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世界史漫才58:レーニン編

 苦:今回はロシア革命を成功させ、ソヴィエト連邦を作ったレーニン、真ん中の人です。
 微:今をときめく白井聡のメジャーデビューが『未完のレーニン』だったな(遠い目)。
 苦:柄谷行人に書評でこき下ろされてました。そして、あの中沢新一も『始まりのレーニン』を書いていました。
 微:関わると不幸になるオッサンと理解していいな。苦:まあ、確かにそう言える余地はあります。20世紀をある意味でつくった革命家ですから。
 微:世界史で最も有名なハゲとして押さえておいていいのか?
 苦:まあ、ソ連・ロシア史のハゲ・フサの『両統迭立』は有名ですがね。ニコライ2世(フサ)→レーニン(ハゲ)→スターリン(フサ)→フルシチョフ(ハゲ)→ブレジネフ(フサ)→アンドロポフ(ハゲ)→チェルネンコ(フサ)→ゴルバチョフ(ハゲ)→エリツィン(フサ)→プーチン(ハゲ)→メドヴェージェフ(フサ)→再度プーチンと見事です。
 微:最近はプーチンの後ろには誰もいないから、永久政権を目指しているように思えて。
 苦:勝手な憶測をしゃべるんじゃねえよ、もう。レーニンは「レナ川の人」を意味するペンネームで、本名はウラジーミル・イリイチ・ウリヤノフ。地下活動の間に約150もの偽名を使っていました。
 微:優秀な結婚詐欺師になれたろうに、惜しいねえ。
 苦:目的が違う! 帝政ロシアから革命運動家はマークされていたので、その追及を逃れるためなの。
 微:しかし、150ってよく使い分けられるな。今ならエクセルで管理できるけど。
 苦:そんなことはオレオレ詐欺とか振り込め詐欺グループしかしてねえよ!! 話を始めると、マルクス主義運動家として活動しはじめたレーニンは、1895年末に逮捕・投獄されます。1897年にシベリア流刑となり、シュシェンスコエ村に追放され、翌年に社会主義活動家ナデジダ・クルプスカヤと結婚します。
 微:まさに『愛の流刑地』だね。略して愛ルケ。
 苦:それは渡辺淳一! しかも全然読んでないだろ、まったく。クルプスカヤは愛人じゃないの! レーニンは刑期終了後の1900年に亡命します。
 微:その時、ロシア内に残留したスターリンたちが ♪ねえレーニン、こっち向いて 亡命しなーいーで、って歌って別れを惜しんだんだよな。
 苦:それはアニメの『ムーミン』の主題歌の出だしです。同年12月、亡命先で同じく政治闘争を重視する活動家とともに政治新聞『イスクラ』を創刊します。その編集局にはマルトフ、ポトレソフ、プレハーノフらのロシア・マルクス主義の大物がいました。
 微:チーズケーキ職人のモロゾフはいなかったのかよ?
 苦:それは日本に亡命した白系ロシア人。1902年、レーニンは社会主義を目指す政治闘争を主張した『何をなすべきか?』を書きます。
 微:そりゃ革命家だから革命に決まっているだろ。
 苦:その中で「社会主義意識は、プロレタリアートの階級闘争のなかへ外部からもちこまれたあるもの」というカウツキーの言葉を引用しました。この考え方は『外部注入論』と呼ばれ、要するに外から労働者階級に革命意識を注入する専門の革命家が必要だということです。
 微:アメリカ女優のように、専門家がシリコンを注入しないと豊胸手術は成功しないのと同じだな。
 苦:どんな譬えだよ。労働者は革命の担い手だけど、日々の労働で忙しく、理論を考察したり、革命の展望を持てる頭脳も持っていないから、専門革命家集団の存在とその指導の必要性を訴えたの!
 微:要するに労働者はバカだと。
 苦:金持ちや二世政治家でもバカはバカ、しかも勉強できる余裕があるのに! そしてイスクラ派主導で1903年にロシア社会民主労働党第二回党大会が開かれ、同党は一旦は再建されました。
 微:ああ、民主党臭さが漂い始めた・・・
 苦:ですが逆にボリシェヴィキ(多数派)とメンシェヴィキ(少数派)に分裂します。「イスクラ」編集局の6名のうち、レーニン以外の5名はメンシェヴィキへ移ったため、レーニンはボリシェヴィキの突出した指導者となります。
 微:戦隊チーム組むには一人多いもんな。レーニン、友達がいなかったんだなあ、かわいそうに。
 苦:無視ね。1914年に始まった第一次世界大戦については、レーニンはこれを帝国主義戦争と規定し、交戦国のいずれも支持すべきでないと主張しました。第二インターナショナルに参加していた各国の社会主義政党とは逆に、革命を容易にするために自国政府の敗北を推進しようとしたわけです。
 微:マルクスが恐慌による内部崩壊説=マイケル・ジャクソン、レーニンが共倒れ説=連鎖倒産と。
 苦:余計な置き換えはいいよ!! 「帝国主義戦争を内乱へ転化せよ」です。そして1916年の『帝国主義論』で、資本主義は独占段階へ進んだこと、それが列強諸国による植民地の奪い合い激化の原因であることを指摘し、その上で帝国主義を「資本主義の最高発展段階」と歴史的に位置づけました。
 微:お前、いつ北朝鮮の金日成大学に留学したんだ? 社会主義用語ペラペラじゃねえか。
 苦:1917年2月にロシアで二月革命が勃発すると、レーニンとトロツキーら古参ボリシェヴィキはドイツ政府が用意した封印列車でペトログラードに戻って『四月テーゼ』を公表し、「すべての権力をソヴィエトへ」と訴えます。ですが敵の用意した列車で帰還したため、スパイ説が流れます。
 微:居酒屋タクシーで帰ってきたら、どうリアクションしたのかな、ボリシェヴィキは?
 苦:弾圧が強まったため、フィンランドへ逃れますが、8月に右派のコルニーロフ将反乱が起こると臨時政府を支援し、反革命勢力との闘争を通じてボリシェヴィキが労働者・兵士ソヴィエトの支持を急速に伸ばします。レーニンだけが即時武装蜂起を主張し、大多数の慎重派を押し切って十月革命を実現させたのです。
 微:今なら「ロシアの橋下知事」って呼ばれるな。
 苦:民営化やダム建設とはレベルが違います。1917年11月7日、レーニンはペトログラード労働者・兵士代表ソヴィエト軍事革命委員会の名で以 下の声明を発表します。
  「臨時政府は打倒された。国家権力は、ペトログラード労働者・兵士代表ソヴィエトの機関−ペト
   ログラードのプロレタリアートおよび守備隊の先頭に立つ軍事革命委員会−の手に移った」
 微:カッコいいな、日本でも一度こういう声明を聞きたいな。意味不明な答弁拒否に飽きたし。
 苦:翌日、全ロシア労働者・兵士代表ソヴィエト第2回大会において「平和に関する布告」を発表し、大戦の講和方式に無併合・無賠償の講和を提議します。同時に「土地に関する布告」で地主の土地没収を発表しました。臨時政府=人民委員会議が設立され、レーニンは人民委員会議議長に選ばれます。
 微:まだ理想が輝いていた時期だな。もうすぐ両手が血みどろになるけど。
 苦:一方、ソヴィエト政府は12月に秘密警察チェカを創設して反革命勢力に加え、投機・サボタージュを弾圧し始めます。翌年1月19日にはボリシェヴィキ自身が開催を求めていたはずの憲法制定会議を開会直後に武力解散させました。「目的によって手段は正当化される」と開き直って。
 微:オマエ、やばいもんを注射されただろ? それだけしゃべれるなんて。
 苦:人聞きの悪いこと言うな! 『平和に関する布告』と同時にロシア関連の秘密条約も暴露したこともあって、すべての交戦国に講和を拒否されます。
 微:ヘンリー王子とメーガン妃もこれを参考にしたそうです。
 苦:それでもドイツとの講和交渉が1917年12月に始まります。ドイツは広大な領土割譲と多額の賠償金を要求し、交渉決裂後にはロシア国内に侵入を始めました。ソヴィエト政府は国土の西部地域の多くを失って都市労働者に供給する穀物不足に悩み、それが戦時共産主義につながります。
 微:共産党員が農村にライフル持っていって「隠している穀物を出せ!」強盗をやったんだよな。
 苦:最終的に不利な条件で1918年3月にブレスト・リトフスク条約に署名します。レーニンはローザ=ルクセンブルクらが呼応してドイツ革命を起こすまで、生き残ることを優先したわけです。
 微:君は生き残ることができるか、だな。
 苦:それはガンダム! 国内の反革命勢力は十分残っているし、1918年から英米仏日の革命干渉戦争は始まるし、1919年にはクン=ベラのハンガリー=ソヴィエト革命は崩壊するし、ローザ=ルクセンブルクたちの暴力革命=スパルタクス団の蜂起は鎮圧されてからが、本気でやばかったんです。
 微:それで一発逆転を狙うんだな、キリンレモンで。
 苦:コミンテルン! 原型をとどめないボケを入れるな! 1919年に創設したコミンテルンは翌年の第二回大会では「帝国主義打倒は植民地解放から」と、アジアの独立運動と共産主義革命の結合を図ったわけです。1922年にはベラ=ルーシ、ウクライナ、ザカフカースを誘ってソ連を結成します。
 微:単に食糧基地として併合しただけだろ。ザカフカースはバクー油田目的で。
 苦:干渉戦争や内戦により、ボリシェヴィキ政権は非常事態体制=戦時共産主義を強いられます。企業は国有化され、農民からは余剰穀物が徴発されました。内戦終了後、レーニンは新経済政策(ネップ)と呼ばれる新しい政策を打ち出したことになってますが、介入を諦めて放任したんです。
 微:そうか、それで『アナと雪の女王』で"Let It Go!"と歌っているのか。
 苦:幸運なのか不運なのか、ネップで経済が持ち直します。レーニンはこれを労農同盟の再建として解説する一方、ロシアの現状では資本主義も一歩前進だと主張しました。
 微:こう言えばああ言う、ああ言えばこう言う。アレフの上祐の師匠だな。
 苦:激動の生涯を送ったレーニンも1923年3月の三度目の発作からは何もしゃべれない、ほとんど廃人状態に陥り、1924年1月21日に四度目の発作を起こし死去しました。
 微:レーニンの「次はフサフサを指導者にしてくれ」の遺言に基づいて、トロツキーではなくて、スターリンに決まったんだろ?
 苦:逆だろ! スターリンを非難したレーニンの遺言をスターリンが改竄したんだよ。
 微:まあ、「意識不明」の首相との協議で2000年に首相が決まったどこかの国よりもいいよな。
 苦:ロシアのレーニン廟に行けば、今でもホルムアルデヒド溶液を主成分とする『バルサム液』なる防腐剤を浸透させたレーニンの遺体とご対面できます。
 微:レーニンの遺体の隅々までよく効いてるんだ、これが。
 苦:それは「バルサン」だろ!
 微苦:どうも失礼しましたあ。(チャンチャン)

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