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[diary]08/02 じゆう・びょうどう・きはん

日記を書くのはひさしぶりだ。
Twitterで言いたいことは言えない。140字、140字、と考えていると、もやもやとした思いはまとまらないし、けっきょくは流れて消えてしまう。
ひさしぶりにblogでも書こうかなと思ってみたものの、なんだかテンションが上がらない。なら、新しいプラットフォームをためしてみようかな。ふとそんなことを思って、今これを書いている。公開するかどうかすら、決めていない。

今回の医大受験の件はけっこうショックだった。
受験って、試験に受かる実力があればどんな破綻した人間でもオッケー、強いやつが一番!みたいなのが通用する数少ない世界で、そういう意味で信用できるものだと思ってた。けど、違ったらしい。
Twitterを見ていても、そういう意味でショックを受けている人はたくさんいるみたいで、「ねー、かなしいねえ」と思いつつ、私ひとりじゃないんだな、とちょっとホッとしたりもした。

きっと、数をいじらざるを得ない現状も、その理由も、山ほどあるのだろう。
けど、まあその“現状”を補強しているものも一因(“一”因。すべてではない)には、間違いなく「女はすっこんでろ」があるのだろうなという気がする。根拠は、35年間女性として社会の中で生きてきた実感でしかないので、間違っている可能性も大いにあるけれど。
でも、というか、同時に、それと同じくらい、女性の側だって、意識を切り替える必要があるんだろうな、とも思う。男性ばかりが差別して、女性はしない、なんてあるはずがない。同じ人間だ。どんなに「私は違う」と言ってみたところで、女性のパートナー選別の傾向に偏りがあるのは事実なのだから。

なんにせよ、旧来のジェンダー規範が邪魔をしているのは間違いない。だから、そんなもんなくなってしまえばいい、と思う。思うんだけど、ある程度は規範的なものがないと生きていけないというか、生きづらいタイプの人たちが、今度はそうすると困ってしまうんだろうな、という悩ましさもある。

だって、映画館の“マナー”ひとつ取っても、自分の思う“マナー”とずれることを嫌う人がどれほどたくさんいることか。

映画館で、自分が不快に思う行為をする人がいると、すぐに「マナー違反」と言って怒る人たちがいるが、彼らは自分の欲求(静かに映画を観たい)は正しいのだから、それを邪魔する人はやめる“べきだ”と考え、それに従わないことに腹を立てるようだ。その人がポップコーンを食べたい欲求や、ぐうぐう寝たい欲求は、自分の欲求よりも正しくない、という理屈らしい。
欲求に正しいもなにもないし、欲と欲のぶつかりあいなら、まずは相手に「やめてくれませんか」とお願いしてみればいいのに、と私は思うし、実際にそうしている。だが、なんだかんだと理由をつけて(暴力をふるわれるから、とかね)試みない人は多い。まあ、蛮勇というか、図々しさもある程度必要になる行為ではあるけれど、他人の行動を自分の欲求に従って制限したいのなら、それなりのリスクは背負って当然なんじゃないかと、私は思うのだけど。

とまれ、こういうタイプの人は、ある程度規範がないと生きづらいのだろうな、とは思う。規範はいらないので自由にやれ、をやると、究極は弱肉強食になるので平等の確保が難しくなる。
平等を確保しようとすると、自由はどうあっても制限される。
自由は制限されて当たり前だよ、と言い続けると、ロリータファッションが禁止されてしまう事態にまで発展してしまったりする。
堂々巡りの時代だなあ、と溜息がでる。