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世界史漫才25:明の洪武帝編

 苦:今回は明帝国の太祖洪武帝となる朱元璋です。
 微:こいつをモデルに『バットマン』のトゥーフェイスというヴィランが生まれたんだよな。
 苦:右はリアル版、左は無限修正版の肖像画だよ!
 微:プリクラを超越しているな。恥知らずというか。
 苦:朱元璋は1328年、現在の安徽省鳳陽県の貧農の家の末子に生まれました。これも後付け伝説でしょうが、伝承によると母親は夢の中で仙人から赤い玉を授かって妊娠し、朱元璋が生まれると家全体が赤く光り輝き、近所の人々が火事であると勘違いして家の周りに集まってきたということです。
 微:一瞬、北の将軍様かと思ったぜ。名前の「日」の字の由来の説明みたいで。
 苦:日本なら豊臣秀吉ですね。朱元璋は従兄弟も含めて八番目の子でした。14世紀の寒冷化はユーラシア大陸から日本にも及びます。
 微:日本でもキャバクラ幕府が倒産したもんな。
 苦:鎌倉幕府の滅亡だよ! それに続いて建武の新政の破綻、南北朝の分裂です。西欧では黒死病として知られる1348年のペストの大流行、そして百年戦争です。
 微:なあ、本気で百年も戦争したんか? だらけた学校の大掃除みたいに誰もやる気がなかったから終わらなかっただけだろ?
 苦:イギリスと戦う前にフランス内で揉めてましたしね。さて、中国では寒冷化が元朝末期の政治混乱と飢饉や凶作が頻発させておりました。紙幣の交鈔も紙くず同然となり、そのダメージは江南地方からの物資輸送に頼る黄河流域でとりわけ大きかったんです。
 微:それを好機にキャッスレス決済に移行したんだな、アリペイで。
 苦:それは21世紀です。逆に江南が政治的主導権を握ると中国を統一できる絶好のチャンスでもありました。しかし、乾燥気候との境界域にいた朱元璋の家族は食べるものも無く飢え死にしたそうです。
 微:朱元璋が一人で全部食い尽くしたんだろ?
 苦:『ワンピース』のルフィではありません。朱元璋だけは皇覚寺という寺に身を寄せて托鉢僧となっており、淮河流域で勧進を続けながら辛うじて生き延びましたが、ほとんど乞食同然の生活でした。
 微:シノギのために袈裟を着てたんじゃねえのか? 「食料出さなかったら殺すぞ」経読んで。
 苦:どんな托鉢だよ! 1351年、白蓮教徒の集団が各地で反乱をおこし、紅巾の乱が勃発します。
 微:本当はボロボロの服着ていたんで雑巾の乱と呼ばれたそうです。
 苦:この大乱で皇覚寺は焼け落ちました。朱元璋は自分で将来を占ってみると、紅巾軍に参加することが大吉であると出ました。そこで韓林児を教祖とする東系紅巾軍の一派郭子興のもとに身を投じます。
 微:博多華丸・大吉が手伝ったそうです。
 苦:ですが朱元璋が郭子興の軍に参加した時、最初は間諜と間違われ、殺されそうになったんです。
 微:でも面構えが悪く、悪事が得意そうなんで気に入られたんだよな。「即戦力として即採用」すると。
 苦:朱元璋は郭子興の下で頭角を現し、養女の馬氏を妻に貰いますが、これが後の馬皇后です。
 微:そんな人相も面構えも悪い奴に与えらえる娘って、どんなひどい娘だ? 産廃処理場か、朱元璋は?
 苦:突っ込むとこは、そこじゃねえだろ!『親として心配しなかったんですかね』だろ、普通。
 微:つい、田中真紀子が浮かんでしまって・・・。
 苦:よく似てるかもしれませんね、性格的に。朱元璋は他の部隊が目の前の事しか考えないのに対し、先のことを考えて行動します。つまり、自分の出自を活かして「貧民の味方」と看板を掲げ、元軍の徴兵された農民兵を取り込んで自己の勢力を増していったんです。
 微:血も涙もない総理大臣が自分のことを「叩き上げ」というくらいだからな、言った者勝ち。
 苦:紅巾の乱幹部の徐達、勇猛な常遇春、謀臣の李善長と出会います。朱元璋は李善長から「乱れた天下を治めるのは貴方である。そのためには同じ農民出身の劉邦の真似をすれば良い」と言われます。
 微:うわぁ、余計なアドバイス。「小さな親切大きなお世話」の典型だな。
 苦:これ以降朱元璋の行動は劉邦を意識し始めました。皇帝になる野望を本当に抱いたのでしょう。
 微:史上最も迷惑な”ヨイショ”だな。
 苦:1355年に郭子興が死ぬと、彼の軍を吸収し、翌年に現在の南京も占領、長江下流の一大勢力となりました。浙江というか蘇湖一体は最も農業生産力が高く、そこを押さえたのが決定打でした。
 微:明代の租税率が異常に高かった地域だよな。農業界の歌舞伎町というか渋谷交差点というか。
 苦:そして長江上流の西系紅巾の陳友諒が1363年に戦死し、翌年には紅巾の教祖韓林児を部下を使って暗殺させて白蓮教と縁を切り、白々しくも逆に「邪教」として弾圧します。
 微:村上ファンドが参加した臨時株主総会だな。
 苦:そして1367年、11ヶ月にもおよぶ包囲戦の末に蘇州に拠る張士誠を討って江南を統一し、1368年正月、南京で朱元璋は皇帝に即位、元号を「洪武」とし、国号を「大明」としました。
 微:中国の”洪武合体”だな。
 苦:文字化しないとわからないギャグはいいよ! 太祖は同年に起きた元の内紛を好機と捉え、徐達率いる20万を越える大軍を送り込みます。北伐軍は快調に進撃し、元の順帝は抵抗を諦めて大都を放棄し、万里長城以北へ逃走したため、明軍は無抵抗で同年8月に大都を占領しました。1371年に四川に残る紅巾の残党を滅ぼし、1381年には雲南を平定して中国統一を達成しました。
 微:それはいいけどさ、盗賊に中国統治なんてできるのか? 劉邦もやばかったけど。
 苦:その洪武帝の国内統治ですが、一般には、洪武帝は独裁権力の確立を目指し中書省を廃止して六部を直属とした、と言われています。ですが、実際には怒りに任せて中書省の官僚を皆殺しにした結果、中書省が消滅し、残った門下省も怖くて字句・文言の訂正すらできなくなったのが真相のようです。
 微:読売新聞に置き換えると、ナベツネの位置だな。
 苦:人を信用しない洪武帝は軍も皇帝直属とし、衛所制を導入します。これは唐の府兵制のように見えて、実はモンゴルの千戸制を名前だけ変えたものです。民政でも、洪武帝は唐を理想化して「重農政策」を打ち出し、大商人や大地主の財産を没収、荒地の開拓地への強制移住などを行いました。
 微:逆らったらその場で「死刑」だしな。がきデカのセリフじゃないけど。
 苦:実物経済に退行した華北に合わせるためです。具体的には、貨幣流通の掌握のために銀山の官有や銅銭・紙幣の発行、民間における通貨としての銀使用の禁止などです。
 微:唐を理想化する前振りとして宋を否定したのか? 回りくどい奴だな。
 苦:重農政策のもと、1371年には地方官の治績の評価項目に流民の定着と農地回復の度合いを加え、1381年に全国一斉に土地台帳の魚鱗図冊、戸籍の賦役黄冊を作り、里甲制(村落の自治的行政制度)・衛所制(税として兵役を納める家を指定)を実施しました。1394年には工部の官吏と国子監の学生を総動員して治水事業を一斉に行い、全国で5万ヶ所近い堤防を修繕したそうです。
 微:ほとんど毛沢東の第2次五カ年計画だな。
 苦:そして元祖「文字の獄」と呼ばれる大弾圧を行いました。「光」「禿」「僧」などの字を使うと、洪武帝の過去を暴く行為として殺され、洪武帝が「盗賊」をしていたので、「盗」の字と同音の道、「僧」と音の近い「生」の字を使った者がそれだけで殺されました。
 微:昔いた、僧侶で作家の今東光なんて、一族皆殺しだな。
 苦:1382年には「空印事件」と呼ばれる官吏への残虐な懲罰が行われます。多くの地方官が冤罪も含めて厳罰に処せられ、印の管理者は全員死刑となりました。1385年の郭桓事件では、戸部侍郎の郭桓が不正経理の罪で死刑となった際、各布政使司の官吏も連座させられ、数万人が殺されました。
 微:殺すために採用するのか、採用するために殺すのか、どっちなんだ?
 苦:文人たちの誰も科挙に挑戦しなくなり、文才のある者は官僚として半強制的に登用されました。科挙は難しい試験なのですが、明の時代に難易度が下がり、定型文を暗記するだけで合格したそうです。
 微:日本のどこかの県の教員採用試験なら得点水増しまでしてくれるぞ、ガンバレ!
 苦:貨幣経済の発展した宋帝国を否定しながら国家的物流はしっかり掌握し、唐を理想にすると言いながらやってることはモンゴル帝国だし、科挙を推進しながら科挙受験者のレベルが下がる施策をするし、国号は「明」なのに社会の空気は「陰鬱」だしと、とにかく矛盾に満ちた王朝が明なのです。
 微:これを元ネタに夏目漱石は『明暗』を書いたんだけど、理解を超えていたので未完なんだな。
 苦:全く無関係です。以上の洪武帝の施策により、明の官僚の意識も知的水準も低下し、事なかれ主義に走ります。16世紀に張居正が現れるまで、経済政策は無策に等しくなり、ひたすら明銭が海外に流出しても宋のように紙幣を発行するような対策も立てられなかったわけです。」
 苦:洪武帝は自分が老いるに従って、後の心配をするようになります。皇太子に選ばれたのは長男の朱標でしたが、この息子は優しい性格で、洪武帝から見るとあまりにも甘すぎると感じられました。
 微:そりゃ、自分と比べたら誰でも善人だよ。
 苦:洪武帝の猜疑心から明帝国樹立の功労者たちは帝位簒奪候補と疑われ、粛清の嵐が吹き荒れます。1390年だけで3万を越える人数が誅殺されたそうです。
 微:全部、「洪水による溺死」で処理したんで洪武帝な訳だ。
 苦:無視無視。これでやっと粛清の嵐も収まったかと思われた1392年、皇太子が早世しました。洪武帝は皇太子朱標の子の朱允炆を皇太孫とします。幼い後継者に変わったことで更に後継者が心配になり、再び粛清を始めました。結局、死ぬまで洪武帝は功臣を殺し続け、1398年にやっと死去しました。
 微:これで名実ともに”明”になったんだな。
 苦:洪武帝孫の朱允炆が1398年に建文帝となります。洪武帝は孫のために万全の策を尽くしたと思ったのでしょうが、甘かった。北辺防備を任され、巨大な兵力を持つ最も有能な四男の燕王朱棣が、自分の方が適任者であると思い、1399年にクーデタを仕掛けます。
 微:まあ、清原でも内海でも、勘違いできるのも実力のうちですから。
 苦:洪武帝は家臣には異常なまでの猜疑の目を向ましけたが、自分の家族は全面的に信じました。現代に残っている2種類の洪武帝の肖像画も左が家族向け、右が臣下向けだったかもしれません。
 微:メイクした時と、すっぴんのGACKTと同じだと理解していたけど。あるいは元漫才師の・・・
 苦:全部言うな! 貶された漫才師がトラウマになってしまうJOKERみたいなオバハンだぞ。

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