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OSくん

OSくんは、同い年の友人。中学2年、僕が仙台に転校した時の、ブラスバンドで出会った。頭が少し大きく、メガネかけていて、肩幅は少し狭く、でも頭は良いな、というのが最初の印象。ブラスバンドの部長だった。

中学時代は、同じクラスになることもなく、部活、そしてクラブ(リコーダークラブ)で一緒で、ブラバンよりも、リコーダーでは、彼とよく一緒に演奏して、休みの日にも一緒にリコーダーを吹いたりしていた。やがて高校受験、彼は二高、僕は三高に進学。

高校は別々だったのだが、二人ともブラスバンドに入り、その高校同士は当時、合同演奏会をやっていて、それに向けて一緒に練習することが多く、また彼とも一緒になった。彼は高校ではクラリネット、僕は変わらず、Tubaを吹いていた。家も近所だったので、彼の高校で練習の時は、二人で自転車で、広瀬川をわたり、一緒に帰ったりしていた。OS君は、高校にはいってからも、色々な本を読み、音楽を聞き、色々なことを話してくれた、ような思い出がある。今でも好きだが、山下達郎のシューガーベイブ時代のLPを聴かせてくれたのもOS君、あと、これは高校を卒業、浪人時代だったと思うが、漫画「夢見る頃を過ぎても 吉田秋生」を紹介してくれたのも、OS君だった。「夢見る頃を過ぎても」あれは、なぜか、あの頃、何度も読み返していた。短編のストーリが4つぐらい入っていて、確か、高校で、中学時代の悪友に再会、その後、一緒に浪人して、大学入って、同じ女性を好きになり、なんて、話があった。そう、主人公はエリッククラプトンが好きだったし、今、思い出したが、OS君もクラプトンが好きだと言っていた。

一浪で、OS君は地方の国立大に進学、僕はというと、二浪目に突入した。

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この写真、37年前、僕が19歳の時の一枚。右が、OS君。真ん中はUH君。この写真、UH君が受験で新幹線で状況する時の一枚。この写真のシャッター、誰が押してくれたんだろう。駅の人に頼んだのかな?UH君も仲のよい友人で、3人とも同じ中学、そして同じ予備校だった。僕だけが2浪してしまったんだよね。UH君は六大学の一つに進学した。

その後、大学時代、就職、バブル時代までは、OS君とは、ほとんど音信不通状態だったのだが、彼と再会したのは、確か僕が結婚する1991年だったと思う。UH君とは就職してからも、一緒にテニスしたり、僕の家族と一緒に旅行に行ったりなど付き合いがあったのだが、確か結婚する直前の何かのイベントに、UH君がOS君に連絡をとり、彼が来て、久しぶりに再会できた。当時の彼は蒲田に住んでいて、横浜にある外車メーカーのメカニックのような仕事をしていた。そう、彼の実家は地元で整備工場をやっていたんだ。それから、OS君とは、結婚してからも、たまに連絡をとり、たまに会っていた。

OS君は相変わらず、多趣味というか色々なこと教えてくれて、蒲田に遊びにいくと、彼が当時通っていたビアバーに連れていってくれて、美味しいスピルナーを教えてくれたりした。そう、思い出したが、結婚してからかな、ベルギーのCHIMAYのビールをプレゼントしてくれた。僕は結婚してから、ランニングにハマっていた時期があり、丹沢湖のマラソン大会に出た時に、彼が応援にきてくれたこともあった。応援というより付き添いかな。僕がハーフマラソンを走り終わったら、彼は、出店の豚汁がおいしかったと話してくれたっけな。それが1994年の10月ごろだったと思う。

その後、僕には1995年に長男が生まれ、OS君もお祝いを持ってきてくれたが、子供生まれてからは、だんだん疎遠になってきた。たまに連絡、年賀状のやりとりするぐらいが、しばらく続いた。

2004年の12月だったと思う。それまでも、たまにメールしていたのだが、彼から、メールが届き、内容は、随分前から体調が思わしくなく、入院することになった、というメールだった。年末の時期にこんなメールをすることになり、すまない、なんてことが書いてあったと思う。その翌月、手術も終わったというので、病院に面会に行った。彼の妹さんが付き添っていて、病室にいる彼に久しぶりに会ったが、彼の顔みたとたんに、只事ではないとはすぐにわかったが、病室ではたわいもない話をして、またね、と言って、病室をでたあと、妹さんから、すでに癌がいくつも転移していて、人工肛門も付けたが、余命はいくばくもない、という話を聞き、呆然として、泣いた。今思えば、妹さんはしっかりしているのに、年上の僕の方が、泣きじゃくっていた。OS君の妹さんは、僕の妹と同い年だから、3歳下だろうか。その後は、面会はできず、ただ携帯のメールのやりとりは続いた。だんだんとメールも短くなり、1行、一言程度になっていった。

2005年3月、OS君は旅立った。40歳。1月1日生まれだったんだ。彼が旅立つのに、家に彼と中学時代にリコーダーで一緒に吹いた、楽譜集があったので、彼の荷物と一緒にに入れてもらった。あれから16年、なにかの拍子に、ふと思い出す。だんだんと思い出すことも少なくはなってきたが、こうやって、思い返すと、まだ僕の頭の中、記憶の中にOS君はいる。いま、僕の記憶には、中学時代に、美術の時間に3年生で校外に出かけたかえりに、公園でリコーダークラブのメンバーで公園で練習したことがあった。確か、東京のプロの演奏家のクリニックを受ける機会があり、その直前だったので練習しようということになって、公園でアンサンブルの練習したこと、急に思い出した。

OS君は旅立ってしまったが、UH君とも音信不通だ。この話はまたの機会に。



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