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世界史漫才48:ヴィクトリア女王編

 苦:今回はイギリスのヴィクトリア女王(1819.5.24~1901.1.22)です。
 微:オレたちが取り上げるくらいの大物か? 長生きして禁欲的な時代の代名詞なだけだろ?
 苦:なんだよ、その上から目線は! ヴィクトリア女王はイギリスのもっとも輝かしい時代をつくりあげた女王であり、1877年からはインド皇帝も兼任しています。
 微:たまたま居合わせただけだろ。
 苦:また子供達をドイツを中心とした各国に嫁がせ、晩年には「ヨーロッパの祖母」と呼ばれるにいたった人です。下が子女の一覧です。
 微:この子女誕生期はちょうど人口増加が問題となって、北米・南米への大規模移民が行われていた時期だったんだよな。やるな!

①ヴィクトリア・アデレイド・メアリ・ルイーズ(1840~1901、ドイツ皇帝フリードリヒ3世妃)
②エドワード7世(1841~ 1910、イギリス国王) 
③アリス・モード・メアリ(1843~1878年、ヘッセン大公ルートヴィヒ4世妃)
④アルフレッド・アーネスト・アルバート  (1844~1900、ザクセン=コーブルク=ゴータ公、エディンバラ公)
⑤ヘレナ・オーガスタ・ヴィクトリア  (1846~1922、シュレースヴィヒ=ホルシュタイン公子フリードリヒ・クリスティアン・カール夫人)
⑥ルイーズ・キャロライン・アルバータ  (1848~1939、アーガイル公ジョン・ダグラス・サザーランド・キャンベル夫人)
⑦アーサー・ウィリアム・パトリック(1850~1942、コノート公)
⑧レオポルド・ジョージ・アルバート・ダンカン(1853~1884、オールバニ公)
⑨ベアトリス・メアリ・ヴィクトリア・フィオドア  (1857~1944、バッテンベルク公ハインリヒ・モーリッツ妃)

 苦:マリア=テレジア同様、ヴィクトリアの一目惚れと王位継承男子の不在というプレッシャーの両方でしょうね。当時の職員の記録では、ルター派倫理に従い、一緒にベッドに入るのもごく少なかったそうですが。
 微:そこまでチェックが入るとは女王はつらいな。その反省から今のチャールズ王太子は何をやってもフリー・パスになったわけだ。
 苦:しかし女王自身が突然変異で血友病の因子を持っていて、ロシア皇太子アレクセイを始めとする男子が次々と発病し、それがロシア皇室でのラスプーチンの暗躍を生んでロシア革命の遠因となりました。自分ではそのことを「ヨーロッパ王室の悲劇」と書いていますが。
 微:やはり一つのところに頼ると、米でも牛乳でもリスクは大きいわけだ、今も昔も。
 苦:さて、彼女の母ヴィクトリア・フォン・ザクセン=コーブルク=ザールフェルトは後のベルギー国王レオポルド1世の姉でした。レオポルドの妻シャーロットは英国王ジョージ4世の一人娘で、イギリスの王位継承者でしたが、シャーロットは1817年死産の後、産褥で死亡しました。
 微:ジョージ1世って、奥さんの体臭が嫌で結婚式に酔っ払って参列した国王だよな。それでも子孫をもうけるのが君主の務めか。
 苦:ジョージ4世の直系の後継者はいなくなりましたが、彼には再婚の気も、婚姻外で子をもうけようという気もありませんでした。
 微:今、さらっと不倫を認めていなかったか?
 苦:いや、当たり前に行われてましたから。さて、王位継承を諦めて独身生活を謳歌していたジョージ4世の弟たちは、王位継承者となるべき子を作ろうとにわかに結婚を始めました。ヴィクトリアの父ケント公も50歳で結婚しました。
 微:駆け込み婚か!
 苦:こうしてヴィクトリアはジョージ3世の四男ケント公エドワードの一人娘として生まれます。1820年1月23日、ヴィクトリアが生後8ヶ月のとき、父ケント公は亡くなりました。
 微:王位継承の『黒ヒゲ危機一髪』だな。
 苦:母ケント公夫人ヴィクトリアはドイツ語を母語とし、ヴィクトリアは3歳までドイツ語のみを話す生活を送りました。宗教的にもルター派です。
 微:困った時のドイツ語圏だな。ハノーファー選帝侯という緊急事態備蓄のありがたさだな。
 苦:彼女が10歳のとき、伯父である国王ジョージ4世は子供を残さずに死去し、その弟ウィリアム4世が王位を継承します。ですが、ウィリアム4世には子がなかったので、ヴィクトリアは推定王位継承者となりました。
 微:イギリス王室って、アン女王の時もそうだけど、継承の危機にはなぜか候補者が次々と死ぬよな。
 苦:ウィリアム4世の死後、ヴィクトリアは18歳で女王に即位しました。当初は首相ウィリアム・ラムの助言により政治を行いました。
 微:18歳って高校3年生だろ、実写版『女王の教室』だな。
 苦:元も実写だよ!! さて、高校生の年代とくれば恋愛です。ヴィクトリアが母方の従弟に当たるザクセン=コーブルク=ゴータ公子アルバートと初めて会ったのは16歳のときです。血縁関係の他に、2人は同じ主治医にかかっており、そこから交際が深まりました。
 微:うーむ、待合室、いや診察室で何かあったんか? 高校生には気になるところだな。
 苦:お前が知りたいだけだろ! 
 微:二人の出会いをデュシャンは「手術台の上のミシンとコウモリ傘の不思議な出会い」と評しました。
 苦:それは、シュールレアリスムの精神だろ! まあ、相思相愛となりまして、二人は結婚します。ちなみに、ヴィクトリアは自分からアルバートに求婚しました。ヴィクトリアは、金髪に青い瞳をしたハンサムなアルバートに一目惚れをし、かなり積極的だったのですが、それが理由ではありません。
 微:「断ったら、あんたら一族死ぬでえ!」と脅したんだな。
 苦:『極妻』じゃありません。身分上、一貴族が女王に求婚することは許されなかったからです。結婚式は1840年2月10日に行われました。ハノーヴァー朝の国王は代々ハノーファー選帝侯領の君主を兼ねていましたが、サリカ法典との関係でヴィクトリアはハノーファー王位を継承しませんでした。
 微:当時の大衆紙にさっそく結婚生活をおちょくられてたよな、王室所領の地名を使って。
 苦:はい、子沢山のこともおちょくられています。日本とは違って、イギリスは遠慮しません。さて、二人のロイヤル・ファミリーとしての務めですが、アルバートは政治に関ろうとしたものの、結局は王室財政を担当することになります。彼の経営改革で王室財政は好転しました。かわいそうにアルバートは「けちな男」や「金に細かい男」などと悪口を言われてしまいます。
 微:男はそういう批判に弱いんだが、アルバートくん、偉いね。
 苦:出産と育児に追われる女王に代わり公式行事などもこなし、実質上は君主の役割だったのですが、アルバートはイギリスでの社会的地位は、結婚17年後にプリンス・コンソートの地位が正式に与えられるまで何一つ持っていませんでした。
 微:ビル・クリントンでも元大統領なのにな。最も有名なハウス・ハズバンドと呼ばせてもらおう。
 苦:ヴィクトリアは寵愛する保守党の首相ディズレーリ、そして、良き夫であるアルバートの助言によってイギリス帝国を繁栄させていきました。実際のところ、ディズレーリはアルバートに事前に相談した後でヴィクトリアに報告することも多かったようです。
 微:やはりマリア=テレジアの域には行けないな、出産の合間に政治を行うなんて。
 苦:ヴィクトリアの趣味は乗馬と日記でした。乗馬好きが高じて馬産も手がけ、1849年にはハンプトンコート王室牧場を再開させています。競走馬は持たないという夫との約束で生産した馬はすべて売却しましたが、英牝馬三冠を制した名馬ラフレッシュの生産者としても彼女は名を残しています。
 微:産んで育てるのは得意そうだな。
 苦:結婚21年目の1861年、ヴィクトリアに悲劇が襲います。夫アルバートが腸チフスで42歳で死去します。女王は悲嘆し、常に喪服を着用して公の場に出ることは殆どなくなりました。身長150cm未満の女王だったんですが、さらに小さくなりました。
 微:あの「カラーでも白黒」のヴィクトリア女王の写真だな。パンダだったら可愛いけど。
 苦:ですが、服喪時代に従僕のジョン・ブラウンと恋仲にあると噂され、貴族のサロンでは「ブラウン夫人」と呼ばれました。ヴィクトリアは官能的な刺激に弱く、落馬した時に抱きかかえてくれたブラウンの若さとたくましさにメロメロになったようです。2人の愛は1997年に映画 『Queen Victoria 至上の恋』(原題:Mrs. Brown)に描かれています。
 微:ドキンちゃんとショクパンマンさまか?
 苦:さて、そのヴィクトリアが子どもの読み聴かせでお気に入りだったのが1865年に出版されたルイス・キャロルの『不思議の国のアリス』でした。この人も色々といわくある人ですが。
 微:数学者、論理学者、言語学者、作家、少女ヌード写真家と忙しいやつだよな。
 苦:本名はチャールズ・ラトウィッジ・ドジソン(Dodgson)で、ペンネームのルイス・キャロルは、「Lewis」は「Lutwidge(ラトウィッジ)」のラテン語名の「Ludovicus」を、「Carroll」は「Charles(チャールズ)」のラテン語名の「Carolus」を英語化したものです。なお、「Dodgson」の実際の発音は「ドドソン」に近く、ドードー鳥は彼自身がモデルです。嘘ばかりつくチェシャ猫も出身州から取っています。アリスの名前は写真モデルを務めてくれたアリス・リデルに由来します。『アリス』自体、彼女のためにキャロルが創作し、1862年に語った話を文章化したものですから、彼女に捧げられた本です。
 微:やはり欲望という名のガソリンは最高の加油だな。
 苦:ヴィクトリア女王が他の著作も読みたいと依頼したところ、数学書が送られてきて面食らったという逸話が残っています。1867年出版の『行列式初歩』(”An Elementary Treatise on Determinants”)がそれで、数学関係ではドジソンの最初の著書です。
 微:永井豪でいうと『あばしり一家』の次が『デビルマン』という展開だな。
 苦:キミは一生『オモライくん』だけどな。(チャンチャン)

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