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敦賀とユダヤの物語

日本の古代史を調べていると、大陸から渡来の神がやってきて、
各地を開拓する歴史を多く目にします。
今回記事にする福井県敦賀市もまさにそんな土地柄です。

第11代垂仁天皇の時代、ツヌガアラシトという神が日本にやってきます。
その神が治めた地をツヌガ国といいました。
このツヌガ国が後世変化し敦賀になったという言い伝えがあります。

ツヌガアラシト。変わった名前ですね。その名前の由来は「ツノがある人」
からきていると言われます。
「ツノがある人」というのがポイントで、
その姿からユダヤの神を連想させられます。

ミケランジェロやレンブラントはモーゼを頭からツノが生えた存在として
表現しました。

「ユリウスⅡ世廟のモーゼ像」ミケランジェロ作

また旧約聖書にあるモーゼ五書のうちの一書、民数記では神を牛のツノに例える部分があります。
このことにより金の子牛はヤハウェの原型だったと考えられています。
ツノがある存在とはどうも旧約聖書に関連する
ユダヤの神の匂いがするんですよね。

日本には他にもツノがある存在として「鬼」がいますね。
僕はこの「鬼」という存在もユダヤに関連した渡来の神だったと考えています。
その神が後世「鬼」という存在に貶められたと。

そんなツノがあるツノガアラシトですが、日本書記によると古代朝鮮加羅国からやってきた加羅国の王子とされています。

加羅 wikipedia

古代の朝鮮半島は現在と人種構成が違います。加羅や新羅の遺跡から4世紀〜6世紀のローマングラスが発掘されていることからわかるように、ユーラシア大陸の西から様々な民族が朝鮮半島にやってきていたと思います。秦始皇帝も目が青かったとされていますしね。

新羅の古墳出土のローマングラス

であれば、加羅国の王子ツヌガアラシトがユダヤに源流を持つ人物である可能性は十分あります。
そしてなにより僕がこのこのツヌガアラシトの源流がユダヤにあると感じる最大の理由は、アメノヒボコと同一人物と考えられているからです。
アメノヒボコとは神功皇后、応神天皇の御先祖です。
応神天皇は以前記事にしましたが、ユダヤやキリストの匂いがぷんぷんする天皇です。

その応神天皇の御先祖ですから、キリスト以前のユダヤに源流があると見てまず間違い無いと思います。
アメノヒボコも渡来の神です。
新羅からやってきたとされていますが、その源流をたどればおそらく中東に辿り着くはずです。

敦賀には越前國一宮氣比神宮があります。
御祭神には神功皇后、応神天皇が名を連ね、境内にある角鹿神社でツヌガアラシトを祀っています。
そんな氣比神宮、地元では「けい」さんの愛称で親しまれています。
この「けい」さんとは敦賀気比の「けひ」という御食津神(食物神)からきていると伝えられていますが、僕はもっと深い意味があると考えています。

原始キリスト教ネストリウス派は中国で景教(けいきょう)と呼ばれました。
おそらく日本に入ってきた当初もそう呼ばれていたでしょう。
景教を日本に持ち込んだのは秦氏と伝えられています。ユダヤ説の根強い氏族ですね。そして他ならぬ神功皇后、応神天皇を祀る神社の愛称ですから、それが景教からとった「けい」さんだとしても全然あり得る話だと思います。

まあ、なにはともあれこのツヌガアラシト、地元での崇敬は現在でもとても厚く、敦賀駅前には銅像が立っています。

人文研究見聞録より

勇ましい!よほど敦賀の開拓に尽力を尽くした人なのでしょう。現在まで続く信仰の深さ、地名の由来になっていることから見てもその功績は多大なものであると推測できます。大陸からの技術を敦賀に持ち込み、人々の生活をだいぶ向上させたのかもしれません。いずれにせよ、古代の敦賀に住んでいた人々は彼に大いに助けられたことでしょう。

さて、そんな大陸からの渡来神、ツヌガアラシトを神として崇めたこの敦賀。
何の因果かその歴史は近代になり、別の形で繰り返されます。

第二次対戦中、ナチスから迫害を受けたユダヤ人を亡命させるため、外務省職員の杉原千畝(すぎはらちうね)がビザの発給を開始します。
いわゆる「命のビザ」ですね。当時このビザによって救われたユダヤ人は6000人にのぼると言われます。

そしてその6000人のユダヤ人を受け入れたのが敦賀港なのです。

苦難の旅路を経て北陸の地に降り立ったユダヤ難民。
彼らは現地の住人に手厚く迎えられ、
「敦賀はまるで天国に見えた」
とのちに語っています。

太古の時代、ツヌガアラシトというユダヤの神により発展した敦賀の地。
その敦賀が近代になり、今度は迫害されたユダヤ人を助けるために港を開く。

なんてロマンのある話でしょう。

ただの偶然と言われればそれまでですが、僕はそこに敦賀という土地の持つ、太古の記憶が作用したと信じます。かつてユダヤの神により開拓されたこの土地が、
長い長い時を経て迫害されたユダヤ人を受け入れる。
なぜビザを発給したのが日本人だったのか?なぜ受け入れ先が敦賀だったのか?
僕はこの事実に古代からの大きな因果を感じます。

当時のユダヤ難民が敦賀はまるで天国だったと語っているように、彼らを迎え入れた敦賀市民は無償で食べ物を提供したり、銭湯を開放したり、手厚いもてなしをしたそうです。
当時の敦賀市民が建国の祖の源流がユダヤにあることを知りながら難民に接していたとは思いませんが、かつて、はるか昔、ユダヤの神に先祖が助けられたという遺伝子の記憶が無自覚のうちに作用していたのではないかと思います。

大陸のはるか西から亡命してきた異国の人間に、遠い古代から連なるなにかしらのシンパシーを感じていたのではないでしょうか。

遺伝子の記憶。僕はこれが知りたくて古代史を調べています。
そして最近わかったことがあります。
遺伝子の記憶とは、知識ではなく感覚なんだ。
これからも感覚を頼りに遺伝子の記憶を探っていこうと思います。

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