正月と神社と自分
あけましておめでとうございます。そもそも何であけるとめでたいのかよくわかりません。子どもの頃、親が隠していた謎お菓子の蓋を勝手にあけても、おめでとうどころか怒られるだけでした。それから多くの時間が流れましたが、なぜ「あける」と「おめでたい」のか全くわからないで生きています。何かとお金が消えていく年末正月はどちらかというと「お疲れ様です」とその痛みを大人同士で認め合いたいものです。
正月における不思議な行動や慣習はそれだけではありません。みんな突然、正月になると神社に行きます。普段は全く信仰深くないのに、突然、正月だけ神様に挨拶するのです。そしてお願いごとをあれやこれやと心の中で願うのです。神様視点で考えてみたら、年に一度だけやってきて、小銭のお賽銭の代償として「お金持ちになりたい」「健康で無双に過ごしたい」「西島秀俊と結婚したい」と叶わぬ願望を置いていくのですから、それはどうかと思います。せめて大泉洋さんにしましょう。
私は信仰深いので神社は年に2回は行きますし、願い事も謙虚に「タージマハールのような家に住みたい」という小さなお願いをわずか10個にとどめるようにしています。
初詣の後にみなさんお守りとかお札とか、人によっては物騒にも矢みたいなものを買って帰ります。私も何度か買って帰ったことがあるのですが、これがまた意味がないので最近はやめることにしました。「身代わりお守り」は数日しか持ちません。次第に短くなっていき、数年前などは買ったその日にパリンと割れました。ヤバイです。もったいないので買わなくなりました。買い続けているとそのうち、買う前から私が割れてしまいそうです。北斗の拳でいう「お前はもう死んでいる」状態です。
神様とはよくよく話をしているとコミュニケーションのようなものが取れてくるものです。ある試験を控えた日「合格させてください」とお願いをしてお札を買って神棚にお札と当日使う鉛筆を並べていました。数日後の深夜、その鉛筆が全部音を立てて落ちました。それが神様からのアンサーです。無風の部屋でそんなことがあるのでしょうか。結果は聞かないでください。
「健康に過ごしたい」とお願いした年は、母が友達にもらってきたという海鮮丼を食べて食中毒を起こしたこともあります。母曰く「私も変だと思ったのよね。だから私は食べなかったの」という母からの愛情に満ちた言葉もありました。
そんな神様に愛されている私は、今年も神社にいきました。いつもは15円、25円というお賽銭に問題があるのかと思い、今年は清水の舞台から飛び込むつもりで85円にしました。賢い私は知っています。最後に「5円」をつけて「ご縁」とかけるのです。85円という金額にしたので、安心していたら、先ほどネットで85円は「やっぱりご縁がない」という意味と知りました。
見捨てないでください。
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