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smart crest ―クレスト10年史―

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東京 羽田大学 自習室 2030
僕は大学の自習室に入る。入口のゲートでポケットの中のクレストが読み取られ、イヤホンからウェルカムメッセージが流れる。案内に従って空いている席に座ると、視線を遮るように直立する目隠し板が淡く光る。大学の自習室特有の机。その形状は20年以上変わっていないらしいけれど、最新型のそれは、目隠し板と天板が両方ともディスプレイになっている。もちろん天板の表面は傷に強いコーティングがされているし、タッチできるタイプだから、キーボードにもなる。ポケットから取り出したクレストを、天板の端にある穴に挿入して、指紋認証を済ませると、ログインが完了する。天板の上で指を滑らせて、目的のものを探す。
「えーっと…、あ、これこれ。近現代社会史概論、第11回っと…。」
見つけたアイコンを指先で軽く叩く。この前うっかり風邪をひいてしまって欠席した分の講義。家よりも大学に来た方が、なんとなく身が入る。これはもう、仕方がないことだと思いながら、思考を授業に向けた。

……………

――さて、2019年に始まった令和の日本社会。その軸になったと言っても、もはや過言ではないでしょう。君たちも持っている"コレ"。もちろん私も持っています。持っていないと、電車にも乗れないし、車のドアすら開きません。もちろん、君たちについては、出席したことになりません。現代社会において、絶対に忘れたり失くしたりできない持ち物第1位です。そう、今回の講義のテーマはスマート・クレスト。国策として生み出され、広められていった背景を学ぶとしましょう。なお、この講義の受講レポートは、いつものように1週間後までに提出するようにしてください。

一般的にはクレストと呼ばれていますから、私もクレストと言いましょう。クレスト自体は、ICチップが内蔵された印鑑、ハンコです。そう言えば、なぜ「クレスト」という名称になったか、ご存知でしょうか。実は意外とありきたりと言うか、商業的な理由です。ハンコは「スタンプ」というカタカナ語でも親しまれていましたが、2012年頃から流行していたスマホアプリのLinearで絵文字を「スタンプ」と呼称し、そちらの方も有名になっていました。名前が被るというのは、商標登録においても致命的ですし、流行らせるにも、混同されては困ります。印鑑は英語で「シール」ですが、これも既にカタカナ語になっています。そこで、紋章を意味する「クレスト」が採用されたわけです。クレストに関して公開されている情報は多くありませんが、開発に携わった満天堂のエンジニアの方の手記は、書籍化もされています。時代の終わりと始まりに関わった者の喜怒哀楽がよく分かる資料です。この話も、その手記にあった話です。

最初から話が逸れてしまいました。戻しましょう。クレストの内蔵されたICチップにはマイナンバーカード制度のときに割り振られた国民番号と指紋パターン、静脈パターンが記録されています。指紋パターンや静脈パターンはクレストの配布時に登録されましたね。国民番号と銀行口座は国のサーバ上で紐づけられていて、銀行口座を持っていない国民に対しては、国が用意した口座が与えられることになっています。これには、大手銀行が協力をしています。これによって、様々な支援金や補助金、税金の還付などの手続きも大幅に改善され、本当に必要である家庭や個人に、必要な額がクレストを通じて支給されるようになりました。また、生活保護とギャンブル依存の問題などにも、クレストは積極的に介入していき、問題解決の一助となりました。

ICチップと言うと機械的で、冷たくて、物々しい感じがしますね。指紋や静脈が管理されているという感覚に、直感的に嫌悪感を覚える人も多かったようです。しかし、実際のところ、2019年の時点で、既に様々なものにICチップが搭載されていましたし、IoTといって、冷蔵庫や電気ポット、エアコンなど、ありとあらゆるものをインターネットに接続しようという構想がありました。凄惨な事件の経験や社会不安、そして生産コストの低下という、別ベクトルの2つの理由から、監視カメラの台数が急激に増え始めたのも、2010年代の特徴でしょう。監視社会は、人知れず到来していましたから、クレストの登場は、それを分かりやすい形に表象化したに過ぎず、人々は一瞬の硬直のあと、すぐに慣れていきました。交通系ICカードやICキャッシュカードの出現が2001年頃と考えれば、これらの変化は、順当、むしろ遅過ぎた進化とも言えるでしょう。

クレスト制度が始まったのは2020年。マイナンバーカード制度が、あまり流行らなかったのは、先週の授業で話しましたね。原因は、現代社会における流行というものを甘くみた官僚の失策でした。マイナンバーカードにもICチップは組み込まれていましたが、セキュリティを気にするあまり、大胆な利用法は提案されませんでした。企業からの提案があっても、縛りが多く、企業にもあまりメリットが無かったとも言われています。

流行を作るには、「存在に対する必然性」が重要です。2019年、電子決済に対して経産省が行ったキャンペーンにも言えることですが、「使わないより、使った方が少しだけお得」というのは、やや必然性に欠けます。使いたくなるような仕組みを作るか、もしくは使わざるを得ない環境を作るかでなければいけません。流行は作るものであるという商売の基本を、官僚はしかし、残念ながら分かってはいなかったようです。それに対して、クレスト制度、そしてクレスト政策は、その辺りの切れ味が非常に良かったのですね。

基本的な役割自体は、マイナンバーカードと同じです。しかし、それ以外が凄まじかった。分かりやすいのは電子決済方面でしょう。紙幣と貨幣の全廃を掲げ、あらゆる支払いにクレストを使うように指導。クレストと銀行口座を結びつけるとともに、あらゆる支払いの場とレジをすべてクレスト認証式にし、クレストが無いと決済が出来ない状態に社会を叩き落としました。それまでのキャッシュレス決済への優遇キャンペーンが可愛く見えますね。それまでキャッシュレスの一翼を担っていた、Spicaをはじめとする交通系ICカードも容赦なく、改札機もろとも廃止し、ホームドアでクレストを読み取るような仕組みにするように指導。バスなどの公共交通機関にも適用し、クレストが無ければ移動できない状況を作り出しました。自動車やバイクにもクレスト認証を導入しました。こちらは既存の自動車やバイクなどに取り付け可能な形の装置が最初に開発され、クレストをスロットに挿入する形態の認証と、指紋認証、そして暗証番号認証という3段認証を一定の時間内にクリアしなければ、エンジンがかかりません。当然、瞬間的な認知機能に衰えのある高齢者を中心に、免許証の返納が急速に進みました。補助金が出たことで、運転代行や送迎業の需要が高まり、結果的に地方に雇用が生まれることになったのは、皮肉と言えるでしょうか。

このようなことを、1つの企業が行えば、独占禁止法どころの話ではありません。しかし、国ならば、政府ならば、「国策」の一言で片づけることができます。もちろん、政財界の協力無しではなし得なかったでしょう。しかし、政財界は動きました。賛同が得られたからでしょうか。それもあったかもしれませんが、残念ながら資本主義社会において重要なのは利益です。クレスト政策による経済効果が、いったい何億、何兆になったのか、実は正確なところは分かっていません。しかし、様々な企業が、市場の仕組みが根本から覆るという大波に乗るかのように、我先にと設備投資を行ったことが、その効果の大きさを物語っているように思います。

先ほど「遅すぎた進化」という言葉を使いましたが、2020年という制度の始まりの時期、それ自体に意味があると見る経済学者もいます。いわく、2020年の東京オリンピック後に到来すると囁かれていた大不況を回避するための政策だった、と。確かにクレスト政策の経済効果は恐ろしいものがありました。クレスト技術の流出を防ぐため、クレスト認証機構を持つ機械はすべて国内において製造することが義務付けられていました。工場もすべて国内。盛り上がった内需は確実に国民を潤しました。また、クレストの認証をタイムカードとして利用することで、働き方改革も進みました。残業の是正に、就業時間の管理と分散、それに伴う満員電車の解消に、余暇の増加、出生数の回復…。まるでクレストが「足りなかったピース」であったかのように、当時の社会に立ち込めていた暗雲のような、諸問題を解決する突破口となったのは事実です。しかし、何事も長くはもちません。クレスト制度による経済効果も、いずれは停滞しますし、新たに生まれた問題もあります。私たちは、考えることを止めるわけには、いかないのです。

少し話題を変えましょう。クレスト政策と同時に進んだ大改革に、教育政策と学校改革がありました。この時期の重なりは、偶然か、それとも仕組まれたものか。これもまた、未だに謎に包まれています。クレストは小学4年生から配布・登録が行われるようになりました。ちょうど、君たちがその学年じゃないかと思います。机にクレストを挿入することで出席を申告したり、テストの点に応じて付いたポイントを使って学校内の自販機で買い物ができたりと、クレストを巧みに組み込んだ教育が企画されました。あるいはクレストを使う練習をさせられていた、と言えるかもしれません。

クレストを教育現場に積極的に導入したことにより、学習管理、習熟度管理も非常にスムーズに行われることになりました。あらゆる場で行われるクレスト認証のデータはすべて集約され、必要に応じてAIに処理・分析されます。生徒一人ひとりの学習データやテストの点数も、教員によって入力され、AIに分析さたのち、個々人に最適なアドバイスとなって、生徒に通知されるようになりました。勉強ができた方がポイントが付いて得をする、しかも子供だましのスタンプではなく、おやつや雑貨が手に入る。こうなると、子どもたちは食い付きました。もちろん、物で釣る、報酬で釣るとは何事だ!という教育者はいましたが、なにせ「国策」。すべてはクレストを浸透させるためとして強行されました。結果的に学力の全国水準が上がったのは皮肉としか言えません。美しい理想論より、俗っぽい現実、といったところでしょうか。

さて、教育改革は止まりません。働き方改革がクレストによって円滑に進んだことで、「全員が決まった時間に揃って生活するのは、本当に人間的か?豊かな人生と言えるのか?」という議論が世を沸かせます。クレストが誕生する以前から、このような議論は行われてきましたし、脳神経科学的な見地から午前10時以前の始業に対する警告もありました。しかし、世の大多数の人間が、ある種「軍隊的に」働いていましたので、「仕方がないこと」として扱われていたのです。それがクレストによって変貌しました。そして、それに伴って、「小さい大人」とも言える子どもの教育のあり方にも自然と議論が進みます。そしてついに、その時は来ました。クレストが世に出た3年後の2023年。全国で公立の小中学校の閉鎖が決定し、地域の人口に合わせた規模の総合教育センターが開設されました。

総合教育センターには保育園、幼稚園が統合され、地方行政の中でも教育や育児に関連する部署や窓口は、各地域のセンターにまとめられました。子育て支援や児童相談所のような施設も含まれます。小中学校の「授業」という形態はほとんど無くなりました。授業はオンラインでの動画配信や個別の質疑応答の形式に移行し、実質的には単位制となりました。基礎的・共通的教養科目の他は、それぞれの特性や興味に合わせて履修と学習活動が展開されていきました。児童生徒は自宅からでも、センターの端末からでも学習を行うことができます。もちろん、体育や技術、音楽などの現実空間での学びも担保され、給食も申請すれば食べられる。こういった形で、教育はハコ物と時間の制約から解放されました。まだ7年しか経過しておらず、この教育政策の成否を現段階で判断するのは尚早と言えますが、社会に目立った混乱は見られないようですし、最近では若年層の教員志望者数が回復傾向にあるという報道もありました。

そろそろ、講義も終わりの時間です。さぁ、君たちにとって、この10年間はどうでしたか?幸せでしたか?それとも、社会や政治に振り回されたと思いますか?残念ながらクレストも、それに付随する政治システムも、完璧ではありません。しかし、人々の、そして君たちの思考に、常識に、一石を投じたのは事実であろうと思います。途中にお話ししたように、問題は未だに生まれ続けています。今を疑う目線、そして幸せな未来を追求する目線を忘れずに、君たちにも生きていって欲しいと考えています。

それでは今回の講義はここまでとします。始め方でも言いましたが、レポートの期限は1週間後ですので、しっかりと提出をするようにしてください。

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僕は無線イヤホンのリンクを切って、レポートの内容と残り日数を確認する。今週は忙しい。ここで書いていくべきかもしれない…。そう思った僕はイヤホンのリンクを繋ぎ直して、今度は文書アプリを起動して、動画を再生する。

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