涼宮ハルヒの憂鬱 驚きと暮らしの狭間で


はじめに(ただの自分語り)


アニメ『涼宮ハルヒの憂鬱』と『涼宮ハルヒの消失』、『長門有希ちゃんの消失』を観たのは恥ずかしながらつい最近である。今回は、アニメ、映画版のハルヒ、そして有希ちゃんの感想である。前々から鑑賞したハルヒ作品群の感想、考察は書きたいと考えていた。しかしなかなか手を付けられていなかった。そんな折エンドレスエイトにあやかって今年の夏、アニメ以降の作品の電子書籍が88円になっていたので購入した。良い機会だと思ったので今これをしたためている。大学生になって観た身としては、ぎりぎり間に合わなかったなという感想だ。自分語りも程々にすべきだが、恥ずかしいことは無理矢理でも報告したいのが性なので許してほしい。そもそもアニメ漫画の類に自分は中高までその面白さを敢えて避け、敬意も薄かった。長編もの(特に今も物語が列記としてある作品の鑑賞を克服できていない)は続きが気になったりすることに不快感があったり、中学のとき現実世界のことを知り考えることが日本人として必要であると考え、歴史等をひたすら嗜んでいたものである。しかしアニメという存在が、今自分に関心ある日本文化の生について、事実現代の主役格にあることに哀れながら最近になって気付き、現代に生きる日本人、そしてそれに人一倍自負心を持つ異常者としてこれを享受することは必要であるという解釈と、心の中ではそういったものをふつうに喰らいたかった欲望が発露され今はアニメを嗜むようになり普通に好きである。

作品を通して、自分をハルヒと重ねてしまった部分は非常に恥ずかしい。自分は頭も運動神経もルックスもオワコンである。だがしかし小学六年の最後から中1の春にかけてのウキウキはエグかった。部活動紹介の時に手を挙げて新しく活動を立てて良いか聞いた記憶がある。剣道部か、心霊研究会を作りたかった。(結局その力はなかった)ネットという新しい世界を知り始め、また自分は当時都市伝説に浸かっていた時である。懐かしさがあった。何か面白いことをする集団。此世の謎を追求する。SOS団と、またzun氏の作品である秘封倶楽部はそういった点でかつて自分が抱いた夢を自分に見せてくれた。多分同じようなタイプはたくさんあるはずだが、自分は学が浅いのでこれくらいしかピンときていない。ハルヒの自己存在が世界の単なる一員として気付く過程は懐かしかった。幼稚園の頃自分はあるアニメの主人公のような気になったし、そうでありたいと願ったりした。オープニング映像とか妄想して、最後自分が真ん中で、周りが友達や知ってる大人達で囲まれて上を向いて手を挙げる映像を妄想した。よく覚えている。そして、時折行われる「僕は誰?」の繰り返し。「世界って何?」「なんでここにいるの?」の繰り返し。一つの喪失感?でもそこに謎があって気持ち良い。物凄く。これは中1で自慰行為を覚えて少々慣れたときくらいにできなくなった。忘れもしない。DSにエロマンガの画面を開きそれを持ったまま何故か妹の畳の部屋に向かい、親と妹が入浴中かを確認しに行った際にこの問答をしたときが最後だ。妹と母親はお風呂だった。自分はこれについて風呂上がりの親に問うた「なんで俺ってここにいるの?」と。親は只その愛を示してくれた。「ここにいていいからここにいるの」そんなことを言ってた気がする。自分は驚いた。親には俺っていちゃ駄目なんじゃないの?というように聞こえてしまったのである。心配していた。この問いは自分が幼少期から行っている。そんなことを親には言えなかったと思うが、この快楽を得たいがためにそうじゃないと反論するのは酷であろう。この経験をハルヒの野球場でたくさんの他人に出会うことで自分が特別でないことに気付く過程に親近感を覚えた。ハルヒは大勢の無個性人の前に自分もその一員でしかないことに気付き、自分とその日常がかけがえのない特別である生々しく価値ある幻想をたかが幻想に思ってしまった。そしてそれはつまりどこにでもあるというのがその理由だった。自分はある意味その逆かもしれない。なんでもあるこの世界に何故自分はいるのか。しかしそこにはなんでもあるこの世界と相対し自分を捉えるという面で通じている。私が感じたあの快楽は、喪失感があるが同時に不思議が内包されていたと言える。そういう意味で自分はハルヒより気楽で余裕だったのかもしれない。

ハルヒによるハルヒの為の…

さて、ハルヒの世界が何故面白くて惹き込まれるのか。書いていく。
まずハルヒがいなければこの世界は成り立ち得ない。それはハルヒが願ったから長門、みくる、古泉がその特殊状態を獲得したというのもあるが、それよりはもっとスケール大きく言うと、この作品の必須要件はハルヒであるということだ。涼宮ハルヒに似た何かでも駄目だ。涼宮ハルヒでなければならない。題名を見給え、全部涼宮ハルヒの、で始まる。つまりこれは涼宮ハルヒという存在でなければならないということである。これについてSOS団では実際ハルヒの思い通りに人は動く成り立ちになっている。長門は無関心的な了解、みくるは強制的に参加、古泉は積極的な了承、もちろんキョンは消極的な了承。ハルヒとキョンは特別な関係であるが、それは恋心だけでなくハルヒと対等に時に上から迫る、その好敵手としてでもある。だからキョンという存在は主人公(その世界に選ばれし勇者)として際立つのである。(これにあの独特の語りが、体験記として私達に伝わりそれを際立たせている)
ハルヒは突拍子もないことをガキ大将精神と己の行動力で団員を巻き込む、そんな彼女の心の中に時折垣間見える、団員に対する面白いことしてやろうという彼女なりの愛、そこが萌えであり、なんというか、…一つの母性に感じる。ハルヒは天真爛漫を突き抜ける傲慢と我儘、そして思い通りにならないと不貞腐れてあからさまに不機嫌になる様子。そこには幼さを感じられる。しかし、彼女の絶大な自信と衝動的な行動力、その能力の高さ、そして社交性ある振る舞いは好青年的な快活さと優秀な姿を感じられる。団員に対する愛、キョンに対するツンデレ乙女心、閉鎖空間に代表される内心に発露される弱さは女性的である。また彼女の悪性も無視してはならない。彼女のモラルをガン無視した様、我儘が癇癪にも変わるような瞬間、それは彼女の探求心や冒険心によるものだろうが、時折嫌悪感とドン引きとも言える感覚になる。そんな彼女はSOS団を動員しながら閃きと放り投げられた願いを意識的にも、無意識的にも実現させ続ける。彼女は別に大いなる夢が真面目にあるわけではない。ただ溢れる下らなく幻想的な妄想や思い付きを本気で取り組む、そこに当たり前と驚きが混在している。心地良さというのがこの作品のどこかにあるが、それはただ当たり前に平凡に暮らす大半の私達と似通っているからだ。ただ彼女はそれを全力で抗い、彼女のできる範囲で面白くしてくれる。それも衝動的に。この衝動的であることがポイントだ。私達の大半は本気で大きな夢や目標を建ててそこに毎日コツコツ進むことが出来る人間ではない。なんとなく生きてるというのが事実なのだ。そして時に面白いことを考えたり言ったりする。だからその瞬間のときめきは儚く美しい。彼女はそのときめきを全力で奏でてくれる。私達の淡く普遍的で隠された夢を叶えてくれる。そこには少年時代の下らないことをやりまくったあの冒険の数々とその懐かしさもあるのだろう。だが彼女はあくまで自分勝手な奴だ。憎いことこの上ない。

長門有希の幼さ

頼むから長門有希について語らせて欲しい。消失のお陰で心の中にあった長門有希という存在に対する一つの想いに拍車がかかり爆発した。私は長門有希について、アニメを通して感じたことは、苛立ちと幼さである。苛立ちに関しては彼女の無感情さである。エンドレスエイトの折も、普通に考えたらあの環境を抜け出すのが最善であるにも関わらず彼女は何も主体性を見せない(キョンももっと長門を気遣えよとそれ以上に苛立ったが)、また見える形で他者に協力をしない、望まれたことで、可能なことはやってくれる万能者であることから、優しさが無いわけではないが。幼さは彼女の無垢な目、それは時折見せる僅かな表情の揺らぎでありながら、万能故に反動的に絶大なる好奇心が彼女の源から立ち現れたる瞬間である。彼女が不思議そうな顔をする瞬間に幼さの極致があると思う。故に空気読んでよというこちらの苛立ちは正直その点からして打ち消されるものである。

消失と有希

彼女は世界の知識、物理法則を全てを知る存在である。情報生命体という言葉について私はそう解釈してる。彼女達は無数に存在しており、多分個体ごとに性格が違う点のみが差であろう。そしてその擬人化であると言える。彼女については正直、くるぶしあんよ氏の考察(以下)

『涼宮ハルヒの消失』における少女の新生・発動篇

http://www.puni.net/~anyo/etc/nagato2.html

が最も自分の中にも合致し、私の中では正しく美しい賛美したいものであると考えている。ので、敢えてそれを深くなぞることは控えるが、長門有希という名の稀に有る。有ることを希う。という意味を改めて消失という重大な題と対をなしながらもお互いの概念同士は不可分であることに驚きを見る。これもまた有無、消失と生成の賛歌に通じる。彼女は情報生命体である。情報とは何だろうか。正しい情報が指し示すそのものは確かに有るものだ。しかし嘘の情報など厳密には存在しない。そのよつな嘘の情報ですら情報として存在して有る。そして虚構であってもそれは新しい世界として改変され私たちはそれを信じることができるのだ。あらゆる英雄譚、神話は私達人間が新しく創造してるものだ。情報という言葉の拡大解釈だろうか。今ここでこの言葉の起源に触れるのは避けるが、情報が、仮にも情報がかけがえのない価値を自覚する瞬間とは何だろうか。それは多分、その人の情報になった瞬間だろう。情報はあらゆる人間に対して無機質であり普遍的な道具である。しかし情報は人々が自然、または人々同士の触れ合いから放たれるものだ。人から、自然から生まれた情報もまた、人と同じようにあるがままを愛されることを望むのではないだろうか。しかしその情報生命体、長門有希は消失における改変世界、つまり虚構を現実のものとして作り替えた。これは言うまでもない長門有希のかけがえのない自分と世界とのインターフェースの失敗であり、世界に対する重大な悲しみである。虚構は虚構であるから輝き、自然は自然のままであることは絶対である。しかし長門有希はそれに対して挑戦を投じた。キョンは長門有希からして特別な存在であり、彼の選択に委ねることが長門有希としての真の願いである。キョンはつまり現実世界の象徴である。長門有希という情報生命体のおそらく意識と無意識の中にある全ての感情から作成された都合の良い世界について、キョンは投げ込まれた。やがてキョンは現実世界を選択し帰還する。それはつまり、あくまで現実の長門有希が有るべきという答えなのだ。ここにキョンと有希の、つまり有機生命体と情報生命体の一つの成就があるのだ。キョンの選択が委ねられたこと、それはつまり情報生命体にとって有機生命体のあるがままの姿から肯定を受けることが願いでありあるべき姿であるということだ。かけがえのないキョンと有希の関係、そもそも全ての関係はかけがえのないものである。しかしそこに自覚と抱擁が互いに芽生えたとき私達は暗闇の中で一層に輝くのである。そしていつしかそれも消失し、しかしまた新たな輝きが生じる、だから有る。そして私達はそれを希う。宇宙とはそういうものだろう。

あり得た世界へ愛を込めて

消失の鑑賞した後、その激震は凄まじかった。そして長門有希ちゃんの消失を観た。エンディング曲の呼応も含めて、なんて優しい作品なのだろうか。これを私はキョンが文芸部の入部届を受け取ったあの瞬間にあの改変世界が完全に完成された状態であると解釈しているが、そこにあるのは有り触れた、しかしながら長門有希が心底から望んだ世界が当然のように広がっていることだ。その世界は、美しい。私はこれはあったかもしれない世界とは思えない。本気で私はこのとき、選択が私たちによってなされなかった世界線というものは“実在”しているのだと確信した。私は一つの世界線を観ることしかてきないのであって、他の世界線は幾つも有る。そう感じた。でなければこの作品の本物感はなんだ。そういうことである。朝倉涼子の振る舞いが一番に涙を誘った。有希にとって彼女は同族としてこういった存在であって欲しかったことが痛いほど伝わる。しかしながら本編の世界線での中心はハルヒである。ただそれが違ったのである。私達が見たくない世界線でも、その世界にはその世界の幸せがある。そう思えた。二つの世界は今日も続いている。


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