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修論の研究してて最近読んだものまとめ。#3

はじめに

修論の研究をしてて読んだ本のまとめ#3です。今回も本と論文の簡単な紹介と、いろいろとそれについて考えたことを書いています。音楽研究してる学生さんにちょっとでも届けばいいな…

リック・アルトマン「ムービング・リップス――腹話術としての映画」(訳:行田洋斗)

(表象文化論学会『表象 16』p.53-65所収)
映画における「音と映像の同期」についての論考。一般的に、古典的な物語映画のサウンドトラックは「映像によって最初につくりだされた現実感を強め」(p.53)るような映像に従属するものと理解されている。しかしアルトマンは映像にサウンドトラックが従属し、またこの2つが同期すること自体を問題にする。音は「発生源が不確定な場合でも聴こえてしまう」もので、それゆえ本質的に「音源はどこか?」と問うものである(p.58)。映画ではそれが映像に応答の性質を持たせるため、映画体験の根幹には「音が音源の場所を問いかけ、映像が場所を応答する」プロセスがあると指摘する。
またこのプロセスには物語世界の関与が重要である。サウンドトラックが物語世界に帰属させられるとき、物語世界は観客を意識していないように見える。それが観客の探す映画の音源への注意を画面内へと誘導し、本来のスピーカーの存在を覆い隠すとしている。

大規模な音楽ライブに限らず、イベントごとではPAによってマイクが拾った音や声を広い範囲に届ける……ということが多い。また大規模イベントでは、発言者から離れた場所にいる人々は、PAとマイクによって真に発言している人、真なる音源を探すのは困難であり、アルトマンのいうプロセスは成立しない。しかし、訳者改題(p.63-65)で指摘されるように「プロセスが成立しない場合」、つまり音と映像の分離という状況は視聴覚メディア一般で起こり得る問題でもある。ミシェル・シオンの「アクースマティック論」も含めて映画音響の理論を結びつけながらPAやそれを利用した音楽ライブについて考える必要がありそう。


日本記号学会『音楽が終わるとき――産業/テクノロジー/言説』

2013年5月に行われた日本記号学会・第33回大会で行われたセッション、パフォーマンス、論文を収録したもの。が成立しないばあ関連でいえば、III部に収録されている、パソコンの加速度センサーから湯呑みまで……いろんなものを使ってテルミン(○○ミン楽器)を制作するRAKASU PROJECT. と、MIDI鍵盤に母音と子音を割り当てて人工音声を歌わせるフォルマント兄弟のパフォーマンス・セッションは、電子楽器とその演奏のためのインターフェースや人間の身体の関係性について考えるうえで面白い例。
音楽と人工的な歌声のことを考えたとき、よくVOCALOIDの話が出てくるが、フォルマント兄弟のように「鍵盤をトリガーにして歌わせる」手法は、2016年の「冨田勲×初音ミク」で使われている。

初音ミク、鏡音リン・レン、巡音ルカ、GUMIなどなど……VOCALOIDは「電子の歌姫」のように呼ばれ、それぞれ細かいキャラクターを持っているが、やはりMIDI鍵盤をトリガーにして歌わせるという手法を見ると、否が応でもVOCALOIDは電子楽器の一種=音声のシンセサイザーであることを思い知らされ、YouTubeやMMD、楽曲のPVや二次創作によって覆い隠されていた「楽器らしさ」が露わになる。例えば初音ミク append で揃えられた6つのデータベース(Sweet・Dark・Soft・Light・Vivid・Solid)も、ある面では「6つの性格を演じ・歌い分ける女優としてのミクさん」である一方、ある面では「VCOから出る6種類の波形」のような存在でしかないのかも。
歌声を手に入れる、ということでいえば2020年にリリースされたNEUTRINOも見逃せない。MusicXMLを入力することでAIが自然に近い歌声を出力する仕組みで、VOCALOIDの楽曲でいうところの「神調教」がすぐ手に入るようになった(もちろん楽譜を書く必要はある)。

で、実際NEUTRINOが出力した音声を聴いてみるとこんな感じ。

やはり音声合成ソフトは一部例外はあるものの、人間の声への回帰の流れがある。もちろんそれは技術的な進展を考えれば自然なこと。ただこの流れは、椹木野衣が著書で度々ドイツの電子音楽グループ・クラフトワークの「ロボット」を例示しながら述べる「テクノ論」を思い出させる。「テクノ」らしい音楽・また芸術というのは、人間が感じる自然さからずれた、ある種の機械的な未発達性を持つからこそ、逆説的に「テクノ」なものとされる。もしそれがより人間的な自然さの方向へ近づけば、それは「テクノ」ではない…… 関節がむき出しの「ロボット」や、ピコピコとしたチップサウンドの如き、懐かしい初期VOCALOIDの拙い感じ…..
VOCALOIDを題材にした論文はたくさんあるが、やはりコンテンツ研究に留まっている感は否めない。ケンペレンの「話す機械」からヴォーダー/ヴォコーダー、IBM 7094、DECTalk、DAISY、VOCALOID、NEUTRINO……という音声合成・音響再生産の系譜、ジョナサン・スターンの『聞こえ来る過去』の研究の延長として、あくまで電子楽器による音響再生産の一つとしてVOCALOIDを再検討・評価していく必要があると思う。


佐近田展康「映画における音の空間――聴覚的空間性の技術的操作とその機能」

(『名古屋学芸大学メディア造形学部研究紀要』第8巻、p.23-36所収)
映画における音(声・音楽・物音・音響の機械的操作etc.)が、映画作品の空間、映画館の空間、物語世界の内外、スクリーンの内外、観客の位置といった「映画と空間」に関わる問題とどう関係し、どのような機能を果たしているか……という「空間構成機能」(p.23)についての論文。前半では映画に音が導入された歴史を振り返り、後半では映画の音がもたらす空間を分類しつつ、技術的視点から音による空間の創出を考察していく。

「ムービング・リップス」で指摘されている、映画の物語世界の空間に観客を没入させるためには、それを妨げるような映画館自体の空間や様々な技術的な痕跡を透明にする必要がある(p.27)ということと、ミシェル・シオンが指摘した「フレーム外の音」がスクリーンや映画館の空間に観客の目を向けさせてしまう「舞台裏効果」の危険性(p.28)と関連付けて音楽ライブの空間を考えてみる。ジャズ喫茶でボーカルが歌うような小さいライブ空間と、ロックフェスのような屋外の大きいライブ空間では没入の度合いや舞台裏効果も異なるだろう。特にロックフェスでは広い空間、巨大なスピーカーやセット、ステージに出てくるスタッフ、またステージ前方で集団で飛び跳ねる人から後方で椅子に座って酒を飲む人まで多様な聴取の在り方が存在し、舞台裏効果は誰もが目に見えるものになるはずだし、音源の所在に対する認識も変わってくるかも。


伊藤俊治『ジオラマ論――「博物館」から「南島」へ』

19世紀を「イメージの時代」と捉え、のちの写真や映画へ繋がる視覚体験・視覚像の原型を創り出す時代としたうえで、その流れや意味を解き明かしてゆく本。前半では19世紀における気球、鉄道といった移動手段の出現が、人々へ新たに空中からの視点やパノラマ的視点、大衆旅行の実現を提供し「地球全体がピトレスクなコントロールがおよぼされうる場所となり、ジオラマと化して」(p.280)いくさまを考察する。後半では伊藤自身がインドネシアのバリ島に行った際の豊かな体験をもとにバリと西欧の視覚像の違いを明らかにしていく。

音楽ライブとジオラマ的知覚という点でいえば、ピンク・フロイド「ザ・ウォール」の巨大なステージングで用いられる壁を例示できるだろう。「ザ・ウォール」の壁はみた所ただの巨大な平面だが、映像が写し出されれば壁はスクリーンになり、フレームの中で距離感や遠近感が逐一変容していく……さらにその壁の前で相対的に小さい姿のメンバーが演奏するのも、「ブレードランナー」で用いられたジオラマのメソッド(p.35)を連想させるところがある。

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