総合診療x海外のキャリア 臨床編 vol.1

専攻医のみなさん、こんにちは!
先日公開した「総合診療x海外のキャリア 大学院編」はいかがでしたか?今回からはいよいよ「臨床編」がスタートします!まだまだ少ない海外の家庭医キャリア、海外に行きたい皆様にワクワクをお届けできれば幸いです。
インタビュー動画は現在一生懸命編集中です!アップロードをお楽しみに!

今回インタビューを受けてくださったのは、
アメリカ セントルイス大学 家庭医療・地域医療科 助教授としてご活躍中の園田健人先生です!それではどうぞ!


Q. 海外でのキャリアを考えている専攻医にTake Home Message

自分自身のやりたいことを自問自答して、本当にやりたいことだと思ったならば、挑戦してほしい。
 

Q. 先生のご略歴について紹介をお願いします。

大阪で生まれて千葉育ち。埼玉にある防衛大学校医学部医学科を2014年に卒業し、同大学附属病院で初期研修修了。北海道で2年間勤務し、2018年に渡米し、ペンシルバニア州ピッツバーグで家庭医のレジデンシーを行い、米国家庭医療科専門医、及び米国HIV専門医を取得。2022年に同施設のAddiction Medicineという依存症関連のフェローシップを受けて、現在は中西部セントルイス大学の家庭医療・地域医療科 助教授として勤務している。

Q. 海外でのキャリアに興味を持ったきっかけと時期について

幼少期に父親が海外で勤務していたので、自分も海外に行くのかなとか、海外に行ったら視野が広がるのかなとなんとなく興味があった。大学3年生か4年生くらいの時、大学の先輩がUSMLEのテキストを持っていて、なんだろうなと。大学の友達何人かと、特別な目標はなくなんとなく勉強はじめた。5年生の夏休み前に、友達から「アメリカから最近帰ってきた総合診療系の先生がいるらしいよ」と聞いた。なんとなく興味があったので、話を聞いてみたいと思って、連絡をとって、家庭医という概念を聞いて、そんな診療科がアメリカにはあるのかと思った。今は日本でもだいぶ増えてきたが、2012年当時は日本で家庭医のプログラムはあまりなかった。そんなものがあるのか、もっと学びたいなと思ったのがそれが初めのきっかけ。なんとなくカッコ良さそう、面白そう、という感じでテキストを買って始めたので最初は進まなかった。6年生の時にウィスコンシンに2週間、そのあとオレゴンのOHSU(オレゴン健康科学大学)に2週間ずつ行って、これは是非してみたいと思って、本格的に勉強を始めた。

Q. 現在の働き方について(セッティング、地域、研修のシステム)など

現在
中西部のミズーリ州セントルイス大学のAssistant Professorという大学教員として勤務している。週3日は医療資源の少ない地域でプライマリケア、家庭医として勤務し、成人の慢性疾患や、小児、婦人科精神科など。地域柄、アディクション、オピオイド、C型肝炎が多いなどの問題があり、自分の強みを活かすことができる地域として意識的に勤務をしている。
別のクリニックで週に1.5日でアディクションメディスンの専門医としてアディクションのケアをメインに働いている。
半日は医学生のローテションの指導医として働いている。
大学がプライマリースペシャリティーアドバイザーという役職を昨年から始めた。各専門領域の診療科がひとり大学教員を当てて、学生がその人に相談するという窓口を設け、学生がどこに行ったらいいかからないというのを防ぐ。家庭医療にマッチングに出願する学生は全て自分と話をすることになっている。毎年20人くらいの学生と話して、どのプログラムが合っているかなど、進路のアドバイスをする役目。レジデンシーでもアディクションはアメリカで大きな社会問題で、興味を持つレジデントも多い。アディクションメディスンのスペシャルトラックのメインのリードファカルティとしてレジデントの教育も行っている。
研究は大学内でたくさんPhDのドクターがいるので、その人らとビッグデータを共同で解析したり、専門医機構的な部署と協力したり。テーマは医学教育、HIV、アディクションが多い。
 
レジデンシーについて
ピッツバーグにあるシェディーサイドという地域の家庭医プログラムに入った。そこではインターンの時は色んな診療科をたくさん学んで、2〜3年目は外来中心になる。ICUや小児科、あとは入院のローテをかなりヘビーに研修した。外来も、週に1回、半日とかを2〜3回くらいでインターンで、2〜3年目になるとローテーションで色んなことを学ぶ、耳鼻科、皮膚科、産婦人科、眼科など。electiveという選択科目が合計3ヶ月くらい取れる。それを個人の興味に応じて色々とる。自分にとって勉強になったのは、ヘルスマネジメントという2週間のローテが2年目と3年目にあって、その時に2年目の時にレジデンシーが終わったら何をしたいかと考えるが、3年目になると就職活動が徐々に始まる。そのローテでは、5〜6人の色んなセッティングで働いている指導医と、どのように今のキャリアに辿り着いたのか、を話して、「何に幸せを感じる?」「どうなりたい?」という意外と自分ではあまり考えない質問を何度も考えて、その5〜6人と話して言語化したり、質問されてわかんないなと思って家に持ち帰って考えたり、自分にとって何が大事かを考えつつ、自問自答して自分を深く知る機会になった。今のキャリアの形成につながったので印象に残っているローテ。

Q. 自分が大切にしたいものは?

アメリカに家族と行ったので、家族と過ごす時間が大切だと思った。自分一人で診療にできることだけではないので、将来の、次世代の医師を育てることで自分だけで見ることができない範囲を診るために、ぜひ教育に携わりたいと思った
研究や執筆に携わることことによって、目の前のその時だけでなく将来のサイエンスに貢献するのもすごく大事だと思った。欲張りかもしれないが、そのバランスが取れることが大切だと思った。そういった側面を考慮して帰国するのか残るのか考えた時に、今の職場につくことにした。今の職場は幸せだと思うし、それが叶っていると思う。
 
仕事は朝8時から夕方4時半で終了。それが終わるとオンコールもなく、カルテも書き終わっている。週末も全く勤務がない。アカデミックな家庭医としてはワークライフバランスとしてはいいんじゃないかと思う。日本の大学の先生方の生活はわからないが、この環境はこれに加えて論文を書く機会もあるので、アカデミックで大学の教員として働きながらこういった生活を送れていて充実している。

Q. アディクションに興味を持ったきっかけ

 レジデンシーは3年間。2年目と3年目の時にHIVトラックという、HIVのトレーニングを普通の研修に加えて特別に受けるトラックに入っていて、HIVのスペシャリストに卒業とともになった。HIVは性感染かドラッグ。性感染に伴うケアは自信がついたが、アディクションに伴ってHIVになる方の診療にあたる際に、アディクションについて苦手意識を持っていると自分自身感じていて自分に気づいた。
そのトラックのディレクターが両方自信を持って診療していた。これはすごくセンシティブでプライベートな情報を含むので、同じ医師が診療するのが大切だ、と自分なりに感じて、そのようになりたいなと思った。それがアディクションメディスンを志望したきっかけ。
また、自分が卒業するタイミングでピッツバーグで最初のアディクションメディスンのフェローを募集していた。自分が手を挙げて、ピッツバーグで第一号のフェローになった。
 
患者層については、入る前はバイアスとか固定概念が合って、最初はすごく「怖い人」「悪い人」のイメージがあったが、診療に入ると見かけでは全くわからない「こんな人なんだ」と変わった。両親がそういった疾患を持っていて、遺伝だったり、例えば手術後のオピオイド処方から、はじめは痛みを取るためにとっていたのに、高揚感を得たことで依存になったり、大切なひとを亡くして、そこから薬物やアルコールを服用して忘れるためにしていたらやめられなくなったり。色々な入り口がある。はじめに述べたとおり、固定概念があったが、誰にでも起こりうることだと感じている。自分では学びのあることだと思う。
 
HIVにはもともと興味がなかったが、インターンの時にHIVの講義をした先生の講義がとっても面白かった。その人と2年間働きたいと思って応募したら、その先生はカナダに行ってしまったのですれ違ったのだが、その経験を元に教育の力を肌で感じた。

Q. 海外での医療で日本と違うと感じる瞬間は?(スペシャリストとの違いは?)

たくさん違いはあるが、提供する医療自体は一緒だと逆に感じる。提供する根本的なところは変わらない。日本で4年、こちらで6年が終わるところが、大きなところは変わらない。その中で違いがあるとすれば、いくつかあるが、保険の制度。日本では保険を持っているか持っていないかくらいしか話題にならない。アメリカでは、どの保険だからどの薬がカバーされるとか、無保険だから、とかがかなりシビアになってくる。なぜかというと、薬とか診療費がすごく高額なのでそうしないと払えない。そこが日本にいた時と大きく違う。
あとは、日本は県ごとに診療が違うということがないが、アメリカは週ごとに法律が違い、医療も提供できるもの、ルールが違う。トランスジェンダーに関わる診療、アボーション(中絶)に関わる医療が違うのが衝撃だった。
保険も州の保険だったら他の州で診療が受けれない人もいて、そこが日本であまり考えたことがないところだった。そこが結構衝撃的だった。
いい面で言うと、新しい薬が出てくると、論文とかを読んで、こんな薬が出てきたのか、とみていたらすぐ使えるようになる。それはいい面、面白い面だと思う。
街によると思うが、家庭医という概念が患者にも医師にも浸透しているので、家庭医を選ぶということが自然なオプションで、理解されているので、クリニックの中でも働きやすい。その辺りがアメリカに来てからの違い。
 
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Q.他の英語圏の国は考えたか?なぜアメリカなのか?

学生の時に偶然出会った先生にアメリカの家庭医についてきいて、アメリカの家庭医のことを知って、オーストラリアやイギリスにも家庭医がいることは聞いたが、自分にとって原点というか、一番はじめに知った衝撃が印象的だった。この研修を受けたいなとその先生に初めて聞いて、結果的にその先生がいかれたレジデンシーに行った。ほかが嫌だから、アメリカの方がいいから、というよりは一番初めに出会ったその先生が体験したものをみたいと思った。

Q. USMLEをどんなスケジュールでとったか?

STEP1:5年生1月
5年夏の東医体まで週6で部活をしていたため、その状態で受験をするのは難しかったので、そのあと本腰を入れて頑張って1月に受けた。そこからはずっと勉強していた。
STEP2CK:6年生の1月 (国試2週間前!)
CKをうけてburnout気味になってしまって国試に力が入らないという副作用があったけどなんとかなった。
STEP2CS(現在はOETに変更):医師2年目の3月
海外経験がなかったので、1回落ちると大きなダメージになると聞いた。100回受けて100回受かるぐらいの気持ちで受けられるように準備した。

Q.アメリカに行くことがモチベーションになった?

初めて家庭医について話を聞いた時の衝撃、ウィスコンシンとか国試直後に行ったオレゴンに行ったのが初めのモチベーションにはなったが、いざ続けることは非常に難しかった。無限に覚えることがあるし、研修医になってローテーションが始まって、目まぐるしく学ぶことがあって、優先順位をつけるのがすごく難しかった。モチベーションを維持するのも難しかった。自分の大学ではなかったが、他の大学の仲間をみつけて、同じ時期に渡米しようと志す2人(長崎大学卒のM先生&山形大学卒のY先生)とCSを勉強して、そのうちの一人とは、準備コースも受けて、一緒に受験もして、打ち上げして、3人とも同じタイミングで渡米して、今3人ともアメリカにいる。そういう仲間をみつけて、互いに鼓舞して一緒に勉強したり練習したりするのが大事だなと思う。自分の場合は尊敬できる仲間がいたことが大きかったと思う。
その仲間たちとどう出会ったかは覚えてないけど、臨床留学に興味がある人がいくような勉強会があって、留学の選考会とか、臨床英語の勉強会とかで知りあったような気がする。

Q.アメリカの電子カルテなどのシステム的な違いは?

アメリカにきてすごく進んでいると思った。少なくとも自分が日本で使っていたカルテは、全部日本語で描かなきゃいけないけど、身体所見はBoxを選択するだけで勝手に文字になる。異常所見は勝手に赤くなるから身体所見はクリックしたら終わるので、文字を打たなくてすむ。
検査とかをオーダーすると理由を書かないと行けない。オーダーすると検査と診断がタグつけされるので、何を診断のためにオーダーしたのかを改めて書く必要がない。
ヘルスメンテナンスは年齢とリスクファクターを入れたら、乳がん健診はいついつしたので、次はいつですとか、大腸癌検診まだしてませんよ、って出てくる。個人の記憶に依存せずに教えてくれるところが役立つと思う。衝撃を受けた。
日本語って漢字に変換しなきゃいけないし、英語はアルファベットしかないのでそれがないから楽だな。意外と時間を食っているなと思う。漢字の変換でのタイムロスがない。

Q.「家庭医」は日本とアメリカでどう違う?

正直、日本の家庭医について理解があまりできていないのでうまく言及できるかわからないが、役割としては、学校にいくためのcheckupや会社の健診、オペを受けていいかどうかの術前検査も家庭医がする。疾患のために働けなくなった人の社会的サポートに当てはまるかどうかの診断もする。

Q.ジェンダーの研修はあったか?

自分の研修の時は多くなかったが、ダイバーシティーが叫ばれる中で、重要視されてきている。自分の頃は、どういう言語、話し方をするかといった基本的なことに焦点を当てて、診療を始めよう!というところで研修が終わったが、診療としてはすることがあった。ミズーリ州という州ではそんなには多くない。それに特化したクリニックが設定されることが多くて、ホルモン治療などを受けに行くことが多い。勤務する州による違いは多い。例えばカリフォルニアなら需要は多いし、研修としても受ける必要がある。

Q.マッチングの行き先はどのように探していくつぐらい受験した?


その時点で外国の医学部卒業(IMG)の外国人を受け入れているところをウェブサイトで見たり、過去に日本人がいた実績があるところ、を口コミで聞いたりして、プログラムのリストを作った。合計でどれくらい応募したかな…30ぐらいだったか。自分が応募したときはクリニックの一人医師として働いていたので、あんまり自由にインタビューにはいけないので応募の数を絞った。外科、整形外科は全米中に出すと思う。家庭医でアメリカの医学生ならそんなに出さなくても(20以下)。ピッツバーグは今も2人いるし、来年も1人入るので、一番日本人は多い気がする。日本人のことを理解してくれているプログラムだと思うので生きやすいと思う。日本人のファカルティーがいる。病院の前に京都の庭園見たいなJapanese gardenが日本人の寄付で作られている。日本welcome感がある。庭でランチとかした。

Q.英語に関して勉強は苦労したか?

英語は苦労した。海外に住んだことがなかったので、英語を勉強する時に自分が大事だと思っているのは、なんとなく英語上手になりたいとか話せたいというのではなかなか慣れない。ゴールが漠然としすぎていてモチベーションがを保つのが難しい。ゴールが漠然としていると優先順位としてもつけにくい。何のために勉強をしているのか、どのような英語の能力が必要なのかを逆算した。
CKではしっかり早く読んで問題を早く解く力、そこに焦点を当てて勉強して、CSだと、医療面接における英語のリスニングとスピーキングと、noteのwritingにフォーカスして2年間勉強した。
次はインタビューなのでインタビューに必要なSpeakingとListeningに焦点を当てて勉強した。
いざ渡米したら一気にそこからのびた。自分自身、初めの3ヶ月くらいはすごく英語に苦労して、自分の英語に自信がなくて、声が小さくなって英語は声が小さいと聞こえにくいので、負のループ。思い切って声を大きくして自信があるように話した。その副作用として日本語の声も家族にうるさいと言われる笑。同じ境遇の人の手助けをしたいとMedhub(https://ncjglobal.net/medhub/)で日本の医療従事者に医療英語を教える活動をしている。自分も似たような経験をしたので、日本で外国人診療をする人や将来海外で診療したい人を応援したいと思う。

Q. 今後のキャリアは?

当面ここにいるんじゃないかと思う。
今の職場がまさにやりたいことができていて、ここから役職も上がる話もある程度ついているので、その役職につくと思う。階段を一段ずつ上がっていって、飛躍するために別のところに行かなければ、と感じるまでは当面は今の職場にいると思う。

Q.レジデンシー・フェローシップについて

学会の活動とか、地域のローカルな団体の活動もこちらにもあって、そういうので自分自身成長したなと思う。JPCAのようなAAFP(American Academy of Family Physician)や、STFM(Society of Teachers of Family Medicine)など教育者にフォーカスした家庭医の団体で、そこを通してリーダーシップとかを学んだり発揮したり、自分自身成長していく機会があった。そういう機会に恵まれているのもあるが、それですごく自分自身楽しかった。そういう機会もあって、こっちでも成長できる。
こっちにくるまではあまり想像がつかない、考えられないと思う。
自分自身とてもラッキーだったと思うのは、AAFPの雑誌の編集の理事に、数年前レジデントの代表として入れてもらって、Podcastに出たり、記事を出したり、その後も編集長と気があって、学会のたびにご飯に行ったり、年に数回今でも依頼されて執筆している。学会活動に関わるような機会は渡米するまでは想像もしていなかった。渡米するまでは見えない機会もある。日本でもJPCAの活動は大事だと思うし、他の大学とか地域の医師とかと繋がるのは自分にとってもモチベーションになっていて、自分はそういう活動が好き。楽しい。

いかがでしたでしょうか?
今後園田先生のインタビュー動画も公開予定です。
第2回はオーストラリアで家庭医としてご活躍中の石川太平先生をお招きしたインタビューを掲載予定です!どうぞお楽しみに!

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