町田康 しらふで生きる に感謝を述べる

わたしはバンドマンである。
バンドマンになりたくてバンドマンになったわけではない。
知らぬ間にバンドマンになっていたのである。
自らというよりは、むしろ自分以外の人間が自分を定義してくれる時におそらく自分は「バンドマン」のフォルダに分別されるのだと思う。
そして次第に自分でもバンドマンを名乗るようになった。
そして、知らぬ間に酒飲みにもなっていた。
同じく、他者が自分を見た時に「酒飲み」のフォルダに分別されていたのだと思う。
そして次第に自分でも酒飲みを名乗るようになった。

そんな自分が、酒飲みの看板をおろしたのである。
町田康氏の
『しらふで生きる 大酒飲みの決断』
を読んだことはこの脱酒に大きな影響を与えたと思う。
猛烈に背中を押してくれた。というか、迷子になっている自分の目の前に現れ、助手席に座らせて目的地まで送り届けてくれたくらいの感すらある。
本物の酒飲みはそこから徒歩で元いた場所に戻るのかもしれないが、流石に自分の場合はそこまで来たからには大酒飲みを閉業しようと思えた。
閉店ガラガラである。
いや、もしかしたら最初は週末くらいは出勤しようかと思っていたかもしれない。
だけどいつの間にか酒を飲まずに100日が過ぎた。
これは恐ろしいことである。
酒を飲まない人間からしたら、いちいちうるさいと思うようなことかもしれない。
自分で今得意げに100日が過ぎた。と書いた後になんだか弱々しいなとも思った。1000日だともう少し凄みがある。いやしかしだ、1000日にたどり着くのに100日を乗り越えなくてはならないのだからこれはやはりこれは祝うべきことだ。
酒を持ってこい。と、酒飲みはこうなるのである。

大酒飲みが酒を100日も飲まないのは異常なことなのだ。
大酒飲みというのもなんだかちょっと威勢が良くてかっこいい感じになってしまうのでもう少し現実に忠実に書くならば
「アル中まで秒読み」
といった感じだっただろうか。
1日の終わりには酒が欲しくてたまらなくなる。
年齢と共にビールが美味しいな。なんて思い出したあたりからいよいよ酒というものが人格を持ってそばに寄り添ってくれているのではないかと思うくらいには必要不可欠になっていった。
飲まないなんて酒がかわいそう。くらいに思っていたかもしれない。
今なら六甲山の山頂で車から下ろしてもなんとも思わない。
しかし100日前までは酒を飲んでりゃ病気にはならん。
とすら思うくらい、酒が全てを解決してくれた。
頭を悩ませる色んな不安も酒が
「大丈夫さ!」
と元気付けてくれた。
友人が結婚すれば酒を飲み、飲んだ量がお祝いの気持ちに比例しているような気がしてたくさん飲んだ。
お酒が飲めないという人を見ては、お酒のうまさがわからないとはなんと切ない人生だと思っていたし、ライブのあとや、ライブを見ながら飲む酒は格別だった。
打ち上げではただ大酒を食らうだけで手軽に体を張っている感じも出て一石二鳥であった。一生懸命、バンドでのし上がるために飲んでいるのだ。とすら思っていたのかもしれない。まじでそれは音楽で頑張れ。
だが実際酒の席は、上手に過ごせば色んな人とも仲良くなれる。
最初は1日の終わりに飲んでいたのにいつの間にか1日の始まりから飲んで1日を始まりから終わりに変えてみたりもした。
終わりから始まらないまま終わる日も時々あった。
それくらい恐ろしい。が、酒は素晴らしい。
しかも、そんな素敵な飲み物が「美味しい」のだ。
これは逃れようがない。
風邪薬は不味い。しかし酒は美味いのだ。
日々の心の風邪を、あの美味い奇跡の飲み物は一時的にではあるが治してくれる。
しかしだ、やめたのである。
あんなに好きだった酒を、やめてしまった。
これは町田氏も書いていたが、気が狂ってしまったのだと思う。
いよいよ、多分壊れた。
本当に壊れる方向性がこっちでよかった。
ここまで読み進めた人はおそらく大半が酒を飲む人だろう。
上記の酒に対する思いを読んだ時点で下戸の人間はもう読むのをやめていると思う。そもそも飲み始めるからいけないのである。
賢明な判断である。酒で脳が溶けていない証拠だ。
しかし恋に落ちようと思って落ちるのではなく知らぬ間に大切な存在ができてしまっていたかの如く酒はそこにいるのだ。
もしも下戸の人でここまで読み進めた人がいるのだとしたら
こんなことを考えてみて欲しい。
例えば、自他共に認める下戸が急に大量に飲酒を始めたらどう思うだろうか。
周りも心配するに違いない。
よほど嫌なことがあったのかとか、気が触れてしまったのかとか。
それくらい異常なことなのだ。
あるものがなくなると変である。
ないものがあるのも変なことなのだ。
そう。何かが変わったのだ。

お酒というものは素晴らしい。
町田康氏の『しらふで生きる 大酒飲みの決断』
の本文でも、酒の素晴らしさと酒飲みの愚かさについての描写が大半を占めるが、本当に書かれている通りで
酒はいつでもうまい。
辛い時も苦しい時も楽しい時も嬉しい時もなんだかよくわからない時も
ずっとうまい。
酒は苦しみを半分に、喜びを100倍にしてくれる飲み物なのである。
今でもそれは変わらずそう思う。

酒飲みの人で、酒をやめたほうがいいな。と思ったことがない人は多分ものすごく少ないと思う。
酒が好きであるということはすなわち、酒によって失敗をしたことがあるという人が大半で、その失敗というものは酒がなければ引き起こされることがなかった失敗である可能性が非常に高いので結果的に酒なんてものを飲んでいるからこうなるのだ。
ということを思うくらいのことは大なり小なりあるのではないかと思う。
中には、全く思ったことがない。
と口にする大酒飲みもいる。
それはもう神に近いところにいるので、我々人間の感覚を基準にこの文章は書かせてもらう。

町田氏は30年以上も飲酒をつづけ、そして急にやめたらしい。
ある日、急に。
それを読んでの感想は
「事故死」
である。
酒飲みの自分としては、それを急にやめるなんて事故で死ぬとかじゃないとありえないことなのだ。
もしかしたら町田氏も俺も死んだのかもしれない。
死んでて、新しい世界なのかもしれない。ここが天国、、、?もしくは地獄か?
あながち言い過ぎではないと思う。
酒をやめてから全くといっていいほど感覚が違う。世界が違う。
不安なことはちゃんと不安で、嬉しいことも酒を飲んでる時よりは嬉しくない。
普通なのだ。
日々が普通なのだ。
必要以上には楽しくない。だけど普通には楽しい。
普通に楽しいということがとてもちょうどいい。
そして、不安なことがちゃんと自分の背丈と同じ大きさでそこにある。
自分よりも大きすぎることもなく、小さすぎることもなく。
酒を飲むと手のひらでのたうち回る不安をゴミ箱に捨てるような感覚で見下すことができていた。
だけど、今は不安とも話ができる。
不安がちゃんとしているのか、自分がちゃんとしているのか。
向こうの言い分がわかるのである。
不安としても腹に一物抱えていたわけである。
なるほどなぁ。などとひとりごちて意味がわかる。
そんな様々な等身大が列をなして自分を待っていた。
それに慣れるまではまあまあイライラした。
3ヶ月経つと、
「次のひと〜」
って感じで色んな自分と向き合う準備ができた。

この酒を辞めるというところに至るまでのプロセスは
しらふで生きるを読んでみてもらうと非常に分かりやすいと思う。
友達に勧めたところ、その友達も酒をやめた。

上記の文章はほとんど町田氏の書籍の受け売りになってしまっているかもしれない。
『しらふで生きる 大酒飲みの決断』
は本当に自分の感じていることや苦悩がそのまま具現化したのではないかと思うくらい的確に言語化されていて、道に迷ったときの基準としての座標を記してくれているのだ。と思ったくらいの信頼を持ってしまっている。

このタイミングでこの本に出会えたこと。
それと、この本をこの世の中に生み出してくれた町田康氏には感謝の嵐である。
ファンレターでも送りつけようかと思うくらいには感謝している。

そして、自分は、かつて飲みの席で暴れ回って被害を与えてしまった色んな酒飲みの顔を思い出しては、いつ辻切りに合うかとただそれだけを恐れながら過不足ない自分を探す日々を続けようと思う。