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微苦笑問題の哲学漫才25:ミシェル=フーコー編

 微苦:ども、微苦笑問題です。
 微:いよいよ構造主義に入りますが、その第1回はフランスのミシェル・フーコー(1926~1984年)です。
 苦:ああ、地球が自転していることを証明するために巨大な振り子を作ったオッサンだな。
 微:それは「フーコーの振り子」で、自然科学者のレオン=フーコー(1819~68年)だろ!! 
 苦:まあ、なんて風光明媚なところなの、アトス山って。
 微:無理な駄洒落はいいよ!! せめてエーコの『フーコーの振り子』に絡ませろよな。それに今回はエーコじゃなくて、フーコーです!
 苦:ああ、思い出した。レヴィ=ストロースより後に生まれたのに先に死んだ奴だな。
 微:構造主義とも、レヴィ=ストロース以後なのでポスト構造主義とも位置づけられますが、その「知と権力」「権力の発生・作用」を起源に遡って追求する系譜学的手法は歴史学的であり、ニーチェ的です。
 苦:タームからしてニーチェの影響を感じるな、「力への意志」「道徳の系譜学」「春秋の彼岸」。
 微:最後のは日本の先祖供養!! さて、フーコーは1926年にポワティエ市で外科医ポール・フーコーと母アンヌの間に生まれます。代々、フーコー家では男子はポールと命名され、医者となる定めでした。
 苦:要するに歌舞伎役者の家に生まれたようなもんだな。
 微:ですが母の主張でポールとミシェルが連結され、ポール=ミシェル・フーコーとなりました。
 苦:つまり高橋・幸八郎・八郎右衛門みたいなもんだな。
 微:全然違います。父親は、息子が1943年にバカロレア(大学入学資格試験)に合格すると、医者を継ぐことを強要しましたが、フーコー本人は文学を希望しており、結局は母の強い説得に父が折れました。
 苦:父と母の間で右往左往する、まさに「フーコーの振り子」だな。
 微:これが言いたくて出だしでボケてたんだな、コイツ!! 
 苦:バレたか。しかし、名家出身というのもつらいな。日本みたいにコネ就職や無能政治家という逃げ道なさそうだし。
 微:しかし、父との間にできた亀裂は終生、修復されませんでした。
 苦:甲骨文字で亀甲を焼いて占ったら「凶」だったそうです。
 微:その亀裂じゃないよ!! またフーコーは1984年に後天性免疫不全症候群、つまりエイズで死ぬんですが、フレディ=マーキュリーあるいはレヴィ=ストロースと同じく同性愛者でした。
 苦:Queenの曲って、主語と目的語がどっちも男だとわかった時の衝撃は忘れられないな。
 微:さてフーコーは1年の浪人を経て1946年に高等師範学校に合格します。ですが父との決裂、同性愛者の苦しさと、エリートの息苦しさから精神は不安定でした。
 苦:地球の自転軸が狂っていた時期だったそうです。
 微:振り子から離れろ!! フーコーは1948年に最初の自殺未遂事件を起こし、1950年の大学教員資格試験に失敗した直後にも再び自殺未遂事件を起こしました。
 苦:中森明菜と違って狂言ではないところが本物の証だな。
 微:比較対象の格が違い過ぎだよ!! 失意と精神的混乱にあったフーコーを助けたのが、あのルイ・アルチュセールです。彼は医務室をフーコーの個室として手配するまでしてフーコーを支えました。
 苦:自宅を事務所として登録し、自分に対して家賃名目で政治資金を提供する政治家のようなもんだな。
 微:絆創膏さんとは違ってきちんと使用してますし、学問的成果は世界水準です。アルチュセールは「精神分析によってではなく、仕事によって病気を乗り越えるように」とアドヴァイスしたそうです。
 苦:自宅警備をやめて、太陽の下で肉体労働しろってか?
 微:それはネット普及後の日本社会だろ!! そうして危機を乗り越えたフーコーは1951年に大学教員資格試験に合格し、リール大学助手として採用されます。
 苦:まだ、自分の研究だけやってて良かった頃の助手だな。まあ、教授次第だけど。
 微:この時、フランス語を教えるために行ったスウェーデンのウプサラ大学の附属図書館には「ヴァレール文庫」と呼ばれる近代医学史関係の重要書類を網羅したコレクションがありました。
 苦:『狂気の歴史』の序でも言及してたな。
 微:そこしか読んでないでしょ。それとの出会いこそがフーコーの運命を変えた一大転機でした。
 苦:大学側も、隠していたその存在が、いつかバレることを予想していたそうです。
 微:オヤジギャグはいいよ!! 彼はここに通いつめ、1955年にワルシャワで博士論文をまとめました。それこそが1961年に出版された『狂気の歴史』です。
 苦:長くアメリカのヒットチャートに残ったんだよな。
 微:それはピンク・フロイドの『狂気』です。この中でフーコーは、狂人の社会における扱われ方・語られ方の変化を、キリスト教的言説から医学的言説への転換だと指摘しました。
 苦:学問的権威、専門知の時代に入ったと。日本では信頼されていないが。
 微:のちの『言葉と物』で展開される概念、"ディスクール"や"エピステーメー"に繋がる手法です。エピステーメーは「メタ知識」、まあ、クーンのパラダイムみたいなもんですので端折りますね。
 苦:ここが「一発屋」クーンとの違いだな。
 微:「ディスクール」とはフランス語の普通名詞ですが、構造主義業界では「制度や権力と結びつき、現実を反映するとともに現実を創造する言語表現」「制度的権力のネットワーク」を意味します。
 苦:それはそうと、いつまで岩波書店はデカルトの『方法序説』という誤訳を放置するんだろうな。
 微:あれも本当は「ディスクール」ですよね。話を戻すと、逆にある事象についての「特定の部分を排除し、意識化させない『語られ方』」となります。
 苦:ああ、井上章一の『美人論』の手法だな。美しさそのものを扱うことはできないが、美が「どう語られてきたか」はトレースでき、われわれが「常識として疑いを抱いていない特殊な価値観」の起源に辿りつくことはできるわな。
 微:しかもフーコーの手法は、ある出来事や事象は「どのように語られてきたか?」という「図」と、「どのように語られてこなかったか?」という「地」の両方が浮かび上がるものでした。
 苦:「罪の証明」でありながら神の罰が存在することで「神の存在」を語るやつだな。
 微:『狂気の歴史』は、狂人が神や悪魔と人間社会を媒介し、その存在を証明する「社会にあって当然・必要とされる存在」から、「医学的治療の対象」「正常と明確に区分できる存在」として社会から隔離されていく歴史を系譜学的に辿った作品です。
 苦:オレの育った田舎では、どの集落にもどの家にも「ワケあり」な人がいることが当然だったな。子どもは残酷だからからかっていたけど、村のメンバーとしては認知されていたな。
 微:17世紀に入ると、貧者・窮民と同じく狂人はその反社会性ゆえに、『アマデウス』の冒頭と最後のサリエリとその周囲の人たち同様に司法官によって救貧院などへの「囲い込み」の対象になります。
 苦:「よい子は見てはいけない」ものほど魅力的なんだが。拝観料でも集めたんかな。
 微:戻します。逆に、狂人でも芸能の担い手ならば一般社会で生きていけたのです。ですが18世紀後半から狂人は医師の管理下に入って隔離されたのです。つまり正常と異常の境界線は明確だと。
 苦:オレはその日によって、どっちが多いか違うし、異常な芸術家もいるぞ。
 微:医学と権力が「人道」の名の下に結託したのです。近代の刑罰においても「犯罪者の精神鑑定」という形で専門家の科学的知見が重要な役割を果たしています。
 苦:日本でも、刑罰を避けるために弁護士が精神鑑定を求めたり、犯行時の心神耗弱を主張するもんな。
 微:精神鑑定などの人間諸科学は知識によって刑罰における権力を根拠付け、同時に相補的な関係を持ちながら作用します。これがフーコー独自の権力概念「権力・知(Pouvoir-savoir)」です。
 苦:「知は力なり」を乱用するな、とフランシス・ベーコンがイタコを通して訴えました。
 微:どこのイタコだよ!! フランス革命を分水嶺に知と権力は結託し、権力は理性的な代理人たる学術知を介して徹底的に行使されていくのです。
 苦:「すべてを見透す目」として寓意化され、今もアメリカ・ドル紙幣に印刷されている、アレだな。
 微:つまり、「二重革命」以前、つまり近代社会以前なら、狂人は「あちらの世界から来たマレビト」として歓待され、存在を認知されていたんです。
 苦:トランプのジョーカー、王の側に居る愚者ですね。
 微:それが近代社会に入り、国家の一員と認知された瞬間から、狂人は「標準から外れた存在」と認識され、「見えない存在」になっていったことをフーコーは突き止めたのです。治療という名の隔離です。
 苦:しかも日本の病院というか隔離施設って、林や尾根を挟んで絶対に街の中心部から見えない立地だし。津久井なんとか園なんか典型だよ。
 微:こうして狂人も含め、ある種の事象・事件・問題は選択的に抑圧・黙秘・隠蔽されてきました。厳として存在するのに、ないものとしてすべての話題も言葉も編成されていく。これがエピステーメーです。
 苦:赤木ファイルもないものとして財務省と自民党は語っていな。
 微:「きょうじん」とそのまま入力しても決して変換されない「狂人」などはまさに典型です。
 苦:魯迅が怒って墓の中から出てきたそうです。
 微:ゾンビかよ!! そしてそういう人たちの隔離・監視・治療装置こそが監獄なのです。1966年の『言葉と物』で近代人文諸科学の知の編成を批判的に検討しました。
 苦:シニフィエとシニフィアンとの関係の返歌というか恣意性ですか?
 微:それはソシュールですね。この作業を経て1975年に『監獄の誕生』が発表されたのもその意味で必然的なことでした。
 苦:プレスリーが歌ったんだよな。
 微:「監獄ロック」は無関係です。その副題は「監視と処罰」です。
 苦:日本の入国管理局が買い占めて一般の人の見に触れないようにしたそうです。
 微:誰かの暴露本かよ!! 1970年からコレージュ・ド・フランス教授となったフーコーは、講義で「統治性」「生政治」「生権力」などの試行的な概念を次々と出していきます。
 苦:やっぱりビールも権力も「生」がいいな。
 微:「なま」ではなく「せい」です。生権力は、臣民を殺すことをいとも簡単に命じる剥き出しの暴力である従来の「主権権力」と対比される概念です。
 苦:つまり「こまわりくん」だな、"死刑!"って。
 微:そんな古いギャグ、高校生は知らねえよ!! 生権力は監獄や学校において行使される「規律訓練型権力」のことです。しかもそれは受刑者や生徒という被支配者側が自ら進んで受け入れ、それが影響する範囲を拡大していくソフトな権力です。
 苦:日本も、警察に協力を求めながら住民が進んで監視カメラを街頭に設置する事態に至ったしな。
 微:それの権力側からの理想形態こそが、かつてホッブズが構想したパノプティコンこと一望監視監獄で、フーコーもこれを論じています。
 苦:監獄全体が一望できるパノプティコンの眺めは、さぞや「風光」明媚だろうな。
 微:ベタなシャレはいらねえよ!! フーコーはそれを転用して、社会システムとして管理、統制された環境の比喩として用いたのです。
 苦:いや、今は自発的に「映え」のために露出して自慢するレベルだぞ。
 微:国家が、人間の精神を精神として支配・統制しようとすれば、双方が命を賭けた激しい争いが生じます。しかし、19世紀に国家は身体を管理・統制すれば精神も統制できることを発見したのです。
 苦:精神と身体は文理できず、つながっているというか一体だもんな。眠いから寝るのか、寝ているから眠いのか。
 微:それが学校教育、特に歩行や座り方を含めた日本の体育です。身体を統制すれば精神を統制できることを身を以て実感したのが徴兵制の山県有朋、その教育的効果に着目して兵式体操を体育に導入したのが森有礼文相だったことがすべてを物語っています。
 苦:ということは、仕事も学校も拒否する自宅警備員はフーコー的には勝者なわけだな。
 微:自ら支配されることを望む=権力を内面化する装置を近代国家は生み出し、従順な国民を創造していったのです。
 苦:従順どころか個人情報を自発的に差し出させるプラットフォームだらけだもんな。
 微:本当は、もう一つフーコーが着目した国王暗殺を企てた人間に対する大逆罪があるのですが、紙数の関係で割愛します。気をつけなければならないのは、フーコーの語る「権力」を国家権力とか、それを支えるイデオロギー装置などの実体めいたものとして理解してはいけないことです。
 苦:ソ連は共産党と秘密警察だけではないと。
 微:彼の語る「権力」とはあらゆる水準の人間的活動を分類し、命名し、標準化し、公共の文化財として「知のカタログ」に登録しようとする「ストック趨向性」のことです。
 苦:・・・要するにディープ・ヲタがその分野のトリヴィアルな知識でも蓄積し、オタク界に君臨しようとするようなもんか?
 微:まあそうですかね。ですからいくら権力や知と権力の結託を批判しようとしても、その批判を実定的に列挙し、カタログ化し、一覧的に位置づける方法を採用すれば、既にその営み自体が権力化しているということです。
 苦:久しぶりに???
 微:言い方を換えれば、常識や制度に「疑いのまなざし」を向ける自分の「疑い」そのものが既に「制度的知」として機能し、現に存在する制度的知に回収されていく、ということです。それに気づかない欧米の学者が多いこともフーコーをいらだたせたでしょうね。
 苦:ま、要するにフーコーは「バカが嫌いだ」、とまとめればいいだな。
 微:正確には知の権力性にも、教師が学生に持つ権力性にも気づかないバカ教師が嫌いだけどね。

作者の補足と言い訳
 まず言いたいことは、新潮社は冊数増えてもいいから、活字を大きくしてフーコーの著作の翻訳を出してほしいことです。二段組で行間の狭い小さな活字は読みづらいです。若い頃から。
 暴力を独占し、外的に国民の行動(思想も含めて)を規制する国家権力には「上からの」「ハード」なイメージがありますが、それとは逆方向であり、かつ補完関係にある「下からの権力を求める心性」は近年の「増殖する監視カメラ」が如実に示していますし、それに安心感を感じてしまう自分も情けないというか、「体感治安の悪化」は大きな問題です。しかし何よりも、権力の願望を内面化する、進んで支配されようとする心性の恐怖を指摘した点でフーコーは偉大です。
 また正常/異常を分ける境界の恣意的性格の指摘も、彼の性的嗜好や精神的危機を思うと実存的な問題への解答でもあります。そしてそれは今日の日本では犯罪への重罰化という傾向を帯びながら、多くの犯罪者を免責するために悪用された刑法第39条改正運動につながるでしょう。
 それ異常に怖いのは宮台とかが言い出した「アークテクチャ」、すなわち「規制されていることを実
感できない・それに不快感を感じないように設計された上からの規制」です。具体的にはネットの「アクセス規制」とか、快適さと引き替えに自分の行動・購買行動データを自発的に提供するPITAPAなどです。ほとんどの人はそれに気づかないため、悪魔の誘惑のように魅入られていくでしょう(筆者もその一人です、情けないですが)。この文脈において自由は「~への自由」から再び「~からの自由」へと戻り、抵抗と暴力と結びつくようになるのでしょうか。

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