイとしては出来損ないだった。
どうやら過去に何か不祥事をやらかしたらしく、伝説のスパイとして名高い母に、いまだに尻ぬぐいをしてもらっている。
そんな血の呪縛と重圧に鬱屈し、自負と現実のはざまで苦しんでいる彼が、〈エリアX〉を調査する〈監視機構〉のボス代理として送り込まれるシーンから、第二部は幕を開ける。

〈コントロール〉は、自分に自信がない。周りからは無能と見なされ、彼自身もまた、自分自身をそう見なしている。
「コントロール」なる奇妙な名前は、彼が己をそう呼んでいるからなのだが、その由来が「俺は事態をコントロールできる男である、はずだ」という自己暗示から来ていることからも、彼の面倒くささが窺えよう。
何者かになりたい。しかし、なれない。いや、なれるはずだ。
第二部は、コントロールのグルグル渦巻く自意識と共に、じわじわと崩壊していく〈監視機構〉の陰鬱な陰謀の世界が描かれる。

また、彼は第二部から第三部にかけて、第一部の語り手を務めた〈生物学者〉に、愛情とも甘えともつかない不思議な親しみと共感を募らせていくのだが、その想いは独善的であり、双方の気持ちが通い合う瞬間はほんの一瞬にすぎない。
彼なりに真摯であるが、同時にひどく浅薄でもあるからだ。
コントロールという男は、なにひとつコントロールできずに事態を悪化させていく、ままならない男なのだ。

『監視機構』の感想をググってみると、「コントロールが好きになれない」という感想をある程度の数観測できる。そうだろうなと思う。独善的でプライドが高く、事態を悪い方に導く主人公など、嫌われて当然だろう。
しかし、私はどうしても彼にシンパシーを抱いてしまうのである。
コントロールは頭がいい。しかしずば抜けて賢いわけでもない。ただ、自分の愚かさが必要以上に拡大されて見えてしまう。尊大な自意識と、その尊大さを自覚しながらも受け入れられない狭量さ。
けれども、コントロールは反面で、抗う男でもあるのだ。己の狭量さから逃れようと、見当違いの方向に爆走しながらも、最後まで自身に、世界に、戦いを挑み続ける姿に、私は何度も涙した。嫌悪感のまざった共感とともに。
第三部において選び取った彼の結末は、この小説でも最も美しい場面の一つに挙げられるだろう。

ドーナル・グリーソン as コントロール

この〈コントロール〉を、ドーナル・グリーソンに演じてほしい、と、ずっと思っている。

こんな感じで、ツイッターでもずっと言ってる。ずーっと言ってる。
もう理由は述べなくてもいいだろう。コントロールという役は、私がドーナルさんに感じている魅力のすべてをあますことなく堪能できるのだ。
彼こそが、適任である。
一点、作中でコントロールはヒスパニック系という記述があり、それが彼のアイデンティティにある程度は関与しているのだけが気がかりだが、そこは映像化の際にいくらでも改変できるだろう。いやこのご時勢にその改変はマズいだろうとか、そもそもそんな企画走ってないだろうとかいうツッコミはやめてほしい。これは妄想の話だ。うるさい。

監督はジェフ・ニコルズあたりにお願いしたい。いっそリドスコ御大でもいい。クリーチャー(?)デザインはキース・トンプソンあたりはどうだろう。グレイス役はサミラ・ウィレイで。生物学者はキルステン・ダンストとか、どうかなあ。ふてぶてしい自閉気味の太い美しさを備えた女優さん……(妄想にしずんでいく)

まとめ

ここまで長い狂気の妄想話にお付き合いいただき、本当にありがとうございます。そろそろこの果てしない妄想にもオチをつけなければならない。

繰り返しになるが、〈サザーン・リーチ三部作〉は傑作だ。
もしかしたら展開が遅いと感じる向きもあるかもしれない。たしかに、物語は三部作の終盤にいたるまで、いや至ってもなお、遅々として進まず、ただ状況が悪くなる「雰囲気」だけが濃厚に立ちこめる。
しかし、これは意図的なものである。それは、最終巻『世界受容』において初めて、連作の主人公が一体誰であったのかという事実が判明する構成からも明らかだ。
世界の謎に焦がれた読者は、そこに至って初めて、目を見開かれる想いで〈エリアX〉を、〈監視機構〉を、世界そのものを眺めることができる。そして必ずや、ラストの「主人公」の決断に、胸を衝かれるはずだ。

人間とは、世界とは。「あなた」への想い。
想像を絶する世界からやってきた異質な知性は、届かぬ手をそれでも伸ばしてしまう人間という卑小で愚かで愛しい存在を、逆説的にくっきりと浮かび上がらせる。
抑制の効いた知的な文章と、読者を巧みに翻弄する豊かなイマジネーションで描かれた極上の物語を、ぜひ味わってみてほしいと思う。
そして、あわよくばドーナルさんに関する妄想を、私とシェアしてほしい。

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★書評
クリス・ボイス『キャッチワールド』以来の高揚感——ヴァンダミア《サザーン・リーチ》3部作」 by 牧眞司
ジェフ・ヴァンダミア「全滅領域」「監視機構」「世界受容」」(※展開に触れています)