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“ありえない”をブームにするニッチ戦略

標題の小冊子、各章より引用します。その後の『「ありえない」をブームにするつながりの仕事術』の執筆依頼につながった講演録です。


1 未経験だからできる

新しいアイデアを思いつきそれに興奮したら、上司に意見を求めるべきじゃないし、専門家に相談すべきでもないし、経験を積むまで後回しにすべきでもないし、家族の同意を取り付けようとしてもいけません。イノベーションの第一歩には他人の「いいね!」は不要なのです。

2 他人の意見より自分の体験

「テロ支援国家」「上野で偽造テレカ」のイメージが強かったイランは、なんとなく怖い国だと思っていました。しかし、観光客のほぼいなかった当時(1996年)、出会う人は親切だし、食事も美味しいし(外食産業が発達していなかったので、飲食店は貧弱だったが家庭料理が素晴らしかった)、歴史も深く美しい観光資源がたくさんありました。言葉が通じないシーンに何度も出くわしましたが、1カ月以上の滞在で自然に簡単なペルシャ語が分かるようになりました。多くの出会いがあり、事前に僕が持っていた情報がほぼ完全に間違っていたことに気づきました。「自分の目で見ないと真実はわからない」ことを実感し、一次情報から判断することの大切さを知りました。人の噂やガイドブックより、直接見聞きしたことを信じるし、情報は可能な限り直接取りに行くべしと考えています。

3 起業とは「うまく稼ぐ」ことではなく「社会を変える」こと

僕は10年近くかけて、他人とは違う経験を積んできたことに気づきました。その経験を「思い出」として保持するだけでは何の意味もない。社会と世界のために活かしたいと思いました。
それまでさまざまな仕事をしてきましたが、自分ならではの仕事を作り出したい、自分の思いを自分で形にしたいという結論に達し、「起業」することに決めたのです。

4 パクチー料理専門店を作った理由

その日から遡ると約2年間、僕は日本パクチー狂会の会長をつとめていました。パクチー料理専門店を開くためではありません。旅をして、世界中で見かけるのに日本ではほとんど出合うことのないパクチーを、少しでも、いやたくさん、入れて欲しいと願ったものの、誰も真面目に取り合ってくれなかった経験から、半分冗談で設立したものです。パクチー普及活動を行い、その活動が楽しかったので次第に原理主義化して行きました。

5 「全緑」を尽くせ

楽観的な僕も、パクチー屋の看板を上げただけで人が来るとは思っていませんでした。「ありえない」ビジネスだからこそ、力づくでも集客しなければと思い、さまざまな仕掛けを考えました。店舗物件が決まる前に渋谷の大型商業ビルで「パクチー展」を開催したり(費用ゼロ)、メディアの力をうまく利用する方法を考え、実行してきました(10年間で1000回を超えるメディア露出を達成)。

6 ダジャレで人を惹きつけ発想を飛躍させる

パクチーハウス東京の運営会社である株式会社旅と平和の設立日は8月9日。毎朝毎晩8時9分はパクチータイム。資本金は890万円。発行済株式数は890株。パクチーハウスの店舗の面積は約89平米。初期のアルバイトの時給は890円でした。人気メニューのヤンパクは890円、パク天は789円で、酸っパク麺は1189円。
初来パクのお客さんは、食事を楽しんで89分ぐらい経った頃、周囲が「89」に覆われていることに気づきます。

7 コミュニケーションを軸に事業展開

パクチーハウス東京は十年近い歴史の中で、お客さんからたくさんの発想をいただいて来ました。海外のゲストハウスのイメージで店づくりをし、自然に会話を生まれる空間を目指してきました。お客さん同士が仲良くなることはもちろん(店として強要はせず自然な流れで)、意思あるスタッフたちはお客さんからたくさんのことを学んでいます。サブタイトルとして掲げている「交流する飲食店」が多くの人の行動によって実践されているのです。

8 時代の作り方 先見性<しつこさ

人と違う考えでも、自信を持って主張することで初めて認められる---。これは僕が旅を通じて、文化の異なる人たちとたくさん出会ったことで気づいたことです。誰がなんと言おうと自分のしたいことをするのは絶対的に大事で、規模の大小は関係ありません。独自の世界観を持つことで、世界に通じることができると思っています。



パクチー(P)コワーキング(C)ランニング(R)を愛する、PCR+ な旅人です。 鋸南(千葉県安房郡)と東京(主に世田谷と有楽町)を行き来しています。