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千葉中部に坐す風の神、ふたり

大地に土を盛りましょう。そこに石を置きましょう。できた墳丘の上に埴輪をならべ、石棺を納めたら、はい、古墳の出来上がり。

現在でも各地に残っている古墳、あのちょっとした丘のような風景はこうして造られました。
一般的には有力者の墓と言われていますね。

古墳の造営はその名の通り古墳時代に隆盛期を迎えますが、古くは弥生時代から造られていました。古墳の原型となった墳丘墓が弥生時代の終末期に造営された痕跡が、徳島の萩原墳墓群などで確認できます。

大型の古墳のほとんどは前方後円墳という形式で造られています。大阪の大仙陵古墳で有名な、いわゆる鍵穴のような、あるいは壺のような形です。

大仙陵古墳 wikipediaより引用

古墳といえばこの形をイメージする方が多いと思いますが、このデザインは、いくつかの変遷をたどって最終的にこの形式に落ち着いていくのです。

そして僕の住んでいる千葉県に、その古墳の形式の変遷を現代に伝える貴重な史跡が残っています。

神門5号墳 千葉県庁ホームページより引用

千葉県市原市に神門古墳群という遺跡があります。この古墳群は市原市を流れる養老川下流域北岸にあるのですが、この辺りは縄文遺跡や貝塚が数多く残り、太古の時代より人が生活していた痕跡が伺えます。そしてこの神門古墳群はただの丸い円墳から次第に前方部に方墳が造られ、やがて前方後円墳に定型化していく古墳のデザインの変遷を1箇所で確認できる、全国でも稀に見る古墳群なのです。

千葉県市原市 神門古墳 5号 4号 3号墳
ホームページ 神門古墳を訪れるより引用

神門古墳群には現在3つの古墳が残っています。
造営時期は5号墳が最も古く、次いで4号墳、3号墳と造られていきます。
画像の通り丸に近い形をしていた古墳から突起が出て、徐々に前方後円墳になっていく過程が確認できますね。

定説では最古級の前方後円墳は畿内の箸墓古墳(3世紀中頃〜後半)とされていますが、神門古墳群にある5号墳の造営時期は3世紀前半〜中頃と推定されていますので、すなわち畿内に先行する前方後円墳が千葉に存在したということになります。

意外なことですが前方後円墳の一番多い県は千葉県(733基)です。2位は茨城県(455基)次いで3位は群馬県(391基)。
つまり前方後円墳は圧倒的に東国で見られます。巨大な大仙陵古墳や箸墓古墳の存在から、どうしても畿内の印象が強くなりますが、それはあくまでもイメージに過ぎません。実際に多く造営されたのは関東なのです。
こうした遺跡数の多さを見ても、前方後円墳という古墳の形式は畿内で発生したのではなく、関東で造られていたものが畿内に伝わったと考えるのが妥当なのではないでしょうか。

前方後円墳のプロトタイプともいえる神門5号墳が千葉の市原で造られていたとするならば、その技術がやがて奈良の箸墓古墳に応用されたことになり、またそれは初期ヤマト王権と深い繋がりを持ち、かつ文化的な影響を与える集団が千葉の市原に存在していたことに繋がります。

以上のような事実から推察するに、弥生末期から古墳時代に栄えていたのは畿内ではなく、千葉県を筆頭とする関東だったのではないでしょうか。
縄文時代に人口が東国に集中していたことはその遺跡数の多さで確認できるので、そうした縄文の繁栄の名残が弥生、古墳時代と続いていたと考えられます。

それではこの神門古墳群を造った豪族はどのような集団だったのでしょう。

ここで造られた前方後円墳はおそらく奈良の箸墓古墳の元型となっていると思われます。であれば畿内に影響を与えるほどの技術力と文化を持った集団が当時千葉に存在していたことになりますね。
この国の正史で東国は蝦夷の国と呼ばれ、なにかと揶揄されてきましたが、僕はヤマト王権が編纂した「この国の歴史」ではなく、縄文から続く「この島の歴史」が知りたくて古代史を調べているので、この神門古墳群を造った豪族がとても気になるのです。

その手がかりは、古い神社に残っています。
神門古墳群のある市原市の南に姉崎という地区がありますが、ここに興味深い神社があります。姉埼(あねさき)神社という式内社です。

付近一帯が姉崎古墳群という古墳の密集地であり、実際に姉埼神社の境内にも古墳があります。というよりは、古墳群の中に神社があるのです。境内の中だけでも3つの古墳があり、その古墳を見守るようにして社が建っています。

姉埼神社の御祭神は志那斗弁命(シナトベノミコト)という聞きなれない神様ですが、この神は神産みの段でイザナギとイザナミの間に生まれた風の神、シナツヒコと同神であるとされています。しかし本来はシナツヒコが男神、シナトベが女神という男女一対の神とされていたものがのちに同一視されるようになったようです。
その伝承を裏付けるように、近くには姉埼神社と関係の深い島穴神社というこちらも式内社があるのですが、そこの主祭神が男神シナツヒコなのです。

そしてこの女神を祀る姉埼神社と男神を祀る島穴神社の関係性がおもしろい。
シナトベ(女神)とシナツヒコ(男神)は夫婦説と姉弟説があります。
夫婦説によると、妻である姉埼神社の祭神シナトベが先にこの土地に来て、夫である島穴神社の祭神シナツヒコが来るのを待っていたそうです。
シナトベは夫に待たされて、「待つ身はつらい」と言ったことから、姉埼神社ではマツを避けて、境内には松が植えられなくなったという話が伝わっています。ゆえに氏子の家庭では、現在でも正月に門松を立てない風習が残っています。
「松を忌む」という風習はここだけではなく全国で見られます。僕はこの松を避けるという伝承は古代の氏族間のいざこざの名残と考えていますが、おそらく松を掲げる氏族がその土地にやってきて揉め事が起こり、原住民との間にあつれきが生まれたのでしょう。

もう一方の姉弟説でも、姉の神(姉埼神社シナトベ)が、弟よりも先にこの地に来て、弟の神(島穴神社シナツヒコ)を待ったので「あねがさき」という地名なった。ようするに女神のほうが先にいたので姉ヶ崎(あねがさき)になったということですね。それは駅名に残っています。

JR 姉ヶ崎駅

嫌いじゃありませんね。こういう地名の由来。シンプルでわかりやすい。

夫婦説と姉弟説。共通しているのはこの地に先に「女神」が来たという伝承です。
そしてこの「女神が先に来た」という話が僕はとても気になるのです。
世界中の神話では古代に遡れば遡るほど女神の存在が重要になってきます。
その女神の存在を男神の逸話で消し去っていったのがここ2000年くらいの歴史と僕は考えています。だから古い記憶を持つ土地ほど女神の痕跡が残っているはずなのです。

千葉県は貝塚など縄文の遺跡が数多く残ります。その土地に先に来た女神。

姉埼神社の主祭神シナトベとは、縄文の流れを汲む女神だったのではないでしょうか。そうであれば縄文時代が知りたくて古代史を調べている身にとっては、このシナトベがどういう人物だったのか調べないわけにはいきません。

まず僕はシナトベという名前に注目しました。このトベという名前、けっこうこの島の古代史に出てくるのです。

トベとはヤマト王権以前の称号の一つとされています。そして女性首長に用いられることの多い名前です。またトベはトメ(戸賣、斗女、刀咩)の語源でもあるそうです。トメの名を持つ女性も古代氏族の系図にはたくさん出てきますね。タケミナカタの妃ヤサカトメとか、天太玉の妃アメノヒリトメとか。
それにしてもヤマト王権以前の女性首長に付けられた称号って、縄文の匂いがぷんぷんしますね。
このトベの名を持つ女神は千葉だけでなく全国に存在します。日本書紀には天皇に服従しない存在として和歌山は紀ノ川河口の名草戸畔(ナグサトベ)、熊野地方の丹敷戸畔(ニシキトベ)、および大和国層富県(そほのあがた) の新城戸畔(ニキトベ)という首長の名が残されています。なかでもナグサトベの説話は悲惨なもので、神武天皇に殺されたあと頭、胴、足を切り離されて、原住民はそれぞれを別の場所に祀った伝承が残っています。おそらくナグサトベは紀ノ川周辺を治めていた縄文から続く首長の系譜だったのでしょう。
ならば姉崎にいたシナトベも縄文から続く女性首長であった可能性が出てきます。そして後からこの地にやってきたシナツヒコと婚姻関係を結び、当地を治めていったのでしょう。

神門古墳群や姉埼神社のある千葉県市原市は古代、上海上国(かみつうなかみこく)と呼ばれていました。この国は少なくとも3世紀にはあったとされ、5世紀に最盛期を迎え、その支配は千葉県中部から茨城、埼玉、東京にかけての一帯にまで及んでいたそうです。
姉埼神社のある姉崎古墳群や神門古墳群は、おそらくこの上海上国の王家が造営したものでしょう。古墳が造営された時期、また関東での前方後円墳の数の多さをみても、千葉中部を発祥とする上海上国の影響は否定できないと思います。そして僕は姉埼神社の祭神シナトベと島穴神社の祭神シナツヒコの婚姻が上海上国に深く関わっているのでははないかと考察しています。

ではもう一対の男神、島穴神社のシナツヒコとは一体何者だったのでしょう?

ここで話は西に流れます。

伊勢神宮のある三重県は古代、伊勢国と呼ばれていました。その伊勢国の国名の由来となった人物が伊勢国風土記に登場します。伊勢津彦(イセツヒコ)という人物です。

彼は当時の三重を治めていましたが、ある時そこへ神武天皇により派遣された天日別命がやってきて国土を渡すように要求されます。
伊勢津彦は抵抗しますが結局天日別命の軍勢に敗れ、強風を起こしながら波に乗って東方へ去って行きました。のちにこの伊勢津彦の名前からとって現地が伊勢国と呼ばれるようになったそうです。
また彼は「強風を起こしながら波に乗って東方へ去った」ことから風の神とされています。

そしてイセツヒコは信濃の地に逃れます。
長野県長野市にある風間神社の祭神にその名が見られます。

天孫族に敗れ信濃に逃げる。似たような人物が国譲りの話に出てきますね。
そうなんです。タケミナカタに似てるのです。
このエピソードの共通性から本居宣長は「古事記伝」でイセツヒコはタケミナカタの別名であるとしています。
イセツヒコ=タケミナカタ説が妥当かどうかはわかりませんが、伊勢国風土記の別伝では出雲神の子である出雲建子命の別名がイセツヒコとしていますので、出雲系の神であることは間違いないようです。
またそのほかの別名に櫛玉命という名も持っており、饒速日との関連も匂わせる、なんとも興味深い人物です。

出雲建子命の別名がイセツヒコとする伊勢国風土記の別伝ではイセツヒコは伊賀国穴石神社(現在の三重県阿山郡)に石をもって城(き)を造っていたが、伊賀国阿倍郡の敢国神(敢国神社の祭神)が城を奪いに来るも、勝てずして帰ったため、その話から(石城(いしき、いわき)の音が訛って)由来して「伊勢」という名が生まれたと記しています。

このエピソードではイセツヒコは争いに勝っています。そして石を持って城を造る石工として描かれています。古墳にも葺石が使われますね。つまり古墳文化の形成にも一役買っていそうな気配がします。

それにしてもこのイセツヒコ、記紀には登場しないのに伊勢国風土記ではさまざまな逸話で描かれます。そして櫛玉という、この国の神話上とても重要な別名を持っているやっぱり謎の神様です。まあなにはともあれ、この島の古代を知るうえで重要な人物であることは間違いなさそうです。
とりあえず、ここまでの要点をまとめてみましょう。

伊勢津彦
・天孫族に敗れ信濃に逃げる
 →タケミナカタと同一視
・風を司る風神→風間神社
・出雲神の子、出雲建子である
・櫛玉命でもある
・伊賀国穴石神社で石を持って城を造る
 →石工の性格も持ち合わせている

伊勢国風土記に描かれるエピソードをまとめると、もともとイセツヒコは現在の三重県一帯を統治した出雲系の神で、櫛玉の名を持ち、風神の性格を備え、また石工の技術に長けた人物であった。しかし天孫族に追いやられ、信濃へ逃れた。
こんな感じになると思います。
タケミナカタは天孫族に敗れ諏訪に閉じ込められました。しかし同一視されるイセツヒコはそうではなく、信濃からさらに東へ渡っていったと僕は考察しています。  

信濃でイセツヒコが祀られている神社、長野県長野市にある風間神社。ここの主祭神は級長津彦(シナツヒコ)です。
ここで千葉と繋がるのです。姉埼神社で祀られるシナトベの弟、または夫であるシナツヒコがイセツヒコと一緒に風間神社で祀られているのです。しかも両神とも風神です。ここまで揃えば、僕は同一神じゃないかと考えています。
そしてこの信濃という地は風の神とゆかりが深い。一宮である諏訪大社の主祭神、タケミナカタは元寇の際、神風を起こしたとの伝承が残る風神です。ゆえにタケミナカタはイセツヒコと同一視されているのかもしれません。さらに言えば、信濃(シナノ)という国名自体、シナツヒコから来ているんじゃないかとも、そんな想像を掻き立てられます。

さて、この風神を軸としたタケミナカタ-イセツヒコ-シナツヒコの信濃での繋がり。この関連が長年疑問に思っていた僕の謎を解いてくれました。

冒頭で紹介した千葉県市原市の神門古墳群。その近くには2つの神社があります。

千葉県市原市 神門古墳群付近

神門古墳群を上下で挟むように、なぜか信濃国の神社が並んでいるのです。長野から遠く離れた千葉中部に建立されたこれらの神社の配置に、長年僕は疑問を抱いていました。
しかし今回イセツヒコのことを調べてその謎が解けた気がします。

地図上にある戸隠神社、上下諏訪神社。その両方とも古墳の上に建っています。
つまりこのあたりに古墳を築いた集団とは、現地の女神シナトベと婚姻関係を結んだ伊勢国出身のイセツヒコ=シナツヒコの一族ではないかと思うのです。
彼の一族は伊勢から信濃を経由し、やがて千葉の中部へとやってきたのではないでしょうか。そう考えると、この狭い地域に信濃国の神社が集まっている風景がとてもしっくりくるのです。

伊勢国風土記別伝によればイセツヒコは伊賀国、穴石神社で石の城を築きました。千葉の姉崎地区でシナツヒコが祀られる社は島穴神社です。
後世、穴太衆という石工の集団が安土桃山時代に活躍しますが、このという字は石工を象徴するのかもしれません。

イセツヒコの一族が信濃を経由し千葉にやってきて現地の女神シナトベと結婚し、その集団が古代、この地で栄えた上海上国を古墳の造営とともに拡大していった。そんな古代史を僕は想像するのです。

そうなると姉崎の地でイセツヒコを待っていた女神、シナトベにますます興味が湧いてきます。彼女は縄文の痕跡を数多く残す千葉の地で、悠久の昔から祭祀を継承してきた王家の末裔なのではないでしょうか。

そしてそうしたこの島の歴史の深淵を「あねがさき」という地名が物語っている気がします。

歴史書は人の思惑でいかようにも書き換えることができますが、地名はそう簡単にはいきません。それはその地に古くから住む人々の記憶に深く根差したものであるからです。

やっぱり土地の名前を決めるのは、外部からやってくる中央政府ではなく、その土地と長い時間を共に過ごした土着の人々だと僕は思います。

僕の祖父は平成の市町村合併で失われた土地の名前を、まるで政府の通達を無視するかのように古名で呼び続けました。
今思えば祖父のそうしたスタンスは、自分が過ごした土地の記憶を後世において途切れさせないための、僕たちに残した口伝だったのかもしれません。

縄文の歴史には収奪の痕跡がありません。
人は土地の恵によって生かされてきました。
つまり土地が人を育んできたのです。
この島で太古から続く自然崇拝の精神はそうした経験からもたらされた思想です。
古代の人々は土地に守られ、命を繋いできました。それゆえ土地の愛情を受けて育った土着の人々は、その呼び名に強いこだわりを持っていたはずです。
まるで神の名を呼ぶように、土地の名を口にしたかもしれません。
だからのちの時代に勃興した権力がいかに歴史を変えようと、
自分たちの崇拝する土地の名はそう簡単に譲らなかったことでしょう。

縄文の記憶を宿す千葉の地で、現代にまで受け継がれる「あねがさき」
やっぱり僕はこの地名が好きですね。
まるで我々の神は「姉が先!」と強く主張しているようで。

さて、シナツヒコを調べていたら、以前にも増してシナトベのことが気になってきました。

ひとつの謎の考察はさらにまた別の謎を呼び込みます。

こうして僕はこの島の膨大な記憶の渦にまた巻き込まれていくのです。



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