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まちこのGB 《第1章の11,12》 口も目も語らないってなに?

【1-11】 あこがれのブルーカラーズドリーム

 その日、仕事を終えた朝霞は真知子と約束した喫茶店へ向かった。

 一番奥の席に腰を下ろした朝霞は、アイスココアホイップ多めと言いかけたがブラックコーヒーを注文した。
 今日は疲れたので甘いものを飲みたかったが、ぐっと我慢した。

 朝霞はギュネスに向けてダイエットを始めた。痩せた状態で『GB』デビューして、屋敷や渡辺を見返してやるのだ。
 ただ、今の朝霞は深く落ち込んでいた。寝不足と二日酔いによる疲労と合わせて、激しい自己嫌悪に襲われていた。

 真知子がやってくるのが見えた。真知子は朝霞を見つけた途端、激しく頭を振り始めた。

「オー、フードチケット!」

 朝霞を含めた周囲の客が困惑している中、痩せっぽちの店員がしきりに頭を下げている。ようやく動きを止めた真知子は、楽しそうな顔のまま朝霞の前に腰を下ろした。

「朝霞さんのバンド、チョーかっこいいじゃないですか!」

 いつもの朝霞なら調子に乗るところだが、今回はそうできなかった。
 真知子は何も気にしていないようだが、朝霞は「二日酔いだから……」とわざわざ言い訳しておいた。

「どうですか、これ!」

 テーブルの上に並んでいるのは、朝霞の高所克服のために真知子が用意した秘密兵器だ。
 手汗を吸収するための脇パッドを内包した皮手袋。スカイダイビングのDVD、レンズの裏に女性の裸が張ってあるサングラス――。

「まあ、現実的なのは眼をつぶって演奏できるようになることでしょうね。見えなきゃ自分が高いところにいるかもわからないわけですし」

 真知子は一生懸命に説明してくれているのだが、朝霞はぼんやりと違うことを考えていた。

 今日の朝霞は馬車馬のように働いた。
 休憩もそこそこにとにかく掃除に集中した。手を休めると昨日の罵声が蘇ってくるからだ。
 その結果、その日の仕事はいつもより一時間も早く終わった。

 後輩たちは尊敬の眼差しで朝霞を見つめ、年下の社員リーダーからは「そろそろ、朝霞くんも正社員になったらどう?」と誘われた。
 周囲のバイト仲間からは「晴子さんと結婚で次期社長っすね!」「憧れの逆玉人生!」「ブルーカラーズドリーム!」などといつものようにからかわれた。

 こんなことはよくあることで、いつもならニコニコと照れくさそうに否定して終わるのだが、今日の朝霞は違っていた。

 笑顔の彼らに対し「馬鹿にすんな!」と怒鳴り散らしてしまった。
「俺は『GB』に載るロッカーなんだぞ!」と。


「……朝霞さん?」

 ぼんやりした眼の焦点を合わせると、真知子が相槌を求めていた。

「聞いてます?」
「ああ、ごめん。で、なんだっけ?」
 確か真知子は高所を克服する方法を考えてくれていたはずだ。

「あの【おしょくじけん】って曲名はどういう意味ですか?」
「え?」
「あの、ネットのビデオのやつですよ!」
「ああ、あれは【お食事券】と【汚職事件】をかけたんだよ。政治家にムカついてたからさ」
「すごい、ダブルミーニングですね!」
「う、うん。ダブルミーニングかも……」

 真知子は素直に感心してくれていた。懐かしい反応だ。昔はこういう子が周りにたくさんいた。

「それじゃあバンドの皆さんとの打ち合わせはいつにしますか?」
「あ、そうね……」
 朝霞は迷った。言うべきか言わないべきか。

「奴らも働いてるからスケジュール調整が難しいんだよな……」
「そうですよね。皆さん、仕事の合間を縫って練習してるんですもんね。チャレンジ場所が決まってからでも構いませんよ」

 真知子は無邪気に笑っている。

「あたし、メンバーの人たちと会うの楽しみだな~」

 朝霞の心臓周辺の脂肪がプルンと痛んだ。

 やっぱりもう一度、屋敷と渡辺を誘ってみよう。なんなら頭を下げたっていい。とにかく目の前のこの娘を裏切っちゃダメだ。もう誰もがっかりさせたくない。

「なあ、大井さん。俺、ダイエットしようかと思ってるんだよね」
「いいじゃないですか! 今はたるんだ豚みたいですけど、朝霞さん、痩せたら絶対かっこいいですもん!」
「そう?」
「はい! 世界中で誰か一人くらいは好きになってくれると思いますよ」

 真知子の言葉に朝霞はつい吹き出した。
 悪気がないのはわかっているし、言ってる内容はあながち間違いではない。

「そうだよ。一人でいいよ。一人だけ好きになってくれればいい」

 つい漏れ出た朝霞の言葉は、嘘偽りない心からの本音であった。

【1-12】 推測だけで勝手に語らないでよ!

 朝霞のギュネスチャレンジの詳細が決まった。
 久しぶりに全員が集まった朝の会議の場で、その全容が川崎から発表されたのだ。

 場所は、東京湾沿いに広がる潮風公園の中に設置されたバンジージャンプ台。
 その飛び降り口に特設ステージをセットして、朝霞たち【Lucky Inter Hospital】がライブを行う。

 無事に一曲を演奏し終われば【世界で一番、不安定な高所でライブをしたバンド】として晴れてギュネスに申請されるというわけだ。

 真知子はランチへ向かう道すがらイメージを膨らませていた。

 潮風公園のバンジー台は高さおよそ20m。海を臨むそのシチュエーションはより高さを感じさせるかもしれない。 羽田空港が近いため飛行機の轟音が集中の妨げとなる可能性もある。
 まさに『GB』にチャレンジするのにふさわしい場所と言えるだろう。

 いつも行く近場の定食屋に辿りつき、店先でメニューを眺める。6月の湿気を帯び始めた風が重そうに真知子を舐めていった。

 そうだ、海に近いということは強風の心配もある……。
 真知子は今日のランチを肉野菜炒め定食に決めた。

 暖簾をくぐり引き戸を開けると、カウンターに矢口が座っていた。作業着ばかりの客の中、カジュアルな矢口の姿は目立っていた。
 真知子は毎日ここに通っているのだが、矢口を見かけるのはあの時以来のことだった。

 以前、同じように矢口を見つけた真知子は当然のように隣に座った。そして、真知子は新入社員の誰もがするようにいろいろと矢口に質問攻めをした。
 すると矢口は曖昧な返事に終始した挙句、目の前のとんかつ定食に手をつけることなく出て行ってしまった。

 それ以来、矢口をこの店で見かけたことはなかった。

 あえて避けるのもおかしいだろうと思い、真知子は矢口の隣に腰を下ろす。
 亭主に挨拶をし、店内の煤汚れたメニュー表を見ながら矢口の様子を窺う

 矢口はじっとスポーツ新聞を眺めている。少なくとも真知子の接近を拒絶しているわけじゃなさそうだ。

「けっこう蒸してきましたよね。もうすぐ夏が始まるって感じですね」

 真知子は無理のないタイミングで声を掛けた。

「そうだね」

 矢口がぼそっと呟いた。スポーツ新聞に眼を落としたままだが、どうやらこの間のことは根に持っている訳じゃなさそうだ。

 真知子は次に掛ける言葉を探した。
 この手のタイプの男には、当たり障りのない話か自分のことを話すのがいいだろう。無駄にプライドが高いから質問などは避けた方がいい。答えられないことを聞いてしまったら、あっと言う間にへそを曲げてしまう。

「今日はなに食べようかな~。だいぶ蒸し蒸ししてきたからサッパリした食べ物ないかな~」
「……冷やし中華、始まったみたいよ」

 会話のキャッチボールが成り立った。真知子は自分の立てた作戦に自信を深めた。

「それ、いいじゃないですか! こんな日に脂っこいものなんてあり得ないですもんね。矢口さんは何を頼んだんですか?」
「とんかつ定食」
「いいじゃないですか! こんな日は夏バテしないように体力つけなきゃいけないですもんね!」

 真知子は当初の予定通り、肉野菜炒め定食を注文した。
 
 料理が運ばれてくるまでの間に、真知子は朝霞との経過を愚痴っぽく話すことにした。この手のタイプの男は他人の不幸が大好物に決まっている。

「実は、私が担当している朝霞さんのことなんですけど、ちょっと大変なんですよね……」

 真知子は多少の誇張をまぶしつつ話し始めた。
 
 朝霞という男は強気に見えて実は気が弱い。あの体型が示す通り、自分に甘く意志も弱い。化粧をしてライブをするのも気弱な自分を隠すためだ。
 そんな朝霞だから、高所恐怖症を克服するために私が完璧な作戦を用意してあげた。朝霞のことをしっかり理解している私がそばにいることは彼にとって非常に幸せなことである。

 ちょっと言いすぎたかなとも思ったが、目の前の男は他人の不幸が大好きなのだから仕方がない。嘘も方便とはよく言ったものだ。

 真知子の読みは当たったようで、矢口は運ばれてきたとんかつ定食に箸をつけずに、ずっと真知子の話に聞き入っていた。
 
 話を聞き終えると矢口は呆れたような表情を真知子に向けた。そして箸を置き、珍しく自分から口を開いた。

「それって君の勝手な推測でしょ」

 真知子は驚いた。どうやら矢口の呆れ顔は自分に向けられているようだ。

「勝手じゃないですよ」ちょっと誇張はしてるけど。「私は何度も朝霞さんと会って話をした上で推測しているわけですから」
「推測じゃん。推測だけで勝手な陰口叩かれてたら気分悪いよ」

 矢口の言葉は熱を帯びていた。その熱が真知子を刺激した。

「そんなこと言ったら、なんだって推測じゃないですか。ドラえもんじゃあるまいし本当の心の中なんてわかるわけないですよ」
「それが答え。わかるわけないんだから勝手な深入りは迷惑でしょ」
「迷惑もなにも、私たちの仕事は深入りすることじゃないですか! その結果、朝霞さんの毎日が楽しくなっているんです!」

 真知子は朝霞のために毎日、真剣に考えている。
 他人に興味を持たず、ただ淡々と生きている矢口にそんなこと言われる筋合いはない。

「都会人だかシティーボーイだか知らないですけど、なんに対しても無関心な態度ってカッコいいと思えません。素直に熱く楽しめばいいじゃないですか!」

 真知子は一気にまくし立てた。カウンター越しに亭主が肉野菜炒めを出すタイミングを窺っているがそれどころではない。

 矢口は何も言わずじっと真知子を見ている。

「なんですか」

 真知子は強気に胸を張るが、矢口は感情が読み取れない目でじっと見ている。

「口も目も語らないってどういうことなんですか?」

 真知子の言葉を受けて、ようやく矢口が口を開いた。

「またかよ」

 そう言って矢口は席を立ち出て行った。
 とんかつ定食は原型を留めたままカウンターに残されている。
 興奮冷めやらぬ真知子に亭主が肉野菜炒めを差し出してきた。

「お嬢ちゃんは正しいよ。オイラもああいうインテリぶったモヤシ男はどうも好かんね。ああいう奴は根性もねえから何やっても続けらんねえんだよ。お嬢ちゃんもそう思うだろ?」
「推測だけで勝手に語らないでよ!」

 真知子は肉野菜炒めの横に矢口のとんかつ定食を並べてむしゃむしゃと頬張った。

 矢口はなにもわかっていない。深入りされて迷惑な人などいるわけがない。
 何か打ち込むことが用意されれば人は明日に希望をもてるのだ。

#創作大賞2024 #お仕事小説部門

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