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微苦笑問題の哲学漫才13:ヘーゲル対ショーペンハウエル編

 微苦:ども微苦笑問題です。
 微:今回は観念論の締めでヘーゲル(1770~1831年)とショーペンハウエル(1788~1860年)です。
 苦:オレには締めと書いて「理解するの諦(あきら)め」だな。
 微:前向きに諦めてください。まずヘーゲルですが、フィヒテ、シェリングと並び、ドイツ観念論哲学を大成した思想家です。
 苦:「大成した」って、結局はその学問に先はないという意味で「終わり」だよな。
 微:尾張の整形外科医師も終わりに近いですが。と、こっちがボケていてはいけませんね。
 苦:そうだよ、オレの仕事を奪うなよ。
 微:後世に及ぼした影響は毀誉褒貶を含めて多大で、同時代ではキェルケゴール、ショーペンハウエルが激しく批判しました。
 苦:批判されるということはガチンコ勝負を挑まれているから幸せだよ。一番悲しいのは無視されること。ショーペンハウエルのように。
 微:有名どころでは、マルクスはヘーゲル哲学を批判、逆立ちさせて史的唯物論を形成しました。
 苦:批判と言いながら、「ブナの枯れ木から生えてきた椎茸」のくせに、よく言うよ。
 微:ヘーゲルはヴュルテンベルク公国のシュトゥットガルトの中流家庭に生まれました。父はヴュルテンベルク政府の公務員、母は進歩的教育者という、学問的に恵まれた教養市民層の環境にありました。
 苦:よく性格捻れなかったかったな。母親が進歩的だと息子は犯罪に走ること多いぞ。
 微:玲於奈というキラキラネームつけられてもノーベル賞取った人もいます。彼はのちにテュービンゲン神学校で教育を受け、シェリングやヘルダーリンと交友を結びます。
 苦:ギムナジウムに進学できるドイツ教養市民層は狭いというか薄い層だったことがよくわかるな。
 微:フランスでもイギリスでもそうですから。転機となったのはやはり同時代の大事件であるフランス革命です。ナポレオンのベルリン入城も目撃しています。
 苦:「馬上の精神論」って呼んだんだよな。
 微:それは東条英機です。革命の展開を横目に見ながら、ヘルダーリンとシェリングの2人はカントの観念論哲学への批判に没頭しましたが、ヘーゲルは1800年まではそれには加わりませんでした。
 苦:カントの「批判」は吟味のはずなのに、この二人は最初から誤読したんか?
 微:カント哲学のの実践可能性の低さを批判したので、誤読ではないんです。
 苦:まあ、毎日時計仕掛けの規則正しい生活を送るのは懲役にでもならないと無理だもんな。
 微:そっちではありません。理性だけの人間なんていないからです。カントの「目的の王国」が暗黒面のフォースで実現したものが北朝鮮だと考えれば、批判したくなる気もわかるでしょう。
 苦:まさに世襲という目的の王国だな、シャレにならないくらい。
 微:当時、ヘーゲルは、「大衆哲学」、つまり哲学を学問的修練を積んでいない大衆にも理解されるよう、著述する活動を成し遂げることに興味がありました。
 苦:安丸良夫先生に留学したいと何度も手紙を送ったそうです。
 微:時代がずれてます。彼は大衆哲学の形でカントの批判哲学を完成させたいと思っていんです。
 苦:その点、齋藤孝なんて最低だよな。明治大学教授になって、印税収入が必要なくなったのに、ゲーテやらニーチェを出汁にさらに駄本を乱発しているよな。
 微:そこまで実名出して言ってやらなくても。
 苦:ほとんどの人が名前は知っているけど読んでないこと、専門家は端から自分は相手にしないことを見透かして。
 微:そこまで明け透けに言ってはいけません。1801年、ヘーゲルは就職論文『惑星の軌道に関する哲学的論考』でイェーナ大学に私講師の席を手に入れました。彼は自然学者としてスタートしました。
 苦:論文タイトルからすると、星座占いみたいだな。占い師ネームも持っていたとか。
 微:昭和のルネ・バンダールかよ。すぐに彼の講座は絶大な人気を誇るようになり、同じ時間にショーペンハウエルが投げ銭の講座を私講師として開きましいたが、1人の出席者もないほどでした。
 苦:それで世の中に嫌気がさして厭世哲学に向かったんだな。
 微:ショーペンハウエルは元からそうだよ! その後、員外教授に昇進したものの、プロイセンがナポレオンに征服され、イェナ大学は閉鎖されてしまいました。
 苦:代表には選ばれたけどアメリカに追随して参加できなかったモスクワ・オリンピックみたいな。
 微:繰り返しになりますが、イェナに入城するナポレオンを見たヘーゲルは、この時のことを「馬上の世界精神」と表現しています。
 苦:私もトランプの大統領就任式典を見た時、「視覚異常の世界精神」と表現してしまいました。
 微:みんなそうです(あっさり)。ナポレオン没落後の1816年、『大論理学』を出版し、ギムナジウム校長を経て、ハイデルベルク大学で正教授となります。
 苦:自分で書いたんならケケ中より立派です。
 微:そして1818年、ベルリン大学正教授となりました。
 苦:日本なら北大教授を経て東大教授みたいな典型的なエリートコースだな。
 微:1819年、『意志と表象としての世界』を完成し、ベルリン大学講師の地位を得たショーペンハウエルは再び正教授ヘーゲルに挑み、同じ時間に開講します。
 苦:懲りないというか、執念というか。フランスの小説『決闘』を思い出すわ。
 微:友情は生まれません。ショーペンハウエルは彼の人気に抗することはかなわず、フランクフルトに隠棲しました。結局、同地で余生を過ごし、その哲学が認められたのは晩年でした。
 苦:晩年でも評価されたらいいじゃないですか、いくら世紀末ブームに乗ったとはいえ。
 微:プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世は、政治体制へのヘーゲルの貢献に対して勲位を授け、1830年には彼をベルリン大学総長に指名しました。
 苦:政治的力で総長になって名声を汚すというのはドイツ哲学界の伝統か?
 微:ハイデガーもですね。ヘーゲルはベルリン市内で起きた体制改革を求める暴動に悩まされることになります。
 苦:でも、当然ながらアウフヘーベンしてより高次な解決策を提示できたんだろ、自らの哲学を賭けて。
 微:そこまで嫌みを言ったら普通なら可哀想になるんですけど、まあ、この人の書く文章って、無意味に難解で同情できません。独特の用語を生み出したこともあるんですが。
 苦:いや、それ日本のドイツ哲学輸入というか翻訳の問題も大きいと思うけど。
 微:イギリスのバートランド・ラッセルが『西洋哲学史』(1945)の中で、ヘーゲルのことを「最も理解が困難な哲学者である」と書いているくらいですから。確かに日本語訳が悪いせいもあります。
 苦:その負の歴史を忘れないために北白川に哲学の道がある訳で。
 微:歴史を捏造するんじゃねえよ!! また「カントやヘーゲルの概念で禅を語った」と言っていい西田幾多郎の『善の研究』の悪影響も響いていますね。
 苦:「弁証法(Dialektike)」「止揚(aufheben)」「世界精神(Weltgeist)」くらいなら許せるけどな、業界の符丁として。でも「即自(an sich)」「対自(für sich)」「即且対自(an und für sich)」なんて、初学者には何のことやらさっぱりわからないし、今でも「わかった」と断言できねえよ、正直。
 微:みんなそうでしょ、恥ずかしくて口にしないだけで。
 苦:やっぱりすだよな。オレがバカなのが原因じゃないよな。
 微:主因はそれです(きっぱり)。ヘーゲルは、その難解さと研究対象としたテーマの幅広さにおいて定評があります。まあ、自然学から出発したわけだし、そこはデカルトと同じ。
 苦:要するに大阪のオバチャンみたいに何にでも口を挟む「いっちょかみ」だったんだな。
 微:豹柄のシャツは着てませんけどね。ヘーゲルは哲学史を世界そのものを理解するための一つの思想体系の自己展開として構想しました。
 苦:折り紙をヒントにした人工衛星の太陽電池展開システムみたいなもんか。
 微:それは空間節約です。しかも世界を「ひとつの運動・活動の中に内在している矛盾に対する解として、別の運動・活動が出現するという、進歩の過程」として描写しました。これが弁証法です。
 苦:高校の頃の副教材に出てきた「蕾の喩え」もわからんかったけど、今の「サッカー禁止」もわかんねえぞ。
 微:弁証法は普通に言われる時には、ほとんどヘーゲルやマルクスのそれを意味し、世界や事物の変化や発展の過程を本質的に理解するための動的方法、法則として通用しています。
 苦:要は循環ではなく、進歩に向かっての一方通行と考えていいのか?
 微:そうです。ですが、この言葉の中身は哲学者によって内容は多岐に渡っていいます。まあ、「システム」とか「シンギュラリティ」のような、一種の便利な言葉と言ってもいいでしょう。
 苦:「脱構築」みたいなもんだな、デリダの。ところでデリダって誰だ?
 微:つまらないダジャレは聞き飽きました。ちなみにヘーゲル、マルクスの弁証法は「正・反・合」の三枝弁証法ですが、シェリングは四枝弁証法です。
 苦:4つ目は「賛成の反対なのだ」か?
 微:それはバカボンのパパだろ! ただし、

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という指摘もあります。
 苦:「クリオの寝台」「世界史の基本法則」と同じではないと言いたいんだな。
 微:「ミネルヴァの梟は夕暮れに飛ぶ」の例えだけが、いえ、それで有名な、『法哲学』の序文でも端的に述べられているように、ヘーゲルに言わせれば、形式的な哲学は常に現実を後追いしているに過ぎません。
 苦:事後説明になるのは人文科学なら仕方ないんじゃねえの? 予言なんてしたら宗教者だぜ。
 微:今ある現実に先行する、現実の生成のダイナミズムを内在的に徹底的に説明した結果がヘーゲル的弁証法なのです。
 苦:要するに「先物取引もできる」「私にはマネーゲームの破綻が予言できる」哲学ってことか?
 微:そんな低次元なことではありません。でも「暗号で事前に読み解ける競馬の結果」本よりマシか。
 苦:今の日本で言うと、そのラインは副島隆彦だな、「何でも陰謀」論の。
 微:同時代においてヘーゲルが受けた批判に君主制擁護があります。フランス革命を賞賛してたのに。
 苦:それは天皇制反対を訴え続けた井上ひさしがあっさり文化勲章をもらったようなもんだろ。
 微:大岡信的ならいいんですけどね。彼は同時代人として見聞したフランス革命初期の暴力のうねりを革命を成し遂げるのに必要であったと評価します。
 苦:革命は、ある意味意図的契約破棄、創造的破壊だもんな。
 微:キミが言うと計画的自己破産みたいですが。しかし、その反面、参照すべき前例がないがゆえに自己抑制が利かなかったために恐怖政治に帰結したと理解しました。
 苦:やっぱり革命にも原発にも制御棒は必要だな。
 微:東電が操作できるかは別問題ですがね。やっと自由を勝ち取ったはずが、皮肉にも「当然の帰結」として、ロベスピエール独裁という恐怖政治を生み出したことに教訓を見出そうとしたのです。
 苦:この辺りはホッブズ的というかネオ護憲論的だな。
 微:革命の理想である自由・平等が実現された立憲国家であっても、君主制でなければならないというヘーゲルの判断はそうして生まれました。
 苦:実はオクスフォード大学への就職を画策していたそうです。
 微:そんな必要ないですから。革命詩人ハイネがヘーゲルのことを「ドイツ哲学におけるオルレアニスト」、つまり七月王政支持者と評したのはこういう訳です。
 苦:そしたら大岡信は「日本文学におけるスターリニスト」だな。
 微:もうこれ以上、危険な業界話は止めましょう。主著の『精神現象学』(1807年)の本来の題名は「学の体系(System der Wissenschaft)」で、主観的精神(「意識」「自己意識」「理性」)から絶対知へと発展する過程を描く構想でした。
 苦:その野心は評価していいだろう。哲学界の「人類補完計画」として。
 微:しかし、徐々に膨らんでいき、最終的には「精神」「宗教」という章が付け加えられました。当然、既に書いた部分との整合性を調整しなければならないんですが、間に合わなかった。
 苦:まさに安野じゃない方の庵野じゃないか。
 微:ヘーゲル自身が認めているように、混乱している部分や後年の著作でカテゴリーが微妙に変化したものも多いため、その読解というか理解は困難です。その上61歳でベルリンに発生したコレラに感染してヘーゲルが死んでしまいました。
 苦:最後の言葉は「あとはよろしく!」だったそうです。
 微:もういいよ! やっとショーペンハウエルです。
 苦:これでデカルト、カント、ショーペンハウエルと「デカンショ」が完成したな。
 微:どうでもいいです。彼から影響を受けた人物にはヴァーグナー、ニーチェ、ヒトラー、ユング、ヘッセ、トーマス・マン、ベルクソン、フロイトなど錚々たるメンバーが並んでいます。
 苦:全員、ある意味負け犬だよな。そして負け犬の位置をうまく使ったというか。
 微:影響力が長続きする方が思想家としては大物なんです。日本でも森鴎外をはじめ、堀辰雄、萩原朔太郎、など多くの作家に影響を及ぼしました。
 苦:死体に鞭打つけど、「偉大なる敗北者」「負けたことで記憶に残る人」だな。
 微:ショーペンハウエルは仏教精神そのものといえる思想でインド哲学の精髄を明晰に語り尽くした思想家です。
 苦:オレには『ムーミン』のカワウソ哲学者だけどな。
 微:世界は自己の表象であり、世界の本質は生きんとする盲目の意志である主張した『意志と表象としての世界』が代表作です。
 苦:それって、ニーチェが完全にパクってるよな、「力への意志」。
、微:知性よりも意志を強調したその哲学は、のちの生の哲学、実存主義の先駆と見ることもできます。
 苦:往生際の悪い受験生みたいに響くな。
 微:まあ、はっきり言って、ニーチェの「力への意志」なんてそのものです。さらに言えばカント、ショーペンハウエル、ヘーゲルがなければ西田幾多郎なんて存在しません。
 苦:オレにとっては『ゲゲゲの鬼太郎』で十分で、幾多郎は存在しなくていいんだよ。(♪チャンチャン)

作者の補足と言い訳
 ドイツと日本の共通点は、「ない・なかったものを<あった>と強弁すること」、別の言い方をすれば、ロマン主義に走りやすいというか、困った事態になると思考停止して「前方への逃走」をしてしまうことではないでしょうか。理屈っぽいドイツ人と「なあなあ」の日本人という類型的比較からよく言われる対照的な面もありますが。
 という前置きはさておき、ヘーゲルと言えば弁証法、アウフヘーベンです。この自己運動をどう説明したら生徒に通じるのか、ずっと頭を悩ませてきましたが、「変化を進歩と解釈すること」「自分に不都合なデータや事実から目を背けない勇気」と二つに分解して説明することにしました。すると、けっこう「わかった気」になる生徒も出てくるようになりました。前者は19世紀の歴史主義の説明を流用しただけですが、ヘーゲル的に言えば、人類の歴史イコール進歩の歴史なので間違いではないはずですし、また社会主義の実現を人類史的必然であると主張したマルクス主義の説明へもつないでいけます。
 後者の説明は、大学院時代に少しだけ指導いただいた(業界用語で「修論の口頭試問だけ」という意味です)ナチス研究の栗原優先生の「自分に不都合な事実を重視した」という言葉を思い出したから思いついたのですが。ですが、模擬試験などで「不都合なデータや現実」に直面し続ける受験生にとって、後者を失わないことこそ、進歩というか限界の突破には必要不可欠です。逆に不都合な真実から目を背けたソ連の崩壊、背けている米中の崩壊も予感できて、少しうれしくなります。

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