最近の私

こないだのnote面白かったね、あの、お酒のやつ。

と友達に言われ読み返してみた。


はて。
これを書いた人間は、何を言っているのだろう。
そういう気持ちになった。
人間とは恐ろしい生き物で、確かに書いた。書いたことは覚えている。
しかし、その時の詳細な感情というのは影も形もない。
他人が書いたのだ。おそらく。

いやもちろん、飲酒を始めたという話ではない。
もう飲まないと決めたからには飲まないのである。
タバコも吸わない。

こんなに面白おかしくお酒をやめたことについて何行も文章を書けるくらい感動的な出来事だったということだ。
お酒を飲まないということが。
今や、それが普通になってしまい、恐れていたことが起きている。
断酒のnoteを読んでこいつめっちゃうるせぇな。と思ってしまった。

いやぁ〜素晴らしい。
ここまで来れたらもう大丈夫である。
今までの出来事を棚に上げ、涼しい顔をして断酒の効能を語るのであろう。
ひ〜怖いね。

さて、近頃の私はというと
30センチの立方体に水を張って水草を育てている。
気が触れたに違いない。
小さな海老と、巻貝と、アカヒレという熱帯魚を入れて生態系について考えを巡らせている。
水質を整えるためにバクテリアを定着させてみたり、pHや硬度を測って適切に保ったりしている。
もういよいよである。

というのも、漠然と「生きる」ということが不思議で堪らなくなった。
生き物はどういうわけかどこからともなく命というものが与えられ鼓動し、呼吸して、それが終わると死ぬ。
不思議すぎる。
なんだそれ。どういうことかわけがわからない。
草木もいつか枯れる。それぞれに命が与えられていて、それを使い切ると役目を終えたかのように死ぬ。
どういうことなのだろう。と思う。
そりゃ環境に左右されるところはあると思う。だけど不思議でたまらない。
ラムスプリンガの撮影でうちにやってきたベタたちはすごく短い間に立て続けに死んでしまった。
それが悔しかったこともあった。
いい環境で過ごさせてあげたいと思って、水槽に市販の砂利と水草を入れてヒーターを入れてポンプを入れた。
環境が整えば長生きできると思ったからだ。
しかし、立て続けに死んだ。
今思うとそりゃそうである。
生体に対して少なすぎる水量、水草や砂利などの複数の要素がそこに絡み合うことによってより管理の難しくなる水質。
勉強不足だったと思う。
ベタは近くの神社の木のしたに埋めさせてもらった。
手を合わせながら、彼らは幸せだったろうか。と思った。

魚だから、幸せがどうとかはわからない。喋れないから。
ご飯がたくさんあって、水の温度と水質がちょうどよかったらそれで幸せだろうか。
もっと管理が上手にいってたら長生きしたんだろうか。
youtubeでは5年以上生きてるベタの映像をみた。
それと比べると随分と短い命だったなと思った。

さて、そういうわけもあって何がいけなかったのだろうと思った。
からの水槽ががらんと、部屋の角に転がっていてなんだか寂しいのでひとまず水を張ってみた。
この水の中で生きるというのはどういうことなんだろうと考えた。
まずは水草から育ててみようと思った。
ペットショップに行って、ニューラージパールグラスという水草を買ってきた。
小さな双葉みたいな葉っぱが密集して育つと綺麗だろうなと思った。
まずは水草が綺麗に育てば魚だって生きられるだろうと思った。

ソイルという土を固めて砂利みたいになっているものをそこに敷いて、ピンセットで植え付けた。
光が必要だと思ってデスクライトで照らした。
2週間ほど経って、水を換えたり色々していたのに全部枯れてしまった。
なぜだか本当にわからなかった。
今思えば水質が酸性に傾きすぎていたのだろう。それと日照時間。

白くなって枯れてしまったパールグラスたちを取り除いて本格的に色々と調べ始めた。
水とひとことに言えども色んな性質があること、日照時間や光量や光の周波数帯によって光合成の効率が違うこと、二酸化炭素の添加の必要性や、バクテリアの定着による生物濾過のこと、色んなこと考えながら水槽のシステムを少しずつ整えていった。

そうやって過ごしているうちに色んなことがわかってきた。
命のこともそう。

生命は独立しているわけではなく、色んな生命同士が必要なものを分解したり受け取ったり渡しながら生きている。
水自体は生命ではないかもしれないが、そこには無数のバクテリアがいてその中でも色んなことが循環していること。

なるほどなと思った。
資本主義が台頭し、人は人で、自然とは別世界のものだと思うようになった。自然の中で生きるのではなく、自然を使って生きるようになった。
アニミズムというか、万物に霊や魂があって自然やものに対してもまるで友人のように思うような心みたいなものはいつからかなくなっていて
だから、自分の命を自分だけのものと思うようになった。

そういうわけで、なんのために生きるんだっけな。
とか、そういう物質的というか独立した命のような考え方をすることも簡単にできるようになってしまったのだけど
水槽の中で砂利をつまつましているエビなんかを見ると、彼は別に食べて寝てうんこするだけだけど、それが命のサイクルとして必要不可欠な存在であることが明確にわかる。
何を考えてるか知らないし考えてないかもしれないけれど、彼がそこにいるということは世界にとって必要なことで、彼は世界を必要としてる。

あーね。なるほどね。と思った。
自分はまるで自分で色んなことを選んでると思って生きていたけれど
そこには全部が相互関係にあって世界の中で生きているという自覚の薄さからくる絶望のしやすさみたいなものもあったな。
なんて思うのである。

あっれーなんかめっちゃめんどいこと書いてるやん俺。
でも、うん。最近の私はそんな感じですね。
人間の言葉で、一言で今長々と書いたことを表現すると
それは「愛」と言う言葉で表現できると思うわけよ。

みたいな話でした〜。
おやすみ。