世界史漫才50:リンカーン編
苦:今回は第16代アメリカ合衆国大統領リンカーン(1809~1865年)です。その業績から偉大な解放者、奴隷解放の父と呼ばれました。またエイブ(Abe)の愛称で呼ばれました。
微:それでティム・バートンの『猿の惑星(The Planet of Ape)』のオチがサルのリンカーン(The Planet of Abe)だったわけだ。しかし、英語表記は同じでも、ここにも日米格差が厳然とあるな。
苦:彼は特に屈折してますから。数々の伝説に彩られたリンカーンですが、やはり丸太小屋伝説ですかね。
微:あれだな、無人島に行って流木でちまちま家を作ったんだろ?
苦:それはよゐこの有野だよ! リンカーンは1809年にケンタッキー州の農場で生まれますが、両親は典型的な無学な農民で、貧困のために土地を求めて移動を繰り返しました。
微:父ちゃんがダーツ投げて、刺さった所に引っ越したんだよな。
苦:バラエティ番組じゃねえよ! 1831年、22歳のリンカーンは独立してイリノイ州ニュー・セーレムへ移り、そことニューオーリンズを往復する平底船運搬業務に就きました。
微:もしかして積み荷が、ミズーリ協定の境界線より北の州に逃げた黒人奴隷だったりしてな。
苦:それはあまりにブラックすぎます。その後彼は幾つかの職業を転々とした後、法律を学び、1837年にイリノイ州で弁護士資格を取りました。
微:アメリカの弁護士資格も試験も州単位で、日本の司法試験よりかなり楽なんだろ。題名忘れたけど、ディカプリオが結婚を許してもらうために、にわかじこみの勉強で弁護士試験に合格するというのがあったな。それが違和感なく受け止められるのがアメリカの弁護士事情。
苦:同年にリンカーンはスプリングフィールドに転居して共同で律事務所を開き、イリノイ州で評判の弁護士の一人となりました。彼は1834年からイリノイ州議会議員に連続四期選出されます。1837年には州議会で奴隷制に抗議し、反奴隷制論者であると有権者から認識されました。
微:「奴隷はダメだが、メイドは許す」と叫んで、イリノイのオタクの心をがっちりと掴んだそうです。
苦:いつの話だよ! 1846年にリンカーンはホイッグ党員として連邦下院議員に選出されますが、2年の任期が終了するとスプリングフィールドに戻ります。
微:大阪市と大阪府みたいに、州議会の方が利害関係者と懇親のリアルな旨味があったんだな。
苦:松井市長かよ! 弁護士活動に専念するためで、はしけ船や鉄道といった運輸関係の訴訟で依頼人を勝訴させつづけました。特に1851年のアルトン・アンド・サンガモン鉄道の顧問弁護士として訴訟に勝利し、弁護士としての名声を確立しました。
微:定員割れを起こしている日本のロースクールが聞いたら、卒倒しそうだな。
苦:そして1854年のカンザス・ネブラスカ法がリンカーンの人生を変えます。同法に対して彼が行った反対演説が自由土地主義者たちの注目を集めました。1858年に奴隷制と地主利害を代表する民主党のダグラス候補への対立候補としてイリノイ州上院議員選挙を戦います。
微:なんか、この時点でオバマって、完全にリンカーンをパクっているよな。
苦:選挙には負けましたが、ダグラスとの全国討論会と選挙演説で全国的な注目を集め、結果として1860年の大統領選挙の共和党候補に指名されます。
微:お店では人気NNo.1だったそうです。ホワイトハウスでも同伴出勤してたくらい。
苦:大統領一家はそこに住むんだよ! そして選挙に臨む共和党の綱領には、奴隷制拡張の拒否、保護関税の導入、そして西部の農地を開拓者に無償で提供する法の制定が明記されました。
微:ジャクソンが生きていたら私兵を集めて衝撃しただろうな。
苦:当然ながら、この公約はどれも南部では不評でしたが、土地の開拓者への無償提供、いわゆる「取った者勝ち」のランドラッシュを決めた1862年のホームステッド法に結実します。
微:プランターになって黒人奴隷のオーナーになって、ジョージ王朝風の生活をして貴族気分に浸っていたスコットランド系やアイルランド系の白人からしたら当たり前だがな。ハル=ノートと同じで、意訳すると「もうきみとはやってられんわ」だな。
苦:そしてこれは共和党が初めて挑戦する大統領選挙でした。選挙戦中に11歳の少女グレース・ベデルに「ひげを生やしたほうが良い」とアドバイスされ、ひげを生やしたエピソードは有名です。
微:ヒラリー・クリントン候補もそうアドバイスされたらしいな、「毎朝剃るのも大変でしょう」って。
苦:無視無視。その1860年の大統領選挙ですが、合衆国はもめていました。ドレッド・スコット判決、カンザス・ネブラスカ法といった、一連の州の権限と奴隷制を巡る問題によって、政党間では党派抗争が激化し、国全体が四分五裂の状態に陥っていたのです。とりわけ、州武器庫を襲撃し、その武器と事件の政治的衝撃とで黒人奴隷を解放しようとした、ジョン・ブラウンによるハーパーズ・フェリー襲撃事件は全米に衝撃を与えました。
微:麻原彰晃がジョン・ブラウンにアドバイスしたらしいな、「サリンを使え」と。
苦:しねえよ! しかもホイッグ党、民主党に共和党も加わり、さらに強硬な奴隷制維持の南部民主党も参加したため、1860年の大統領選挙は事実上は4党での争いだったのです。
微:長州ら維新軍団も参加していた1983年頃の新日本プロレスだな、台本はないけど。
苦:南部民主党を補足します。1860年の大統領選挙候補者に指名されたダグラスは、奴隷制を州民投票で決める方針でした。強硬な奴隷制存続論者110名が南部民主党を結成し、6月28日にヴァージニア州リッチモンドで集会を行い、奴隷制擁護派のブレッキンリッジを大統領候補に指名しました。
微:なんかヤケクソの展開だな。こういう展開になると、「とんびに油あげ」で凄いことになるよな。
苦:11月6日の一般投票ではリンカーンは南部の9つの州では候補者名簿にすら載っていませんでした。笑ってしまうほど露骨な選妨害ですが、どう選挙を行い、誰の投票権を奪うかは州知事の権限であることは2000年そして2020年の大統領選挙でもよくわかったはずです。
微:この時代にツイッターなんかがあったら、えらいことだな。
苦:まあ、南部では「あんた、誰?」ですからね。リンカーンは一般投票では過半数に達しませんでしたが、州単位での「選挙人の勝者総取り」ルールで303人の選挙人のうち合計180人を獲得しました。一方、ブレッキンリッジはミズーリ州を除いた他の奴隷州全てを制しました。
微:子ブッシュが自信満々だったのは共和党の大先輩も得票率で負けていたからだったんだな。
苦:そんなことすらブッシュが知っている訳ありません。リンカーン当選直後から、南部諸州は連邦脱退を表明し、国内の緊張は高まりました。リンカーンはメリーランド州ボルティモアで暗殺未遂事件に遭遇し、1861年2月23日にワシントンD.C.に変装した上で秘密裏に到着しました。
微:映画『ピンクフラミンゴ』のディヴァインの変装までしたそうです。ボルティモアに敬意を表して。
苦:そんなカルト下品映画、高校生は誰も知らないよ! 1861年3月4日の就任式で、リンカーンは「この国及び国家機関は、国民の下にある。国民が存在する政府に飽きているならば、彼らにはそれを修正する憲法上の権利、あるいはそれを分割または倒す革命的な権利を行使することができる」と語りましたが、奴隷解放には言及しませんでした。
微:これって、挑発じゃねえのか、大阪のヤンキーが弱っちいやつをからかう時の「やれるんだったら、やってみんかい、ほーれ」って。で、南部のジェファソン=デヴィスが「ぽちっと」押したわけだ。
苦:ボヤッキーではありませんし、おしおきもありません。リンカーンの大統領就任に我慢できない南部諸州は最初のサウスカロライナ州から次々と連邦を離脱します。連邦の分裂と分断を防ぐため、リンカーンは内戦を決断します。南北戦争、英語では固有名詞の内戦”the Civil War”です。
微:男女関係に置き換えると、『別れることは認めん!』と言って暴力を揮うDV夫になってしまうな、リンカーンって。
苦:しなくてけっこうです。1862年に選挙公約として掲げていた政策をホームステッド法として実現しますが、これと彼の中道路線が西部諸州の北部支持を取りつけました。南部11州は人的・物的資源でも劣っていましたが、プランターたちは気合い十分でした。
微:イギリスで奴隷廃止運動が盛り上がっていたことを忘れていたんだな。
苦:運命の1863年、奴隷解放宣言とゲティスバーグの戦いです。マルクスが感激して祝電を送ったほど、リンカーンは黒人奴隷を解放したことで賞賛されますが、実際には連邦軍=北部によって制圧された南部連合支配地域の奴隷が解放されただけであって、北部領域では奴隷の解放は行われませんでした。
微:1000円で走り放題のはずの高速道路か! 北部の奴隷にはETCが付いていなかったのか?
苦:もう危険な振りはしないでね。ゲティスバーグの戦いは、不敗神話を誇る南部のリー将軍が敗れたという心理的効果の方が大きく、実際の戦闘では北部が圧倒的に勝利したわけではありませんでした。
微:まあ、南部はリンチが日常化していたからケンカや武器の扱いは得意そうだな。
苦:一般にはグラントが有能と言われていますが、リー将軍に言わせると、最高の指揮官はマクレラン将軍だそうです。グラント将軍は後に大統領に当選しますが、史上最低の大統領と言われています。
微:あのブッシュを押さえてか。それはすごい。阪神で言うと、藤田平監督みたいなもんか。いや、林銑十郎か、それとも『あなたとは違うんです』のおっさんとかか?
苦:自国の元首相くらい覚えていろ! さて、1863年11月19日の、民主主義の本質を語ったものとして世界的に知られるゲティスバーグ演説です。激戦地となったゲティスバーグで戦没者を祀った国立墓地の開所式での、272語足らずの短い挨拶で、降壇しても、誰も演説が終わったことに気づかなかったという意味でも伝説の演説です。
微:「こんなに短くては入試に使えない」って大学関係者が怒ったらしいな。
苦:その有名な一節"government of the people, by the people, for the people"は「人民の、人民による、人民のための政治」と訳されますが、正しくは「人民を統治する、人民による、人民のための政府」、意訳すれば、「人民を統治する政府は、人民によって構成され、その権力は人民のために行使されなければならない」です。しかもこれはイギリスのウィクリフが出版した旧約聖書の序文からのパクリです。
微:まあ、いいじゃないの。何を作るかではなく、どう使うかだよ。
苦:そして彼が神話化していく暗殺劇です。1865年4月14日フォード劇場で”Our American Cousin”という現代劇を妻たちと観劇中、北軍のメリーランド州出身の俳優ジョン・ウィルクス・ブースに1.2mの至近距離から小さな2連式の拳銃で後頭部を狙撃されました。
微:実は猿狩り用の銃だったりしてな。
苦:ティム=バートンでもそこまでしねえだろ!(ペシッ!)(チャンチャン)
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