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まちこのGB 《第1章の13》 素晴らしき解決法の発見

【1-13】 言ってはいけないことを選ぶ癖

 秋葉原の電気街とは真逆にある川沿いの古びたビル。
 そこの四階に、朝霞の勤める共栄ビルメンテナンスの事務所があった。

 10人も集まれば座る場所がないほどの広さで、裏の窓からはすぐ下に川が見下ろせる。
 その川が夕焼けで染まり始めた頃、朝霞が事務所へとやってきた。中では二代目社長の高橋晴子が難しい顔で待ち構えていた。

 晴子は35歳の独身社長であり、社内では朝霞とお似合いの二人と噂されている。
 誰もいない二人きりの事務所。晴子の表情は硬い。朝霞の表情も負けじと硬かった。

「どうしてもダメなんですか?」

 晴子が気を遣った物言いで遠慮がちに聞いた。

「何度も言うけど嫌だ」

 朝霞は迷いなく言い切った。
 晴子は困ったようにひとつ息をついた。
 朝霞が筋の通った男であることは知っていたし、そこに好感も抱いていた。ただここまで頑固で融通が利かないとは思わなかった。

 数時間前、元請けの管理会社から晴子に連絡が入った。新宿の現場からクレームが入ったので、社長自ら謝りに出向けと言うのだ。
 クレーム自体は珍しいことではない。ただ、社長自ら謝罪に出向けというのは珍しいことだった。
 
 その現場には社員とともに朝霞も入っていた。そこまでのクレームが入るようなトラブルが起きるとは考えにくい。
 晴子は状況を把握しようと、現場を担当した社員リーダーへ連絡を入れた。
 すると社員はなにか言い辛そうにしてどうにも要領を得ない。
 しつこく問いただすと、トラブルの元凶は朝霞だとわかった。

 その日の作業はオフィスビルの床清掃だった。日中の仕事だったため、通行人には細心の注意を払わねばならない。しかし朝霞は、周囲への注意を怠り汚水を引っ掛けてしまったらしい。
 ここまではそう珍しいことではない。懇切丁寧な謝罪と対応をすればあんな剣幕でクレームがくることはない。 

 しかし、その先の話を聞いて晴子はわが耳を疑った。

 朝霞は汚水をかけたサラリーマンに対し、最後まで謝らなかったそうだ。
 それどころか「自業自得だ」などど筋違いの言葉を残し立ち去ったという。

 社員は、朝霞がおかしくなったのは昼休憩を終えた後からだと言っていた。

 朝霞の勤務態度は極めて良好である。見かけによらず、人当たりはいいし周りに目配りができる。人使いもうまく、年上にも年下にも慕われている。つまり、リーダーに向いているのだ。
 だからことある毎に「社員になってくれないか?」と誘いをかけていた。
 
 晴子は突然の父親の死去により会社を引き継ぐことになった。何もわからない自分を丁寧に補佐してくれたのが朝霞だったのだ。

 この会社を存続、発展させていく上で朝霞の存在が不可欠だと思っていた。
 しかし朝霞は、突然ライブが入ってもいいようにとアルバイトの立場にこだわった。

 あくまで自分はミュージシャンなのだと。

 周りの従業員たちが「社長は朝霞に惚れている」と噂しているのも知っている。
 その通り、社員にしたいという意味では、晴子は朝霞にぞっこんだ。

 だが、それとこれとは話が別だ。どんな事情があったにしろ、この場合は完全に朝霞が悪い。晴子は会社をまとめる経営者として毅然な態度を取らねばならない。

「本人が伴わない謝罪なんて聞いたことありますか? 言う事を聞いてくれないならそれなりの処分を下さなきゃならなくなります」
「……処分?」朝霞の眼の色が変わった。
「やれるもんならやってみろ! 俺がいなくなって困るのはあんたらだろ?」

 予想外の言葉に晴子は目を見開いた。朝霞はひどく興奮しているようで下顎がブルブルと震えている。

「いいか、俺はギターが弾ける清掃員じゃないんだよ。掃除もできるギタリストなんだよ!」

 晴子は目を見開いたまま言葉が出ない。対する朝霞の眼に晴子は映っていない
 映っていたのは、昼食時のカレー屋で憎らしげに笑う屋敷の顔だった。

※                         ※                         ※

 今日の現場は新宿ということで、あらかじめ屋敷と昼飯を食べる約束をしていた。
 昼休憩に入った朝霞は、屋敷が指定したインドカレー屋へと向かった。時間が合えば上海も顔を出すはずだった。

 普段、朝霞の昼飯は清掃員控室でコンビニ弁当を食べるか、牛丼をかっ込むかのどちらかだ。
 わざわざ千五百円も出して、インドカレーを食べに行くことなどない。

 店に入ると屋敷はまだ来ていなかった。お昼時の店内で四人席に座るのはなんだか気が引ける。
 時間通りに来ない奴らにイラツキはしたが胸に収めた。今日は二人を穏やかに説得しなければならないのだ。

 すぐ隣に若いOLが座った。いい匂いがした。すると自分の匂いが気になった。
 汗だくの作業服を着ているのは店内で自分だけだ。何も気後れする必要なんてないのだが、おしぼりを追加で持ってきてもらった。

 屋敷と渡辺は10分ほどして現れた。朝霞は怒りを押し殺し無理やり笑った。

 それを見た屋敷は「お、我慢してる我慢してる。社会人に近づけたか?」と朝霞を茶化した。二人が来てくれて安心したのも確かだった。

 食事のカレーには大満足だった。千五百円など信じられないと思ったが、あれだけのカレーとサラダにデザートまで付くのなら安いものだ。
 松屋やココイチのカレーもいいけど、たまにはこういうのも新鮮で楽しいものだった。

「ここのランチ、コスパいいだろ?」

 満足そうな顔で屋敷が言う。コスパの意味がわからなかったが「そうだな」と答えておいた。
 なんだか無性に屋敷に対して腹が立った。「お前、こんな飯食ったことないだろ?」とでも言いたげな顔に腹が立ったし、昼飯をランチと呼ぶのも腹が立った。

 食後のドリンクに口をつけると朝霞は早速、本題に入った。
 午後の仕事は一時から始まる。10分前には準備しておきたいので時間に余裕はなかった。

 朝霞は姿勢を正し、再度『GB』への挑戦を誘った。きっと二人にとって初めてのことだろうが「頼む」と頭まで下げた。
 さすがに二人も驚いたようだ。屋敷がヒュ~ッと口を鳴らしたのが聞こえた。

「もう一回、俺らに会いに来たのは評価すんよ。本気度が窺えるな」
「ああ、本気なんだ。だから頼む」

頭を下げているとさっき食べたカレーが上がってきた。朝霞はゲップを懸命にこらえた。せっかくの本気度が薄れてしまう。

「でもお前よ、就職を決めた俺と上海に言ったこと覚えてるか?」
「いや、覚えてねえ」

 朝霞は頭を下げたままだ。どのタイミングであげたらいいのかわからない。

「勝手に酔っ払って、散々罵倒して二度と目の前に現れるなって喚いたんだぞ? お前らは俺がいないと何もできないってな」

 驚いて朝霞は顔を上げた。朝霞は感情が昂ぶると言ってはいけない言葉を選択してしまう傾向があった。特に酔っている時はそれが顕著だった。

「それに関しては謝る。だから今回だけ、ゲップ――」

 なんとか押し留めていたゲップが炸裂した。渡辺と目が合うと哀れむように目を逸らした。屋敷は苦笑している。
 朝霞の心情は、黙りこくったその姿で二人には伝わったようだった。

「だいたいよ、俺、もうベースなんてどこにあるかもわかんねえよ。上海だってそうだろ?」

 渡辺は頷くが未だにその肉体がスリムに引き締まっているのはシャツ越しにもわかる。今の屋敷にはたとえベースがあったとしても腹が邪魔して弾けないだろう。

 だが、朝霞にとってそんなことはどうでも良かった。バンドとして一緒にステージに立ってくれさえすればいいのだ。

「弾けなくたってかまわねえよ。なんなら化粧すんのは俺だけでもいい。お前らはスーツでもかまわねえから」

 朝霞は二人を思って最大限の譲歩したつもりだったが、二人の表情が明らかに曇った。

「……それってバンドって言えるのか?」
「言えるだろ。実際に俺らは15年も続けてきたんだから」
「はっきり言って不愉快だわ」

 屋敷は呆れたように吐き捨てた。

「なんでだよ!」
「お前さ、たまたま誰もいねえから俺らに頼んでるだけで、チャレンジできりゃ誰でもいいんだろ?」
「そ、そんなわけねえだろ? 15年だぞ、なんだかんだ15年もやってきたんだぞ?」
「お前が、バンド始めて15年な。俺は途中からだから10年」

 そうだ、ちょうど人気が出始めた頃、屋敷は前任のベースが脱退したのを期に自ら志願してきたのだ。でも上海は生粋のオリジナルメンバーだ。

「なあ、上海。九州ツアーのこと覚えてるだろ? お前の誕生日ライブ、めちゃくちゃ盛り上がったよな?」
「……うん」

 あのライブは朝霞の中でも伝説だった。
 地元のハードコアバンドと打ち上げで揉めて、上海は鼻の骨を折られたが、朝霞と屋敷でそいつの右腕を叩き折ってやった。

「そういやあったな」屋敷も当時を思い浮かべているようだ。「楽しかったし、ライブで注目されるのは気持ちよかったよ」

 朝霞の目に、当時の屋敷と上海が浮かび上がってきた。忘れているだけで、自分たち三人の歴史は間違いなく存在していたのだ。

 しかし、あまりにも早く当時の三人は消え去った。

「だけどよ、この年齢になったら趣味のお遊びじゃなくて仕事で注目されるようにしなきゃだめだろ。上海だって新しい会社でかなりの成績あげてるんだろ?」「……うん」
「今思えば、バンドなんかやってなきゃ、もっと早くビジネスの世界に来れたんだよな。上海だってそうだろ?」
「……うん」

 朝霞のコメカミが脈打ってきた。鼻息が非常に熱い。
 屋敷という奴はこういう男だった。人気があった時は積極的だったが、落ち目になるとさっさとやる気をなくした。

 そういえば、こいつにはあのバンダナを貸したままだ。

 外タレの前座をやった時に朝霞のプレイを気に入ったメンバーからもらったものだが、見向きもされなかった屋敷が不憫で貸してやったのだ。
 その外タレが流行っている間は得意げに身に付けていたが、流行の終わりとともにいつの間にかしなくなっていた。屋敷とはそういう男だ。

 なんだか馬鹿らしくなった。肩の力がフッと抜けた。

「ったく、つまんねえ生き方してっと考え方まで腐っていくんだな。なんでも人のせいにしやがってよ。どうせ会社にこき使われて鬱憤たまってんだろ?」

 屋敷が笑った。

「会社に縛られて嫌々こき使われるってのがまともに就職したことのないお前のイメージか?」
「強がるなって」
「いいか、生きがい感じて毎日死ぬほど働いてる奴だっているんだよ。それでも楽しくてしかたねえんだから」

 屋敷の楽しそうな顔は嘘をついている顔ではない。ライブの打ち上げでファンの女といちゃついてた時の顔だ。

「そういう幸せだってあるんだよ。お前みたいに一生貧乏でも音楽をやってれば幸せな人だっているんだし、お互いが尊重しあえばいいじゃねえか」

 朝霞は何も言えなかった。体温だけが上昇していく。作業服の腕をまくり、おしぼりを眉間に当てた。

「わかったよ。だけどよ、なにひとつ産み出せない奴らの集まりなんて俺に言わせりゃクソだ。はっきり言ってお前らなんて全員クソなんだよ。クソが産み出せるのなんてクソしかねえんだよ!」

 屋敷が驚いた顔で朝霞を見ている。
 ふん、図星だろうが。なにか言い返せるもんなら言い返してみろ――。

「……お前、ビルの清掃員と広告代理店だったらどっちがクリエイティブだと思ってんだ?」
「なんだよ、てめえ俺の仕事を馬鹿にしてんのか? 仕事ってのはな、体使って汗かいてナンボなんだよ!」

 朝霞は立ち上がり声を張り上げていた。店で唯一の作業服の男に周囲の注目が集まる。

「今の会社だってなあ、俺がいなきゃ成り立たねえから働いてやってんだよ! この世界だって俺のことを必要としてんだよ!」

 朝霞はもう自分が何を言っているのかわからなかった。

「わかったから落ち着けって……」
「俺は『GB』に載るんだよ! そんでもう一発かますんだよ!」
「わかったって。恥ずかしいから、ほら!」

 屋敷にハンカチを手渡された。

「わかりゃ、いいんだよ……」

 朝霞は深く息をつき涙を拭った。そのハンカチはなんだか知らないが高そうなブランド物だった。 

「朝霞、あえて言うけどな、お前がいなくてもこの世界は、確実に成り立つぞ」

 屋敷はそう諭すように言って席を立った。

 ※                         ※                         ※

 何度思い出してもはらわたが煮えくり返るが、目の前の晴子に当たるのはお門違いだとわかっていた。
 だけど晴子だからこそしっかりと屋敷の言葉を否定してほしかった。

「俺はあんたらのためにこんなしょぼくれた会社で働いてやってんだろ? この会社には俺が必要なんだろ?」

 仕事面でもそうだが、たまの飲み会だって朝霞がいなければ盛り上がらない。
 マジメ系とチャライ若者系をうまく潤滑させるのは朝霞にしかできない。

 だからひとこと「朝霞さんが必要だ」と言ってほしいだけなのだ。

「ほら、黙ってないでなんか言えって。こんな誰でもできる仕事をわざわざ朝霞さんがしてるのはなんでなんだっけ?」

 ほら、『ひ』で始まって『う』で終わる四文字の言葉だよ――。
 朝霞は危うく口に出しそうになるのを堪えて、うつむいたままの晴子に念を送る。

 晴子が顔を上げた。朝霞は嫌な予感がした。

「本当に残念だよ……」
 晴子の目にはうっすらと涙が浮かんでいた。「我々の会社、仕事をそんな風に思っている人とは一緒に働けません」

 違うだろ、何でそんな話になっちゃうの? 
 朝霞は口から大きな空気玉を押し込まれたように声を出せなかった。

「朝霞さんには辞めていただきます。これは経営者としての判断です」

 晴子は背筋を正し凛として朝霞を見据えた。

「わかったよ……」
 朝霞は声を絞り出すといつものパターンを繰り返した。「今すぐ辞めてやるよ。もう二度とこんな雑巾くせえ場所に顔ださねえからな!」

「ロッカーに二言はないのよね」
「ないわ!」
「来週は給料日だけど」
「そんなもんくれてやんよ! 親の七光り女が偉そうな口聞くな!」

 会社を出て、まっすぐに駅へと向かう。
 改札を抜けたところでしゃがみこみ頭を抱えた。

 またやってしまった。取り返しのつかない言葉が世の中にあることは重々わかっているのに――。
 晴子が父親の会社を潰さないためにどれだけ自分の人生を我慢したのかも知っているのに――。

 家に帰り、ブログを開く。この前書いた景気のいい記事を見ていると、どうにも落ち着かなくなりチューハイをごくごくと一気に流し込んだ。

 すっかり飲み干したあとに思い出す。『GB』が終わるまでダイエットを兼ねた禁酒を誓ったことを。
 一度決めたことを途中で破るのはロッカーとしてあってはならない。どうしようかと朝霞は考える。

 三本目のチューハイを空にしたところで名案を思いついた。そうだ、『GB』のチャレンジをやめればいい。そうすれば禁酒の誓い自体が無効になる――。

 その素晴らしき解決法の発見に満足した朝霞は、戸棚の奥からポテトチップスを取り出した。

#創作大賞2024 #お仕事小説部門


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