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創作と時間と信号機の話

 何か自分の内側にあるものを創作として表に出そうとするとき、絵か写真か音楽かといったようにその表現媒体は様々ある。自分は言葉が好きだから文章を使いたいと思うけれど、「どれだけ多くの人に届けられるか」を考えると少し効率が悪い。
 絵や音楽は目や耳で触れればすぐに情報が入ってくるけれど、文字は目や手で記号として認識されたあと、頭の中で解釈する時間が必要になる。映像や音楽が加わったことでやっと世間に広まった文章は数えきれないほどある。文章は、時間がないと味わうことができない点で他の創作物に比べて弱い。

 でも今は効率の悪い方法で効率の話がしたい。

 どの創作物も例外なく、完成するまでには途方もない時間と労力がかかる。けれど味わうのに多くの時間を必要としない絵や音楽は特に、創作にかかる時間の何十倍も何百倍も短い時間で消費されていく。それでは呆気ないから、私は絵や音楽を通じて何かを表現している人たちの進捗状況を見るのが好きだ。悩んでいたり順調に進んでいたり、一度距離を置いていたりする様子をSNSで見かける度に、いつか見せてくれるであろう完成品を空想する。創作の過程を知っている作品は、完成形にも厚みが出るように感じる。
 時間は創作物の味わい深さに比例すると思う。

 だけど、利益が絡んだ途端この法則は成り立たなくなる。誰だって時間も労力もなるべくかけずに多くの利益を得たいと考える。一方で作品の水準が上がれば消費者の期待値も上がる。創り手の目指す場所は自然と低コスト高クオリティに行きついて、非効率的なものは淘汰される。作品創りにおいて一番非効率的なものが創り手と判断されれば、創り手のいない作品がエンタメを牛耳る未来もあるかもしれない。
 だけど私は創作を創作として味わえる環境を守りたいし、創作を通じて何かを表現する人には居なくなってほしくない。

 みたいなことを考えながら歩いていたら、車なんて一台も通らない道の歩行者信号が赤になって、前を歩いていた人が赤信号をまるでいつもやっているみたいに渡って、私は特に急いでもいなかったので立ち止まって、青信号を待った。

 特に急いでいなくても、そこに信号が無ければきっと立ち止まることもなかった。いくら人の手で創られる作品の価値を説いたってルールがなければ誰でも赤信号を渡れる。

 私は別に急いで人の創作物を味わいたいわけじゃない。創作物は、作者の内側にふつふつとあるものが、作者が選んだ手段と手法で、作者の手によってじわじわ表現されるからこそ価値があると思う。

 まわりくどいけれど要するに、表現者の皆さんには創作することや表現することをやめないでほしいし、ここに微力ながら一観客がいるということを知ってもらいたい。


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