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微苦笑問題の哲学漫才15:マルクス編(前編)

 微苦:ども、微苦笑問題です。
 微:今回は社会主義の本丸ことカール・マルクス(1818~83年)です。
 苦:個人的にはグルーチョ・マルクスの方がいいな、コメディアンの。
 微:「私を入れるようなクラブには入りたくない」の名言の人ですね。さて、マルクスは親友で同志のフリードリヒ・エンゲルスとともに、包括的世界観及び革命思想として「科学的社会主義」を打ちたてた経済学者・思想家です。
 苦:やっぱり、やるんか。もう国民文庫もないのに。
 微:彼は資本主義の高度な発展により共産主義社会が到来するのは歴史的必然だと説きました。
 苦:ついでに「キューバと北朝鮮はいつまでもつか」も科学的に説明して欲しいな。
 微:それよりも「日本の首相はなぜ一年程度しかもたないのか」を説明して欲しいですね、主権者・有権者として。
 苦:それは日本共産党と、連携可能政党である社会民主党が没落したから、自民総裁なら誰でもなれるようになっただけだろ。でもCPUが1テラの時代に、所属国会議員は4ギガのレベルだから。
 微:話を戻すと、特に1848年の『共産党宣言』の結語「万国のプロレタリアよ、団結せよ!」は、彼の思想を端的に表す言葉として有名です。ちなみに、この日本語訳は幸徳秋水によるものです。
 苦:それを勘違いしてタイでタクシン元首相支持者たちが空港を占拠する大規模デモを行ったんだな。
 微:その「バンコク」じゃねえよ!! まずその生涯ですが、マルクスは、1818年5月、プロイセン王国のトリーアで生まれました。父ハインリヒの家系は、代々ユダヤ教のラビを務める家柄でした。
 苦:頭脳優秀で社会的尊敬もすでにある、ユダヤ人の「いいお家」だな。
 微:父は主流化するために自らユダヤ教からキリスト教のプロテスタントに改宗した弁護士でした。
 苦:ユダヤ人を宗教概念とするなら、もう父の代からユダヤ人ではないね。でも、レヴェナス的なユダヤ的世界観は持っていただろうな。
 微:ええ、新しい学問を次々と生み出す「ユダヤ的世界認識と自己認識」です。陰謀ではないですよ。ということでマルクス自身も6歳の頃に父と同じくプロテスタントの洗礼を受けています。
 苦:けれども、ヒトラーは同化ユダヤ人という点を衝いて共産主義=ユダヤ人の陰謀と宣伝した、と。
 微:ええ、そうです。1830年、マルクス12歳のとき、トリーアの名門ギムナジウムに入学、その哲学に関する卒業論文の主題は、「職業の選択に際しての一青年の考察」でした。
 苦:ロンドンに亡命してからは一回アルバイトしたくらいのくせに、なあ。
 微:1836年、マルクスは18歳のとき、姉の友人で検事総長の娘だった22歳のイエニー・フォン・ヴェストファーレンと婚約します。
 苦:これって、ユダヤ教の「マッチメイキング」、親が子どもの結婚を決めるじゃねえのか?
 微:それはないでしょう。その後ボン大学、ベルリン大学に学び、ヘーゲル左派の影響を受けます。
 苦:のちの東西ドイツの首都を制覇したわけか。
 微:さらに1841年にイエナ大学へ移り、学位請求論文『デモクリトスとエピクロスとの自然哲学の差異』でマルクスは哲学博士となりました。
 苦:話は戻るけど、弁護士一家と検事一家の婚約って、これは仲間内なのか「恩讐を越えて」なのか、どっちなんだ? 昭和の頃、「けんじ・はんじ」っていう売れない漫才コンビいたけど。
 微:教養市民層の階層内結婚でいいでしょ。1842年にマルクスは24歳で、ケルンで創刊されたブルジョワ急進主義の「新ライン新聞」主筆を務めまました。
 苦:せっかくの学問的蓄積と両家のコネを利用しないとは、偉いな。
 微:主筆時代に生涯の友人にしてマルクス最大の支援者となるフリードリヒ・エンゲルスとの出会いを果たしますが、お互いの印象は素っ気ないものでした。
 苦:というより、ロベスピエールとルイ16世の最初の出会いの方が出来過ぎなんだよな。
 微:世界史選択者でも知らないかも。マルクスは「新ライン新聞」で対ロシア政府批判を行いますが、それが原因で政府から同紙は弾圧を受け、1843年3月に失職しました。
 苦:よくよく考えたら、まだウィーン体制が生きていた時代だよな。
 微:その自分が主筆として発行した最後の号を全面赤インクで印刷したことから、共産主義のシンボルカラーは赤になったのです。
 苦:通常の3倍の速度で売れたそうです。
 微:ガンヲタかよ!! 1843年6月にようやくイエニーと結婚し、11月にパリへ行き、友人とともに同地で『独仏年誌』を出版します。
 苦:イエニーさんも偉いな、売れない編集者と敢えて結婚して。
 微:本当にそうです。しかし、『独仏年誌』は2号で廃刊となり、さらにプロイセン王国枢密顧問官によるフランス政府への圧力で、1845年1月にはブリュッセルへの追放を余儀なくされました。
 苦:地検は「不起訴相当」「両国の今後の関係を考慮した」と異例の記者会見までしたそうです。
 微:それは2010年の中国人船長だろ!! 1846年、マルクスはブリュッセルでエンゲルスとともに「共産主義国際通信委員会」を設立します。
 苦:そうだな、インターナショナルも連絡機関というか互助団体というか同人誌サークルだったしな。
 微:それは失礼でしょう。さらに共産主義組織の分派争いの渦の中で新たに「共産主義者同盟」の結成に参画することになり、先程言及した『共産党宣言』を起草します。
 苦:明治の大同団結運動以来の、イデオロギー抜きで「なあなあ」でつながって、議会多数派を占めることが自己目的化した日本の政党しか見ていないわれわれには、理解が難しいな。
 微:1969年以降の全学連を見ても、イデオロギー闘争こそ政党の命です。「小さなことで喧嘩するなよな」って思ってしまうけど、政治運動の方針決定って、大きくて重いことです。
 苦:日本の場合、行動しないことを正当化する「イデオロギー逃走」も多いしな。
 微:その通りだけど、文字化しないとわかりません。結局、「共産主義者同盟」内の齟齬に起因する内部争いにより、マルクスらは組織内部の少数派に転落します。
 苦:(ドテッ)もういい加減にしなさい、だな。さっき言った日本の新左翼も同じ経過を辿るもんな。
 微:歴史主義というか、進歩への確信を共有できた時代ですから。マルクスはさらに1848年2月のフランス二月革命のため、警察に夫婦ともども抑留され、翌日パリに送り返されました。
 苦:パリでも受け取りを拒否されたそうです。
 微:ピノチェトかよ!! 翌年にはエンゲルスの招きに応じ、1849年8月末、ロンドンに亡命しました。
 苦:その時、プーチン大統領がポロニウム入り紅茶でもてなしたそうです。
 微:それは21世紀の話だよ!! エンゲルスは実父が所有するロンドンの会社に勤めており、資金面でもマルクス一家を支えました。
 苦:聞こえはいいけど、資金流用のまた流用だな。桜を見る会に招待されそうなレベル。
 微:いえ、マルクスは1851年から「ニューヨーク・トリビューン」紙の特派員になり、1862年まで500回以上も寄稿して稼いでいます。ニューヨークにはドイツ系移民も多く、社会主義は力があったんです。
 苦:21世紀のアメリカ見ていると信じられないな。バーニー・サンダースのレベルで社会主義者扱いだもんな。
 微:1864年にロンドンで結成された第一インターナショナルを知るや、遅ればせながら参加します。ですがバクーニンと激しく論争し、両者の対立から第一インターナショナルは解散してしまいます。
 苦:ルソーの「一般意思」を思い出してもらえればよく理解できる話だな。ただ、まだ誰もみんなが納得するというか、感動する一般意思を提示できていなかったんだろ。
 微:おっしゃる通りです。さて研究の方ですが、マルクスは1850年から亡くなる1883年までの30年間、大英図書館に朝10時から閉館となる夕刻の6時まで毎日通い続け、経済研究と膨大な量の資料収集を行いました。今も彼が使っていた机と椅子が当時のまま展示されています。
 苦:それって、マルクス主義が「博物館入り」した記念事業だろ?
 微:日本の民具じゃねえよ!! 1867年に第1巻が出たマルクスの『資本論』は長年にわたる経済学研究から生まれたものです。イギリス経済を研究することは資本主義そのものを研究することと同義でした。
 苦:アダム=スミス、リカード、マルクスそしてケインズと、経済学の歴史はそのままイギリス資本主義の歴史の研究だもんな。
 微:おっしゃる通りです。
 苦:で、まだ実現していない未来の社会主義のヴィジョンのネタ元は何なの?
 微:それは1871年3月26日のパリ・コミューンでしょう。
 苦:ラリったヒッピーが棲み着いて好き勝手していたんだな。
 微:『イージーライダー』でも見てなさい。普仏戦争講和条約のあまりの苛酷さに労働者たちが自生的に生んだ自治的権力機関です。
 苦:戦勝よりも敗戦の屈辱の方が国民という幻想を実体化させるパターンだな。
 微:わずか72日間の短期間ながらも、パリにおいて民衆蜂起による世界初の労働者階級の自治による革命政権が誕生したのです。この事件は、マルクスにプロレタリア革命後の「国家なき社会」のイメージとして大きな影響を与えました。
 苦:「なぜ、ヴェルサイユに逃げた政府軍を追わないのか」って痛烈に批判したよな。
 微:自分も決起してないんですけどね。話は飛びますが、1881年12月2日に献身的にマルクスを支えてきた妻イエニーが亡くなります。
 苦:まさに献身的だよな。紀州のドンファンの元妻とは雲泥の差。
 微:それまでにも貧窮から栄養失調で子どもや孫も失っていたマルクスには、彼女の死は大きな打撃でした。彼も1883年3月14日にロンドンの自宅で亡くなります。肘掛け椅子に座したままでした。
 苦:発見された時、推定死亡時刻から一ヶ月が経過した孤独な死でした。
 微:それは悲しい21世紀日本だよ!! 後にはマルクス独特の、あの悪筆で書かれた膨大な草稿、ノート、メモが残されていました。
 苦:展開が読めるな。責任払いだろ。
 微:その編集と出版を行ったのは親友エンゲルスで、『資本論』第2巻・第3巻も彼が編集しています。
 苦:徳川家重語を聞き取れたことが田沼意次の出世の理由みたいな話だな。
 微:もう紙数も残り少ないので、今回は剰余価値だけ話し、史的唯物論は次回に回します。
 苦:ひょっとしてハイデガー『存在と時間』方式の逃げを打つつもりかあ?
 微:はなたには負けるわけにはゆかないんれす!! 
 苦:答弁に困った安倍かよ。舌が回っていないぞ。
 微:うるせえよ!! マルクス経済学はアダム=スミス以来の労働価値説を前提にしています。産業資本において、資本が労働力(=労働者)を用いて商品を生産する過程を生産過程と言います。
 苦:価値を生み出すプロセスという含みだな。
 微:資本家は商品を売って利潤を得ることを目的に生産・経営します。そして生産手段たる資本を持たない労働者は自らの労働力を売って、賃金を得て生計を維持します。
 苦:資本家と労働者の階級分裂だな。厚生労働省では使用禁止用語だって小倉千加子がバラしてたな。
 微:一見、ギブ・アンド・テイクなんですが、その労働者が受け取る賃金は、その労働が生み出した価値に見合うはずなのに、実は労働者は必要労働を超える余計な不払労働をやらされています。
 苦:そりゃ等価交換の名で不等価交換するのは「ジャックと豆の木」以来、当然だよ。
 微:マルクスによる剰余労働の発見とは、労働者から生み出された賃金以上の価値が剰余価値で、これを資本家が独り占めすることをマルクスは搾取と定義しました。
 苦:最初の搾取を「マンチェスター一番搾り」と呼んだそうです。
 微:搾取された不払い労働が資本家の利潤あるいは不労所得です。そして利子、地代も剰余価値が形を変えたものなのです。
 苦:パソナの中抜き率95%ビジネスよりマシというのが悲しい。さらにこの哲学漫才は不払い労働の極北だもんな。
 微:ただし、剰余価値はそのまま資本家の利潤とはなりません。商品の価格は、その商品そのものの価値=使用価値に資本家の利潤が上乗せされた交換価値として表示されます。まだ実現じていません。
 苦:売れなければ「不良在庫」だわな。
 微:つまり利潤はその商品が売れる=貨幣と交換されてはじめて実現するのです。これをマルクスは「命懸けの跳躍」と表現しました。
 苦:つまり、詐欺師は詐欺に成功しないと詐欺師ではないのと同じか?
 微:宝くじみたいに「夢を売っている」という逃げもありますがね。そうして投下された資本は利潤を伴って、つまり拡大して再び次の生産過程に投入されます。
 苦:資本の盲目的衝動とも言える拡大再生産だな。
 微:これを資本の一般的定式で表示すると、「貨幣G-商品W-貨幣G'(G+ΔG)」になり、「ΔG」が剰余価値というか利潤になります。
 苦:つまり売れ残りが出たら、悪ければ倒産となるのでΔGを小さくしてでも資本を回収しようとするのが閉店前の値引きシールだったり、「わけあり商品」なわけだ。
 微:その通りです。資本が取得する剰余価値を増加させるには二つの方法があります。労働力の価値、要するに賃金が一定なら、労働時間を延長させることです。
 苦:それって日本の公立学校教員にはシャレにならない水準に達してるぞ。
 微:8時間労働なのにサービス残業を強要して12時間労働に延長すれば4時間分の剰余価値が増加します。これが絶対的剰余価値生産です。
 苦:課長以上つまり管理職になると残業代払わなくていいから、すぐに今は店長や課長になれるよな。
 微:第二の方法は、労働時間が一定ならば賃金を減らすことです。先ほどの労働者の日払い賃金を、例えば1万円から5千円に半減させれば、剰余価値は2万円から2万5千円に増大します。
 苦:ただし、労働力の再生産が可能な範囲でだけど、移民労働力が代替すると、それも心配しなくていい。けど国民扱いすると面倒なので期間限定・国際貢献名目の技能実習生制度ができると。
 微:これが相対的剰余価値生産です。日本資本主義における正社員の長時間過密労働は絶対的剰余価値生産の概念によって、非正社員の低賃金は相対的剰余価値生産の概念によって、よく説明することができますし、商品単価を下げるために途上国に生産拠点を企業が移転させるのも第二の方法です。
 苦:だけど第二の方法をすべての企業が行うと産業空洞化とデフレ・スパイラルに陥るわけだな。
 微:やがて資本家は、資本の拡大再生産に取り憑かれ、それ自体が自己目的化していきます。それが資本主義"capitalism"で、この"ism"は理想ではありません。中毒や依存症の"ism"であり、資本主義経済とは成長パラノイア(by川北稔)なのです。
 苦:ってことは"Marxism"はマルクス主義じゃなくてマルクス依存症なわけだな。(♪チャンチャン)

作者の補足と言い訳
 2年の思想で取り扱いますが、詳しく説明する時とあっさり済ませる時とにはっきり分かれます。まあ、時間上の都合なのですが。マルクス主義(マルクスの思想)には独特の魅力というか魔力があります。どう形容すればいいのか、未だに適切な言葉が見つかりませんが、理性を全開にしながらも、同時に精神を高ぶらせる独特な高揚感を読む者に与えます(これは内田樹氏も書いてましたが)。ただ独特のマルクス業界用語に慣れるまではしんどく、筆者は未だに駆使することすらできません。まあこれはカント、ヘーゲルの観念論に繋がるがゆえの風土病でしょう。
 しかし、今回取り上げた「売るために作る」という商品経済の論理を農耕社会の「使うために作る」から切り離した分析は見事です。これを日本の歴史上で最初にこれを理解したのは平清盛だと思っています。昭和の頃、日本史業界も歴研を中心にマルクス主義(唯物史観)にもとづく「ケーススタディ」が流行りましたが、川北稔氏が言うように、生産と所有しか議論の対象にしていなかったことが歴史学そのものを貧しくさせたのは否定できません。モノは交換してこそ意味を持ち、交換に応じてくれやすいモノこそ「商品」であり、商品の価値は消費されてはじめて発揮されるのですから、消費局面を分析すべきです。そしてその商品交換は等価交換のように見えて実は不等価交換であり、商売というか貨幣を扱う技術は魔術に等しいものと近代以前の人間には感じられていたことを「わらしべ長者」「ジャックと豆の木」という東西の昔話は教えてくれるのです。そして等価交換の名の下に行われているものが不等価交換であるからこ貧しい人・国はいっそう貧しくなるのです。

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