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天地開闢 筑波山 オノコロシマと始まりの地


むかーしむかし、むかしの話。今から4000年前、極東の島国でのお話です。
イザナギとイザナミは筑波山の麓に新居を構えました。
伊佐川のほとり、伊佐に宮を造り、新婚生活を開始しました。
先祖たちが住んでいた青森をはじめとする東北は、気候が変わって寒くなってしまったからです。寒冷化に伴う食糧難に遭遇する時代でした。豊かな森は減っていき、動物もいなくなりました。だんだんと人々は飢えていきます。温暖な時期に最盛期を迎えた人口も、この島が寒くなるにつれ著しく減りました。

だから一族は列島を南下し、現在の茨城県にある筑波に新居を求めたのです。

イザナギは根国(北陸地方)の皇子、イザナミは日高見国(東北地方)の皇女に生まれました。

二人の出身地のちょうど中間に位置し、また古代の交通の要衝であり、人の多く集まる場所であった茨城県の筑波が新しい国家再建の拠点に選ばれたのです。

縄文時代の人工分布

4000年前の当時、この島の人口は東日本に集中していました。
西日本は7300年前に九州南部の海底で起こった鬼界カルデラの大噴火により、その後1000年以上もの間、人の住めない地域となっていたからです。

縄文時代の人口推移
ホームページ 日本あれこれより引用

縄文時代の人口密度を調べると前期、中期、後期を通して関東、中部、ついで東北が突出しています。そして人口は温暖化のピークを迎えた中期(約6000〜4500年前)に急増します。図で見るとこの時期も関東中部地方が突出しています。しかしこの島の寒冷化が始まる後期になると最も密度の高かった関東でも約半分にまで減少します。今までの人口増を支えた食糧も次第に採れなくなっていき、バタバタと人が倒れていきました。

ちょうどこの島の気候が大きく変わる縄文時代後期の中頃(約4000年前)、イザナギとイザナミは先祖が住んでいた北陸や東北を離れ、関東の筑波にやってきて、そこからこの島の再建を図っていったのです。
先ほど古代の筑波は交通の要衝と述べましたが、「」と思った方も多いと思います。

約6000年前 関東の地形

たしかに茨城の内陸部にあるこんな山の麓がなぜ交通上の重要な地点となるのかはなはだ疑問ですね。
しかし古代のこの辺りは、まず地形が現在とは違っていました。
この島では約6000年前に温暖化のピークを迎えます。気温の上昇により世界中の氷床は溶けていきました。つまり海水面が上昇したのです。
この6000年前の世界的な海面上昇をこの島では縄文海進と呼びます。
そして縄文海進時の関東の地形が以下の図です。

縄文時代の関東
ホームページ 佐山自然史通信より引用

関東はほぼほぼ平野ですから、こうした海水面上昇の影響をモロに受けます。現代の利根川を大幅に拡大するように内海が内陸部の奥深くまで入り込んでいます。
霞ヶ浦も今のような湖ではなく完全な海でした。この内海を古代「香取海」と呼んでいました。
また東京湾も埼玉まで流れ込み、房総半島はもう完全な島ですね。

日本三大神宮 そのうち二つが東国のはずれに鎮座する理由

図で見ると寒冷化が始まってだいぶ経った約3000年前、縄文後期の海岸線を見ても霞ヶ浦と太平洋が繋がっています。まあ、もともとが平地ですから温暖化による海面上昇が引いても現在の地形になるまでには多大な時間を要したのでしょう。
この3000年前の海岸線に東国の主要な神社を載せてみましょう。

約3000年前の関東の地形

ご覧のように香取海の沿岸部に対をなすように両神宮が鎮座します。まるで門のようですね。海上から筑波を目指す際、太平洋側から入ってきた船は鹿島香取両神宮が左右に並ぶゲートを通り、奥の筑波山に辿り着くのです。

いや、あるいは逆かもしれません。

筑波山の麓に新居を構えたイザナギとイザナミは、寒冷化により人口が減少した国家を復興するため、この場所から西側地域の開拓に乗り出したのです。
もともと住んでいた東側が寒くなって居住に適さなくなったので、より温暖で人の少ない西側への移住計画を立てたのです。その拠点を筑波においたというわけです。

古代の長距離交通手段といえば船ですね。人も物資も、風と海流が運んでくれます。

筑波を出発した船は、鹿島香取で仲間を従え太平洋に出て、西側地域に向ったのかもしれません。鹿島と香取はタケミカヅチとフツヌシで有名ですが、僕はもともとこの香取海沿岸部は海洋民族が住んでいた場所だと思うのです。

「香取」を「かんどり」と読んだりしますが、「かんどり」とは船頭のことで、実際に利根川流域からは縄文時代の丸木舟が多数発掘されています。また水手と書いて「かこ」と読みますが、これは鹿島の語源でしょうか?水手とは文字通り、船員のことです。

やはり鹿島や香取は古代、海洋民族が暮らした場所なのではないでしょうか?
香取海という広大な内海を縦横無尽に駆け巡った優秀な船乗りが。
神話はそのヒントを残してくれていると思います。出雲の国譲りの話を思い出してください。タケミカヅチやフツヌシは「遠征時に活躍する神」ですね。

上の図、縄文時代の人口推移を見ていただきたいのですが、温暖化のピークを迎え寒冷化が始まる縄文中期から弥生時代にかけて、東北地方の人口密度が減少し、近畿より西側の地域の人口密度が急増していることがわかると思います。
もちろん大陸からの人の流入もあったでしょう。
しかし僕はかつて東国で暮らしたこの島の王族が、気候変動により都を西側に遷都したと、そう考えているのです。

縄文の全時代区分を通して最も人口密度の高かった関東地方、そのほぼ中央に位置する筑波山。縄文時代のある時期に、僕はここがこの島の中心だったと、そう信じているのです。

このへんの縄文人の移動経路については過去の記事で考察していますので、よろしければそちらもご参照ください。

筑波山縁起に記された「はじまりの地」

さて、江戸時代後期の木版画に「天地開闢筑波山」と明記されている作品があります。どうやら明治維新の前まで筑波山は、この島の始まりの地として有名な山だったようです。

また筑波山神社のホームページにも非常に興味深いことが書かれているので引用させてもらいます。

筑波山縁起によれば、当神社の創祀は遠く神代に始る。天地開闢の初、諾冊二尊が天祖の詔をうけて高天原を起ち、天之浮橋に並び立ち給う、天之瓊矛(あめのぬぼこ)を以って滄海をかき探り給えば鉾の先よりしたたり落ちる潮凝って、一つの島となる。即ち二神は東方霊位に当る海中に筑波山を造り得て降臨し給い、天之御柱を見立て、左旋右旋して東西御座を替え給い、相対面なされて夫婦となり大八洲国及び山河草木を生み給う。次に日神、月神、蛭児命、素盞鳴尊を生み八百万神を生み給う。記紀に伝える「おのころ島」とは筑波山のことで、この故に筑波山は日本二柱の父母二神、皇子四所降臨御誕生の霊山であり、本朝神道の根元はただ此山にあるのみと伝えている。

筑波山神社ホームページ沿革より引用

記紀に伝える「おのころ島」とは筑波山のことで

さらっと書いていますがのっぴきならない文面です。
オノコロシマとは国産み神話に登場する、地上に降り立ったイザナギ・イザナミが最初につくった島とされています。

イザナギとイザナミは自らが生み出したこのオノコロシマに降り、結婚します。そこからこの二神は大八島を構成する島々、淡路島や四国、隠岐島などを生み出していきます。オノコロシマの次につくられた島々はみんな西日本の島ですね。

始まりの地、オノコロシマの伝承は各地に残っています。
では実際どこにあったのか?
調べてみると関西地方、淡路島近辺が特に有力視されていますね。まあ、僕たちが学校で習ってきた歴史とは高千穂神話に代表される西側の歴史観ですから、オノコロシマも西にあっただろうという推論は至極真っ当だと思います。

しかし僕はそれだと納得がいかないのです。なぜなら縄文の歴史が断絶されているからです。

青森の三内丸山は4200年前の集落跡です。千葉の加曽利北貝塚が造られ始めたのは5000年前です。そして縄文時代の人口はこの島の東側に集中しています。

その事実を無視して宮崎の高千穂に天孫ニニギが降臨し、日本の建国神話が始まったとする歴史解釈に僕は違和感しか感じないのです。
歴史を紡いでいくのは必ず人です。神は歴史を教えてはくれません。つまり歴史とは、その場所にある人のいた痕跡です。

鬼界カルデラの噴火の影響で、縄文後期まで西日本にはほとんど人がいませんでした。つまり縄文時代の大部分、西日本には紡ぐ歴史がありません。ある時期を境に途切れてしまっているのです。
じゃあニニギは大陸からやってきた人なのか?いいや、ニニギの曽祖父母はイザナギ・イザナミです。曽祖父母だけではありません。ニニギの先祖は間違いなく東日本にいたはずです。彼らが紡いできた日本神話における神代の歴史とは、縄文が栄えた東日本の物語だと、僕はそう確信しています。

気候変動による寒冷化の影響で東日本にいたこの島の王族は、西日本への移住、開拓に乗り出します。神話で言われる「国産みの話」とはこの西日本への移住開発事業を指しているのだと思います。イザナギ・イザナミがオノコロシマの次につくったのはみな西日本の島々ですし。

筑波山の頂上付近には「国割り石」と呼ばれる奇岩があります。
太古の昔、集まった神々がこの石の上に線を引き、それぞれの治める地方を割り振ったそうです。まさしく、ここが天地開闢の地であることを証明するような奇岩です。

西日本移住に向け出航するイザナギとイザナミ

筑波で新婚生活を送ったイザナギとイザナミは、激変した気候に適応するため、そして多くの仲間を失ったこの島を再建させるため、筑波から西日本の開拓に向けて出航しました。彼の地で、再び豊かな国土開発を目指すために。
眼前に広がる香取海を抜け、太平洋の大海原に乗り出しました。途中、香取や鹿島から賛同する船が多数現れました。彼らは優秀な海洋民族、いわゆる水軍です。
王を乗せた船はまるで艦隊のような編成を組み、太平洋の海流に沿って西を目指したことでしょう。

彼らの物語は国産み神話が紡いでいきます。

オノコロシマとは始まりの地。「王の航路」の始まりの地。

ホームページ 土浦探訪より引用

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