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時の流れと最善を尽くすこと

昨日朝から今日まで、5つの講座を受講。

①防災ファシリテーター養成講座
②ちむどんどん「鶴見と沖縄の歴史」
③横浜市介護ハッカソン
 ケアの在り方を考える
④絵巻物で読み解く江戸の市民社会
 エコで、ボランタリーな江戸の町に学ぶ
⑤プラスチックのない生活

防災、まちづくり、ケアラー支援、ボランティア、地球環境と
すべてライフワークとはいえ、こうして眺めてみると
「いろんなことしてますね」と言われても仕方ないかもしれない。
SDGsもパラレルキャリアを掲げているではないか(笑)

私にとっては今生に地球を選び、人の課題につけ、まちの課題につけバランスを欠いているものを整えたいとシンプルに思うだけなのだけど、なかなか人には伝わらない。上手く伝えられない。

ところでこれまで1ミリも思ったことがなかったけれど、
私という人間はオタク的であるかもしれないと、このところ思うことがある。

今生の魂の目的が「とにかく知りたい」というだけあって、
知らないことを知りたい、もっと知りたい、もっと知らないことに出会いたいというニーズを持っている。

けれど何でもかんでも知りたいというわけではないから
どこかに共通項があると思うのだが、つきつめればやはり「いかに生きるか」の一択となる。

生まれ変わることがあるとしたら、次は研究者になりたい。
寝ても覚めても一つのことに気を取られて、日々喜びに満たされたい。
うっかりミスをしてしまったとか、実験が失敗に終わったとしても
それもまた収穫であると思いなおしてニッコリとおいしいご飯を食べながら満足しているであろう。

6月、神月の会というイベントを開催した。
ちょうど新月の日を選んで開催するイベント。

夏至を過ぎて地球のエネルギーが変化していることに気付いている人は多いだろうが、敏感な人は感情や体調がついていかない人も多くなる時。

そこで人体の基本中の基本。
あえて第一チャクラに焦点をあて、骨盤底筋のトレーニングをユーファイ(タイの伝統医療)の施術家であるオカムラミホさんにお願い。
その後、新月-肉体-地球にエネルギーを通してチャクラを活性化させる
催眠誘導を私の方で行いました。

この日、月が伝えるメッセージは「手放し」であった。

言語化しなかったものの、平たくいえばこういうことだ。
「執着しているものを手放して、そこにスペースをつくろう。
そして次にそこへ入れるものは自分が想像する最高のものに限る。」

今思うと、これって相当大事なこと。
受け取っていながら、なぜ言語化しなかったのだろうと悔やむ。

”自分が想像する最高のものに限る”。これがキモだ。
私たちはできたスペースに、安易に習慣でスペースを埋めてはいないだろうか。

私が昨日から受講した5つの講座。
自分を忙しくさせて、これは果たして必要な経験だったろうか?

有限な命の時間を何に使うかは、いつも考えているとかえって進めなくなりそうだけれど、ときおり考えることは大事だと思う。

私も受講したことを悔やんだところでその事実は変わらないので、それらの学びを存分に活かしたいと思う。

受講した講座の3つ目、介護ハッカソン。
ハッカソンはITの分野で作られた造語で、意見を出し合ってプランをまとめる作業のことを言うそうだ。
少子高齢化で様々な分野で担い手が不足していくであろう時代、
それを補うためにITの技術に頼ろうという、昭和の時代にはSFとも言われたことが令和ではリアルになっている。

冒頭ではそのハッカソン講座に参加したと書いたが、本当のところは講座終盤のフォーラム意見交換会で、ケアラー支援をする立場で意見を述べてほしいと招待されたもの。

先週も市議会の先生方とのミーティングに呼ばれ、ヤングケアラー支援について意見を述べることとなったが、私が常々言うのは「社会を救うには大人が成長する必要がある」ということだ。

未来をつくる子どもは大人を見て育つ。
大人はその手本になるべくがんばろうではないか。

かつての日本では、お年寄りは尊重される存在であった。
あらゆる経験の中で得た価値観は高次的なまなざしで、そこから紡ぎ出される言葉に若い人は学び従ったものだ。

今日の江戸の町に学ぶ講座でお話ししていただいた中に、
このような場面があった。

江戸は中期には100万都市。
しかし行政や裁判、消防など多様な業務を担う江戸町奉行はわずか322人。

それを支えたのは民間自治であったとのこと。

寺子屋で読み書きを教えたのは武士や僧侶のボランティア。
それゆえ識字率は町民であっても70-85%であったと言うから驚き。

江戸の町では人同士の交流が濃密であり、ボランティア精神にあふれていた。「この人が言うなら聞くしかあるめぇ」と言ったかどうか、従い・従わせる強い信頼関係があったに違いない。

令和の時代は個を尊重せよと叫ばれているが、排他的になってはならないと思っている。平成の時代はどっちつかずで、一人の感性の中でも尊重できる時もあれば排他的になる時もあると、揺れ動く人が多かったと思っている。

カウンセリングの中でよく言うのだが、自分を認めてほしいならば、違う考えを持っている他者がそう考えることを認めること。同意しなくてもいい。意見をゆずる必要もない。
「自分とは違う考えだけど、あなたはそう思うのね」。
ただそれだけでいい。
つまり誰に対しても尊厳を持って接するよう心掛けることが大切なのだ。

心理学者だったユングは『集合的無意識』という概念を創った人だが、
その中に『元型』を打ち出している。
元型とは国や文化が違ったとしても、誰の心の中にでも存在する幾つかの無意識の中にある概念で、物語に出てくる登場人物のように説明している。
中でも『老賢者』は正しい方向へ導くための助言や忠告を与えてくれる存在。
ある意味、これをハイアーセルフと説明してもいいのではないかと思うことがあるが、その人の霊的次元によってはそうでないことがあるのでそうとも言い切れない。

神月の会で催眠誘導したと書いたが、催眠誘導する時、私はあらかじめセリフを用意しない。
高次元と繋がれば、その時に必要な言葉が口から出てくると経験の中で知っているからだ。
その日は参加者の中に体調が悪いという人もいたので、即興でその部分の手当ても行った。
またビジョンの中に大規模な自然災害、飢餓、紛争や戦争への対策が含まれていたため、それも並行して行うこととなった。

これまたよく話す事だが、マザーテレサが平和を訴える講演をしている時に、観衆から「私も世界の平和に何かしたい。できることはないだろうか」と声が上がったとき、「家に帰って家族を愛しなさい」とマザーは答えたという。

世界の平和を願うならば、まず自分自身が平和のポジションに立っていること。
これは基本中の基本であり、原則と言ってもいいかもしれない。

世界が争いから目を覚まし平和を取り戻すためには、私たち一人ひとりの感情が平和であること。集合的無意識はそうやって作られていくのだから。

「今日」という日が明日も来ることはあり得ない話。
自分に必要な経験を最善の形で「いま」すること。と、心に刻む週末の午後。

毎度徒然なるままに語るブログを、今日も読んでくださってありがとうございます。

明日もよき日を。えり

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