2024年7月14日の日記(ミシェル・ウエルベック『闘争領域の拡大』)

 抗うつ薬の影響か、ほとんど感情がない。多分5月くらいから薬を飲み始めたけど、3月くらいの時点ですでに以前は好きだったものを積極的に楽しめなくなった。以前は『真空ジェシカのラジオ父ちゃん』を2年半くらい毎週聞いていて、楽しみにしていたが、聞けなくなった。お笑いを見ることがあれば楽しめるが、余暇にそれに時間を費やそうと思えなくなった。絵も描けない。以前は何か実際に行動を起こしてこの社会を変えなければならないという焦燥感からボランティアに参加することもあったが、そういった政治への情熱も消え去った。朝の通勤時には資格の勉強の動画を見て、帰りの電車ではラミーキューブ(ボードゲームの一種)をしている。何なら昼休みもしている。

  新規の本を探す余裕がないので(そもそも何事にも関心を持てない、というのもあるが)、以前読んだ本を読み返している。『闘争領域の拡大』をたまにパラパラと読んでいる。買った当時(去年の秋)くらいからかなり気に入っていて、最も好きな小説のうちの一つだったが、今読むと今の状況や心情にぴったり当てはまるところが多くて読んでいて心地良い。

 翌日、午前八時にはもうオフィスにいる。新しい上司もすでに出社している。この馬鹿、ここで寝たんじゃなかろうか?くすんだ、鬱陶しい霧がビルの谷間のテラスに漂っている。<コマテック>のスタッフがオフィスを一つひとつ清掃して回っている。蛍光灯が順々に点いて消える。人生の歩みが少し遅くなるような感覚を覚える。件の新上司がコーヒーをご馳走してくれる。僕を征服することを諦めていないらしい。どちらかというと面倒な仕事を頼まれ、数分で終わると見込んで、うっかりやると言ってしまう。最近、商工省に売ったパッケージソフトのバグ探しだ。いくつもバグがあるらしい。僕は二時間バグを探す。しかしひとつも見つからない。僕は本当にぼんやりしている。

ミシェル・ウエルベック『闘争領域の拡大』中村佳子訳、河出書房、166頁。

 昨日、(朝銭湯に行って精神科に行って図書館にカードを作りに行った後)休日出勤したが、デバッグのやる気が起きなかった。ソフト作成と書類作成はできるが、デバッグのやる気が起きない。泣ける。「いくつもバグがあるらしい。僕は二時間バグを探す。しかしひとつも見つからない。僕は本当にぼんやりしている。」とあるが、よくわかる。でもそうは言ってられない。今日は休んで好きなことをして明日は気張って頑張ろうと思った。


 僕に割り振られた医師はネポット医師。ご多分に漏れず六区在住だ。僕の印象では、精神科の医者は六区に多い。僕は十九時三十分に彼の家に着く。その男は途方もなく精神科の医師らしい顔をしている。本棚は非の打ちどころなく整頓されている。(中略)アルディッシュ旅行をしそこねた話が彼の興味を引くらしい。彼はその点をもう少し掘り下げて、僕の両親がアルディッシュ地方の出身であることを突きとめた。もう一つの筋道にまっしぐらだ。彼によれば、彼によれば、僕は「アイデンティティの指標」を求めている。あなたの移動はどれもこれもみな、「アイデンティティの探求」なのです、と彼は話を大胆に一般化する。そういうこともあるかもしれない。でも、少し疑わしい。たとえば出張などの移動は、明らかに外から押し付けられたものだ。でも僕はあれこれ議論したくない。彼には理論がある。それはいいことだ。結局のところ、いつだって理論がある方がないよりはいい。
 奇妙なことに、続けて彼は僕に仕事のことを訊く。わけが分からない。彼の質問が本当に重要なことだとは思えない。明らかに、見当外れだ。
 彼はその意図として、仕事が与えてくれる「社会生活のチャンス」についての話をする。僕は思わず噴き出して、彼を少し面食わせる。彼は月曜にまた来るようにと言う。
 翌日、僕は会社に電話をかけ、「病のぶり返し」を伝える。そんなことどうでもいいというような応答。
 なにもない週末。僕はよく眠る。自分がたったの三十歳であることに驚く。もっとずっと年老いている気がする。

同書、170-171頁。

 「彼は話を大胆に一般化する」こういったことは精神科医に往々にしてあることだ。精神科医だけではない、そのへんの人でもやりがちなことだった。それに続く、「そういうこともあるかもしれない。でも、少し疑わしい。たとえば出張などの移動は、明らかに外から押し付けられたものだ。でも僕はあれこれ議論したくない。彼には理論がある。それはいいことだ。結局のところ、いつだって理論がある方がないよりはいい。」という、これに対する態度も今のわたしにはよく理解できる。許せる内容のことで自分と違う考え方の人を見たとき、真に理解し合えなかったとき、同じことを思う。


 最初の事件は、翌月曜日、十四時頃に起こった。 その男が近づいてくるのは、遠くから分かった。僕は少し悲しい気分になった。 それは僕の好きな人物で、心が優しく、かなり不幸な男だった。僕は、彼が離婚者であり、もう随分前から娘と二人きりの生活だということを知っていた。それに彼が少し酒を飲みすぎることも。 しかしそれはそれこれと混同するつもりはまったくない。
 彼は僕に近づいてきた。挨拶のあと、彼は、僕が詳しいことになっている汎用ソフトについておしえてくれと言った。 僕はいきなり泣き出した。 彼はすぐに退却した。唖然とし、少し怯えていた。 詫びの言葉さえ述べたと思う。かわいそうに、彼はまったく詫びる必要なんてなかったのに。
(中略)
 医者に自分の奇行を話すと、一週間の体験を命じられる。ついでに療養所で短期過ごしてみてはどうかとも訊かれる。 僕はいやだと答える。 だって狂人は怖い。
 一週間後、僕は再び医師に会う。 特に話すことがない。 それでも二、三言はしゃべる。医師の螺旋綴じのノートを逆さから読んでいると、彼が「観念形成の衰え」と書き込むのが見えた。やれやれ。 つまり彼によれば、僕は馬鹿になりつつある。 それもひとつの仮定ではある。
 ときどき彼はオシャレな腕時計 毛色の皮革、金色の四角い文字盤) に目を遣る。僕の話はあまりおもしろくないらしい。 万一、患者が凶暴化した時に備えて、ピストルを抽出に入れているのだろうか。 三十分後、医師は意気喪失の時期についての一般論をいくつか述べ、僕に休暇の延長を命じ、薬の量を増やす。 同時に彼は僕の状態に名前があることをおしえてくれる。鬱病というやつだ。 これで晴れて、僕は鬱病患者である。 ありがたい形式だと思う。 僕は自分が特に落ち込んでいるとは感じていない。むしろ周りが浮かれているように思う。
(中略)
 僕はあっさり自分が鬱病だと伝える。彼はやられたという顔をし、それから気を取り直す。それから三十分、対話はころころと転がる。しかし僕は分かっている。 僕らのあいだにはもう、目に見えない壁のようなものが聳え立っている。 彼はもう決して僕のことを対等な人間とは見ない。 出世株とも見ない。実のところ、彼にとって僕は存在さえしていない。 僕は失墜した。いずれにせよ、どうせクビになる。 二ヶ月の法定療養休暇が終わり次第。 鬱病のケースはいつもそのパターンだ。そういう例を僕はいくつも知っている。
 制約の範囲内で、課長はまずまずそつなく振舞う。彼は僕に言う適当な言葉を探す。ある時、彼は言う。
「この業界にいると、ときどき、ものすごいストレスがかかってくる......」
「えっ、それほどでもありませんよ」僕は言い返す。
 課長は目が覚めたようにはっとし、会話を打ち切る。 彼は最後の一仕事として僕を戸口まで送りとどける。しかし二メートルの安全距離を確保する。 いきなりゲロを吐きかけられないかと恐れているようだ。 「まあいいさ、休養したまえ、必要なだけ時間をかけてね」彼は締めくくる。
 僕は会社を出る。今や晴れて自由人だ。

同書、172-176頁。

 「 僕はいきなり泣き出した。」よくわかる。3,4年前は一人で作業しているときはたまに泣いていた。この辺りの描写でよく出てくるが、何かの拍子で突然意味もなく泣ける気持ちがよくわかる。
 「鬱病というやつだ。 これで晴れて、僕は鬱病患者である。 ありがたい形式だと思う。 僕は自分が特に落ち込んでいるとは感じていない。むしろ周りが浮かれているように思う。」よくわかる。
 「「この業界にいると、ときどき、ものすごいストレスがかかってくる......」
「えっ、それほどでもありませんよ」僕は言い返す。」とてもよくわかる。わたしもこの主人公と同じような業界にいるが、それほどでもない。筋違い。これを適当に同調せず、わざわざ反論するいかれ具合も好きだ。ディスコミュニケーション。

 『闘争領域の拡大』はどの章も好きで、描写もいい。友達は「闘争領域つまらんやろ!残酷なだけや。地図と領土のほうがいいで!」といい、「闘争領域みたいな明るくておもろい本あったらおしえてほしい」と言うと、「闘争領域は暗くてつまらないやろ!」と言うが、わたしはそうは思わない。同僚のティスランが童貞だと告白するところや、冒頭の「十五分間、二人は陳腐な言葉をうだうだと並べた。彼女には好きな服を着る権利があるし、男の気を惹きたいとか全然そういうのじゃないし、ただ単にくつろげるから、好きだからそれを着ているんだし……云々。くだらない、滓の極み、フェミニズムの成れの果て。ある時、僕は大きな声で言ってみた。「くだらない、滓の極み、フェミニズムの成れの果て」しかし彼女たちには聞こえなかった。」のところも大好きだ。

 でも、今一番好きな箇所は以下の文かもしれない。

いずれにせよヴァンデ〔フランス西部、大西洋に臨む県。県庁所在地はラ=ロッシュ=シェル=ヨン〕には行くつもりだった。ヴァンデにはバカンスの思い出がたくさんある(結局あまりいい思い出はないが、それはいつものことなのだ)。 そうした思い出のいくつかを、僕は動物小説にかこつけて捕写している。 「ダックスフントとプードルの対話』というタイトルの小説で、 思春期自伝と呼ぶこともできるだろう。 最後の章で、一方の犬がもう一方に、若い飼い主の机の中に見つけた手記を読んで聞かせる。
「去年の八月二十三日頃、僕はサーブル・ドロンヌの浜を、プードルと一緒に散歩していた。プードルが海風と光の移り変わりをいかにも屈託なく愉しんでいるのに対し (とりわけその日の午前の終わりは、清々しく、気持ちがよかった)、 僕は振り払おうとしても振り払えない考え事でがんじがらめになり、頭の中に雲がかかり、その重さに打ちひしがれ、顔をがっくりと落としていた。
(中略)
そんなわけで、これから僕が話すさまざまな副次的命題は、愉快な螺旋となって、冒頭の公理の周りにからまることになるだろう...」
もちろん作品は未完だ。 そもそもダックスフントはプードルが論文を読みきる前に寝てしまう。

同書、107-120頁。

 犬がかわいい。

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