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シアワセの香り。

「なんだっけ、この匂い…」
部屋の中に漂う、何かの匂いが気になってしょうがない。どこかで嗅いだことがある、妙に気になる匂い。臭いというわけではないけれど、快か不快かで言うと、どちらとも言えない。分かりやすくシトラスの匂いとか、香水の匂いではない気はする。でも、病院の消毒液のような分かりやすく嫌な匂いでもない。アレが好きって人もいるらしいけど。どちらにせよ、そういうすぐ何かを連想できる系の匂いだったら、すぐにピンと来そうなもんなのに。

「なんだっけ、あの匂い…」
香辛料でもない。シナモン、クローブ、カルダモン、ジンジャー、ローズマリー…そういう系じゃない。そういう系だったら私の鼻は素直に『良い香り』判定を出すし、お腹が空いてしまうに決まっている。
「あっつッ!?」
考え事しながら料理はしてはいけない。私の悪いクセ。フライパンで溶けたバターの良い香りがこっち向けよと言わんばかりに誘惑してくるから、私は考え事を一時中断する。

「なんだっけ、あの匂い…」
恋をしてしまったように、私の脳は記憶の中の謎の香りを探し続けている。部屋を出れば香りはしないはずなのに、鼻は同じ香りを逃がすまいとしている、そんな感覚。好きな人の香りをなぜか一緒にいないときにキャッチしてしまって妙に嬉しくなってしまったときのような、あるいは無意識に香りを、あるいはその人を求めて視線を泳がせて探してしまうようなこの現象になんて名前をつけようか。

「なんだっけ、あの匂い…」
思えば同じようなセリフを繰り返している気がする。1つのことが気になると、なかなか抜け出せない。彼氏に聞いてみようか。でも、匂いなんて伝えられるものでもないし、匂いの話で共感してもらえるとも思えない。なにより『彼氏の匂い』ではない以上、地雷案件になってしまうかもしれない。彼の匂いならすぐに分かると思うし、嗅ぎ間違うことはあり得ない。100%分かる自信がある。

「なんだっけ、あの匂い…」
指先に塗ったハンドクリームの香りを楽しみながら、これでもないんだよなぁ、などと分かり切っていることを口に出して確認する。お気に入りのピンクグレープフルーツの甘さと酸っぱさと苦味を思わせる香り。探している香りはこんな芳醇じゃない、作り物っぽいケミカルな感じの、ラベンダーとか、なんかそんな感じの花っぽいような、花じゃないような、そんな造花みたいな匂い。

「え、なんでここにいるの?」
一瞬だけど間違いなく、あの匂い。会社の更衣室だから辺りを捜索することはできないけれど、今確かにあの匂いがいた。誰かの服の匂い?ボディーシート?やっぱり香水?ふわっと漂って、一瞬で消えてしまった。尻尾を掴みかけたのに、するりと逃げられてしまった感じがして、何とも言えない気分のまま着替えてすごすごと退社する。

「よし、もうやーめた」
ダメだ、降参。そんで、今日はカレーにしよう。ご近所さんから苦情が来ちゃうくらい、部屋中をスパイスのご機嫌な香りで埋め尽くして、それでさよならだ。カレーの香りには敵うまい。心の中で高笑いをしながら、近所のスーパーで材料を次々にカゴに放り込んでいく。広告の品と書かれた鶏肉をスルーして、牛肉の塊肉パックをつかむ。チキンなんてしみったれたことは言わない。今日はビーフなカレーでワインも飲んで、部屋をごちそうの匂いで満たすのだ。

「あー、おなかいっぱい!満足!」
帰ってすぐに赤ワインを開けて、飲みながらノリノリでカレーを作って、勢いそのままでモリモリ食べて、楽しくなって笑いながら彼氏と通話して、呆れられて。洗い物を済ませて、シャワーも済ませて。換気扇は回さず、部屋はカレーとワインの良い匂いのまま。幸せのままでベッドにダイブ。そして。

「よりによって、ここだったかー…!」
昨日洗ったばかりのシーツが、あの匂いで私を抱いてくる。カレーパワー、ベッドにまで及ばず。私を悩ませ、探し回った香りに包まれる。そして、その拍子ですべてを思い出す。ベッドの弾力、シーツの感触、洗剤の香り。前の彼氏のお部屋の匂い。思えば、洗剤を新しく買い替えた。汚れが落ちればいいや主義の私が買ったそいつが、たまたま同じ銘柄か、同じ系統の香りだったというわけだ。今日1日私を支配していた謎が解けた気持ち良さと、満腹が、私を眠りの世界に誘っていく。開けちゃった洗剤は実家に押し付けて、明日は別な洗剤買って全部洗い直しちゃおう。夢半ばでそう決めたら、
あとは何も考えず、電気を消して、シーツに顔をうずめて、思い出の香りに埋もれる。うっすらとよみがえる、過ぎ去った日々の、薄れてしまった笑顔の記憶。元気にしてるかな、ちゃんと食べてるかな、世界のどこかで幸せに暮らしてるかな。そんなことをちらっと考えて目をつぶる。じわりとにじむ水分は、きっとさっきのあくびの余り。

今日だけは君と同じ匂い。大好きだった匂いの中で。
おやすみなさい。

~FIN~

シアワセの香り。(2000字)
【One Phrase To Story 企画作品】
コアフレーズ提供:しゃるろっと様
『今日だけは君と同じ匂い』
本文執筆:Pawn【P&Q】

~◆~
One Phrase To Storyは、誰かが思い付いたワンフレーズを種として
ストーリーを創りあげる、という企画です。
主に花梛がワンフレーズを作り、Pawnがストーリーにしています。
他の作品はこちらにまとめてあります。

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