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私は今は、そんなボランティアはできない。



 勤務後に大森駅まできた。そんなに遠くはないけれど、電車に乗って。その日、私はいつになく電車まで使った寄り道をした。というのも、勤務先の駅にはないタリーズにどうしても行きたかったからだ。カフェなどありふれている。がしかし、その日私はタリーズがよかったのだ。



 何を飲みたかったとかではない。ただ、無性にタリーズコーヒーに行きたくて、今いる場所から1番近いタリーズを探したら大森駅だったのだ。



 大森駅には初めて降り立った。家からもさほど遠いというほど遠くはないけれど近いわけでもなく、わざわざ乗り換えていくような用事も今までになかったからだ。



  大森駅とはこんなところなのか、と降りた私は少し高揚した。通勤経路でもないわけだから寄り道にしてもだいぶズレた寄り道をしている少しの背徳感と、なんの理由もないけれど何が飲みたいとかではないけれどタリーズに行きたいというズレた意図で、高揚していた私はいつもだったらわざわざ電車を使ってまで寄り道などしないけれど今日はした。



 タリーズに着く前にアプリのインビテーションが貯まっているから4杯までならドリンクが50%オフになることを思い出す。実は今まで、買ったら貯まる、だけで使ったことがないものだからこのインビテーションは使い方を知らない。お店に入って素直に店員さんに聞くと、ドリンク限定で使えるチケットで、ドリンクなら別の種類で4杯でも50%になるらしい。残念ながら今は、母も友人も一緒じゃないからわけ合える人がいないけれど、ここまできた記念?もかねて、2杯注文することにした。ほら、2杯頼めば、noteを書く時間も生まれるし。


 アイリッシュラテのライトホットと
ハリーポッターとコラボしているらしいトリークルタルトラテなるもののライトホットを注文する。



 レジ横にはハリーポッター好きのために、
わざわざそれぞれの寮の柄を背景に写真を撮る場所までつくられていた。





  すぐ近くの席を見つけて座る。ドリンクは2つだけど私はひとり。わざわざ電車を使ってまで寄り道をした背徳感と、一人なのにドリンクを2杯頼んだ背徳感で(いや、別に人の道を外れたわけじゃないんだから背徳感でもないよね。だよね?)




  けれど、水分を摂らずに仕事をしていたからかアイリッシュラテをすぐに飲み切ってしまって甘いドリンクであまり良くないし意味もないけれど2杯頼んでおいてよかったかも、とすぐに思った。アイリッシュラテは甘いけれどすっきりしていてキャラメルといおうか蜂蜜と言おうか
濃いエスプレッソに香ばしいカラメルの香りで甘ったるいけれどすっきりしていた。




  想像の3倍くらいの速さで飲みきってしまってハリーポッターの飲み物と一緒にnoteを書き始めた。右手にスマホ、左手にタルトラテ。アイリッシュラテよりもやや酸味を感じる。調べてみたらレモンピールとスパイスが入っているらしい。甘いけれど、少しだけ口の中は酸味が強くなって、でもやっぱりドリンク2杯は飲み過ぎだなと途中から思いはじめる。





 今日は、全然仕事が捗らなかった。自分の仕事場の範囲を勤務中全然使えなかった先日よりはずっとずっとマシに仕事ができたけれど、優先して整理しなくてはならないものが新たに増えて、なんだか頭の中も情報に溢れていた。



 今の仕事をはじめてから1.4ヶ月くらい経った。仕事内容は全然難しくないし、仕事は上司である友人に勤務終わりにメモを残す以外はほとんどひとりで行なっているし、単調な作業であるから難しくもない。だから通勤することに慣れて、通うということに慣れ、職場での出勤から退勤までに慣れ、仕事の内容に慣れてきてやっと今に至る感じはある。けれど、最近、この先を考えるようになった。今の職場の最初の契約は5ヶ月間。



①この5ヶ月間の間に別の仕事をはじめるか

②別の仕事をはじめるとしたら今の仕事をメインにするのか別の仕事をメインにするのか

③転職活動はいつ再開できるのか

④3月末以降について、もし仮に契約更新があった場合したいのかしたくないのか、契約で更新されなかった場合どうするのか


 仕事をはじめた直後から頭の中になんとなくあってただ、税金処理が面倒だからという理由だけで仕事を重ねるとしても2022年になってからというのは思っていたから今も別のアルバイトもやっていないのだけれど、正直1日3時間、週2回ではまかなえるはずもなく、当座は赤字続きだ。





 実は、先程、大井町駅前を通った時、
国連WFPの募金支援活動の人に呼び止められて立ち止まってしまった。地元でもよく見るし、以前は活動中のその方々と長話をしてしまったこともあるけれど、今回は話をしようなど思ってもいなかったのに、呼び止められた。


「月1000円だけでもいいんです」


「月にちょっとカフェ代をやめれば子どもが救えるんです」

という。



 せっかくだからここにWFPについて簡単に記載しておく。私は活動に関わったことがあるわけではないけれどWFPのことは少し知っているし、世界の飢餓問題も幼稚園児、低学年だった頃からの関心事だからど素人の中ではまだ知っている方だと思う。


 WFP(World Food Programme)というのは国連の食料支援機関のことである。


  日本では、飢餓で亡くなる人、汚水しか飲んだことがない人は極少数派であるが、世界的に見れば日本のように水道を捻ればごくごく飲めるきれいな蒸留水が出てきて、大多数の人が学校に通うことができ、小学校から中学校までの義務教育は国で保障されていて、多くの人は今日食べるもの飲むものに困っていないという国はむしろめずらしく、世界には飢餓に苦しむ人は多くいる。



飢餓
 身長に対して適切な体重を保つことができず軽い運動に必要な栄養すら摂れていない状態が続くこと



  2015年に各国共通目標として定められたSDGs(持続可能な開発目標)でも2030年までに達成すべき17の目標の2に「飢餓をゼロに」と定めている。
 SDGsは日本も賛同し、他国と同じく2030年までの達成をひとつのゴールとしているが、日本の中でも感じづらいのが「飢餓」なのだろう。ホームレスの人は見かけても少数派だし、多くの家庭で貧困状態があっても、アフリカやその他の貧困地域に見られるような「餓死」「飢餓」という目に見えるような貧困は、日本に住む我々には見えづらい。特に私のように、恵まれて育ってきた人間の輪の中に生きる人たちにとっては、貧困のレベルは想像が難しい。よくわかっている。




 私は幼い頃に海外暮らしの中で見た。学校に行けず働く子どもたちや食べるものがない子どもたちを生活の中でほんの少し垣間見た程度で、それでも幼い頃から間近に少しでも垣間見たからこうした問題に幼少期から「取り組むべき問題」という意識を抱えているけれど、そんなふうに考える私は、海外生活では大変恵まれた暮らしをしていたし、兄弟3人いるのに親は3人それぞれのやりたいことをやらせてくれたし、特に私はやりたいと言ったことをなんでもやらせてもらって生きてきたという意識が強くある。




 先ほど、私に熱心に、アフリカの子どもたちの状況を説明していたお兄さんは、アフリカには行ったことがないし、ましてや海外にも行ったことはなさそうで、説明も当事者なのではなく当然第三者、世界の中のこの人たちはというような話ぶりであった。



 私は、先ほども言ったように幼い頃からそうした環境で育ってきて自分の恵まれた環境も十分に理解して生きてきたつもりだし、もちろん貧富の差の是正や貧困に対する行動等は必要であると考えているし、中高時代もキリスト教で育ってきたから毎週の献金、クラスで一人学習のためのお金を支えている海外の子という存在や習慣もあってもちろん私の小さな寄附金によってそうした世界の児童・生徒、および人々が「その日の綺麗な水、その日の食」にありつけることも、それが集まってたくさん集まれば井戸を掘って綺麗な水を彼らが継続的に供給できるようになることも、学校が建てられれば子どもたちが学べることも、学べれば世界が広がったり、知見が広まったりして彼らの将来が広がることも、"その日の食糧"が継続的に賄えれば、労働をせざるを得ない状況でろくに学ぶ権利を受け取れない多くの人々が、食べるために働くことを少しゆるめ、学べる時間ができるかもしれないこともわかっているし、私の寄附金が彼らへのそうした助けになるのかもしれないとわかる。



 寄附やボランティアを偽善だという人は多くいるけれど、やらない偽善よりはやる偽善の方がよほどマシだろうし偽善だろうとそれで助かる人はたくさんいるだろう。


 よくよくわかっている。




 けれど、働きながら母に少しお金を借りたり、毎月の給与は毎月暮らしで終わる今の私の雀の涙程度の給与では、自分のことで精一杯で、いやむしろ、私はお金があるならそれを自分の将来と今のために使ったり、身の回りのいつもお世話になっている、目に見える親や友人への恩返しに使うならまだしも、今の私には、目の前にいない遠く離れたどこかに、住んでいるであろう彼ら彼女らを支援するほどの余裕はない。





 WFPの活動に関して熱心に呼びかけるお兄さんたちは私に「月に1000円からできるんです。月1000円、ちょっとしたカフェ代を毎月やめて我慢すれば子どもたちが救えるんです!」と説明する。わかっているからこそなかなか断れなかったから仕方なく一度寄附者としてサインをして、クレジットカード引き落としにしてもらってからそのお兄さんたちを離れた後に団体の担当者に電話をしてまだ登録されていないだろうけど未登録にしてくださいとお願いをした。




 担当の方がサクサクと登録削除手続きをしてくれたからおそらく引き落としは来ないだろう。



 私も、よくよくわかっている。幼少期に海外に住んで、学校にも行けず花を売って家族のために生計をたてる小さな子どもたちを目の当たりにしてきた。一方自分は大きなバスで学校に通い、家に帰ればマンションにはテニスコートもプールも卓球台も大きなアスレチックもなにもかもあって、家にはシルバニアファミリーもピアノもキックボードもリカちゃん人形も最新の任天堂も何もかもあって、お手伝いさんもいて運転手さんもいる生活をしていた。

 日本に帰国してからは、そんなに街でホームレスを見かけることもないし、ましてや飢餓に苦しむ子ども、労働する児童など見たこともないけれど、それでも日本にも教育の格差、貧困の格差があることは認識したし、その、世界の中で恵まれている日本の中でも、自分は、親のおかげで一部の特権階級くらいに恵まれていて、またそんな私の身の回りにいる友人たちも私と同じくやはりみな一部の恵まれた人々なのだろうことはよくよく認識していた。


 認識していたけれど、いざ大学生になってさまざまな人と関わったら、苦労をしてきた人もたくさん見たし逆に裕福なのに裕福さに気づかない人も知って、日本の中にもろくに教育を満足に受けられる状況にない人がいる一方で小さい頃から私学に通って、親の言いなりだったとしてもそれでも習い事なり学校なり良い環境を提供してもらって生きてきた人々がたくさんいるのも見た。




 大学生の時には、Table For Twoの活動に携わっていたし、国連に就職なども考えたことがないわけではないから世界の状況もまるでわからない、というほどではないし、日本の貧困も少しは知見を得た。


 学生時代に付き合いのあった友人に、
ボランティアは偽善だと言い切る人がいた。






 私はボランティアというものが中高時代から学校生活において身近にあったし、その学校生活の中で説明される貧困は幼少期に垣間見た経験もあったからボランティアを偽善だと思うことはないし、自分がやりたいと思う活動であればやってきたし、携わってきたし、調べてきた。ボランティアを偽善という人がいるのはよくわかった上で、それでも、それが誰かのためになるのなら、誰かがそれで幸せになるのなら「しない善より、やる偽善」だと今は思う。



 思うし、思った上で、彼の「ボランティアは偽善」という考えも、否定はしない。そういう考えの人もいるだろうし、そう思う彼は、賛同できないのだからしなければいい話。それだけだ。



 誰かのために、自分のために、やりたいと思ったらやればいい、やりたくないならやらなければいい、状況・環境的にやれないなら無理にやらなければいい、


 ボランティアってそういうものだと思う。


 もちろん、中高時代までの献金活動やボランティアに関する学校の活動は、そういうことに気づく前の、発現前の体験なのかもしれないけれど、上記の考えに立つのなら無理強いするものではないと私は思う。


 私の中高では、中1〜高3まで毎週礼拝で献金があったし、毎月クラスで支えるどこかの児童・生徒に送るクラス献金があったし、クリスマスにはクリスマス献金という封筒が配られて家族にも協力してもらってお金を入れて献金してきた。





 卒業する前から薄々思ってはいたが、今の私ならはっきり思う。あれは強要的であったからやはりボランティアとは言い難い。経験として、キリスト教教育としてであれば成立していたけれど、文字通りの「ボランティア」という語にたてば破綻していた。志願ではなく、志願という名の半ば強制であったから。それはまるで、戦争時代の日本の志願兵のように。志願という名のもとにおいてやるのが当然だという空気があったらしいそれと同様に。



 ボランティアを悪いと私は思わない。
 献金も支援も大切だし、それが本当に、
海の向こうの苦しむ誰かに届けられているのなら、もしくは誰かが幸せになるために届けられたり使われているのなら必要であるし、世界の飢餓問題は遠くの国の人の事情としてではなく、世界全体で解決していくべき問題なのも確かだと思う。経済的な面からみればほぼ完全に資本主義社会のアメリカや日本などの国において、その解決していくべき、という考えは時に矛盾するかもしれない。それでも確かに、この世界を皆で支えていくには必要だと思う。




 その一方で、私には私の生活があって、
もちろん、海の向こうの貧困児童や働いても食べていけない人々に比べたら、親の庇護のもと28歳にもなって少ししか働けなくても生きていける私は裕福だし、裕福な私は、どちらの立場かと言えば支援される側ではなくそうした目に見えないどこかに生きている「彼ら」を支援する立場に分類されるのかもしれないけれど、



 けれど一方で、私自身も、もちろん自分の能力のなさがゆえんだとしても、職にありつけず、そのひぐらしの給与程度で、親の庇護を受けなければ食べて生きていくこともできず、安全な場所に住むこともできず、また、身につける服もないだろう。つまり日本という環境と親のもとにいて、親が私に与えてくれるから裕福なだけであってその親と日本の環境なしには私も安心で安全な暮らしは享受できない。
 病院にも通えないし薬も買えないし薬がなければ私はいずれ発作を起こすし、発作の中で舌を噛んだら死ぬかもしれないし気道が塞がれば呼吸ができないだろうしなにより、発作が起こっても病院に通えなければ何もできないだろう。





 その私に、貧困児童のために毎月お金を送る支援を、と街頭のボランティアスタッフはもちろんそんな私の事情など知る由もないからではあるが必死に説明していた。



 これは、非常に難しい問題なのだ。



 私は確かに恵まれている。


 私は確かに裕福で、世界の貧困児童たちと比較すればとんでもなく恵まれているし、綺麗な身なりをしているし、綺麗な水をいただけるし、毎日餓死を危惧して生きることもない。



 そして、そんな恵まれた人でなければ、余裕のある人でなければ他者のために何かをするのは難しく、けれど世界の貧困や衛生状態を良くしていこうとするならば、そうした善意と余裕のある人々の多くの賛同と支援が必要だ。そして募金は、彼ら貧困児童への毎月の支援金はその一つの手段である。




 綺麗な身なりのスーツで、ボランティアの人たちにとって仕事帰りであるように見える私は、彼らが支援したい海の向こうの誰かという対象nと比較すれば「恵まれていて」「裕福で」、だから「幸せであるはず」で「余裕があるはず」でだから「支援する側」になってほしいと呼びかける。





 けれど、そんなふうに見える私の内情は、目の前で必死に説明するお兄さんにはわからないし余裕がありそうに見えるだろうけどその内実は、親のお金がなければ一気に、世界のそうした子どもたちやホームレスと同じ環境になる人間なのだ。ただ親がいるという恵まれた環境とその環境のおかげで得られる綺麗な(清潔な)格好なだけで。
 もちろん世界の貧富の差も、世界の貧困の状況も、貧困がもたらす負の連鎖も(経済的貧困は教育の貧困格差につながり、それがまた経済的貧困を再生産する)知識として分かっていても、目の前の、必死に世界の貧困児童について説明するお兄さんより、幼い頃に日常的に、"働かなければならない"児童、''十分な生活環境がない"子どもたちを目の当たりにしてきて貧困児童を目の前に見てきた私も、今置かれている立場はもしかしたら明日にでも貧しくなるかもしれない、親がいなくなれば食べられないかもしれない状況なのだ。



 貧困に向き合う、世界の課題を解決する、
というのは実はかなり難しいことで、
自分が満たされていたり、自分に余裕がないとできないことなのだ。だから、

Voulanteer=志願兵


が手を挙げて誰かのためにやるものであるのだ。



 誰かにお願いされてやることでもないし、
決まりだからと献金するものでもない。


 そして、ボランティアに携わる彼らは、
それが嘘ではなく誰かのための目的で行われているのならそれは善であるし、例えそれが誰かにとって"偽善"に見えたとしても誰かのためになっているのなら、結局 偽でも、善であることに変わりはない。



 けれど、だからこそ、献金も支援も街の清掃であっても、どこかでふとした時にやる人助けも何もかも、その人自身が、余裕のあるだれかが、誰かのためにやるからボランティアなのであって、自分に余裕がなければできないし、やる必要はないし、ましてや誰かに頼まれて、強制されてやるのはボランティアではないというものだ。





 まずは自分を大切に、自分のために行動する、
私はそれを、何度も失敗して人のために命や時間を割いてきた過去から、過労の過去から学んだ。断れないという自分の弱さから今もこうして押されれば署名をしてしまう押しの弱さから少しずつだけど学んできた。


 自分を犠牲にしてまで誰かのために何かをする、それはとても尊く、素晴らしいことでもあるけれど、それでもきっと、まずは自分自身が生きることが大切であるし、自分自身が幸せであることを選ぶことがとても重要で、自分自身が満たされるから、その上で誰かのために何かをしようと思えるものなのだと思う。




 ちょっと疲れてぼーっとしながら歩いていた私は、結構断ったけれどそれでも押しの強いお兄さんにお願いされてWFPのマンスリー募金に一度は申込書を書いた。けれど、お兄さんたちのもとを離れてすぐに、WFP日本支部に電話して申込の取消しをした。


 お兄さん、誰かのために何かをするって
それはすごく尊く、そしてあなたたちの活動は間違えていないし、確かに支援を必要とする子どもたちは世界にたくさんいるけれど、私は今日お兄さんと話しているときに、海外に行ったことないあなたは、支援する相手である彼らに会ったことの無いあなたが、私と話している今、どれほど世界の児童のことを考えているのだろうと頭の中でふと疑問がよぎったよ。



 たぶん、それはあなたが何気なく言った
「恵まれない子どもに」という言葉に引っかかったのかもしれない。



 確かに、経済的に、衛生的に、環境的に比較すれば日本の私のような恵まれた環境で育ってきた人、より彼らは「恵まれない」のかもしれない。し、そうした「恵まれなさ」は、世界的に、みんなで、是正していくべきところはある。


 けれどね、募金も献金も支援も、志願して、
誰かのためにできる余裕がある人がやらなければ意味はないし、もし私にそうした余裕があるのなら、お願いなんかされなくても私は誰かのために行動するよ。そしてそれは他の人でも同じだと思う。








 献金や支援金はもちろん現実的に必要だし、お兄さんがこうして活動することで申し込まれた寄付金は毎月誰かに届いて目の前のどこかで生きる誰かをすぐに救うと思う。けれど、そうできない人もいるし、したいと思わない人もいる。だから、そうできない人が、「私は余裕がなくて」と言ってきた時には



「月1000円だけでもいいんです」

「お姉さんが毎月ちょっと我慢したお金で子どもが救えるんです」


って私に言ったように食い下がってなんとしてでもお金を寄附する紙を書かせるんじゃなくて、



自分たちはどんな活動をしているんです、


くらいの紹介にとどめた方がいいんじゃないかな。




 もし余裕のある人なら、その活動を魅力的で価値があると思えばお金を出してくれるだろうし、寄附や支援を集める時というのは、まずは共感してもらってその寄附してくれる人が自発的に行動するよう促すのが大事なんじゃないかな。そしてそのためにボランティア、職員のあなたがやるべきだったのは、私に寄附金の用紙を書かせようとすることではなく、お兄さんが得たもっと詳しい世界の情勢や細かい数値を私に教えてくれることだったんじゃないかな。


 まあ、少し話してた感じだと、世界の貧困状況や何人に一人は貧困、何人に一人は教育が受けられないとかも含めてSDGs的観点での貧困問題や教育問題については、ど素人の私の方が知ってる感じだったけれど。



 まあでも、もともと、勤務の後に少しスッキリしてnoteと向き合おうとしていたんだけれど、今日はそんなお兄さんに出会ったおかげでこうして一つタラタラと記事を書いたからそれは感謝してるよ。



 私はお兄さんたちの活動内容をWFPの活動を
賛同しているし、素晴らしいと思うし、多少理解はしている。でも、今の私には誰かを支えて生きる、誰かのために経済的支援だけでもする、なんて無理なの。自分ひとりで立つこともできていないから。


 もし、自立うんぬんなしに、誰かのために経済的に心を配るなら、
目の前にいない誰かを助ける前に、
私は目の前にいる親や、親愛なる友人にまずは恩返ししなければならないし。



 私はこんな経済状況で、自分の通院費や薬代すら自分で払えないような状況だけれどさ、もしかしたらここのnoteを読む誰かWFPを知らない人が支援したくなるかもしれないし、調べるかもしれないし、いやそうでなくてもボランティア活動について同じように何か思っている人がいるかもしれないし、まあ何にせよ、前々からボランティア活動については少し書きたいと思ってたからさ。押しが強すぎたお兄さんのおかげでほんの少しだけど書けてよかったよ。



 世界のみんなで決めた、
SDGsのゴールの目標第二は

「飢餓をゼロに」


WFPは、そのための活動をする国連機関です。

#wfp

#飢餓問題

#ボランティアとは


#寄附について考える


 タリーズの店内では、クリスマスの音楽とハリーポッターに出てきそうな音楽が流れていて(ちょっとハロウィンっぽい、記憶にないけどたぶんハリーポッターの音楽なんだと思う)、私はコートすら脱がずにドリンクを2杯飲み干して先ほどのお兄さんとのやりとりをずっと反芻していた。


 (ちなみにこの後、お店を出てしばらくしてお腹が痛くなったが、どこもコンビニは今はお手洗いを貸していなくて寒気と腹痛に悶えながら1番近い駅の大井町まで20分も我慢することになった。コロナの影響は、日常のこうしたところにも響く。けれど、大井町駅近くに設置されているお手洗いが、とても綺麗で車椅子の方なども入れるくらい広くて、中はコンクリートのようで質素とも言えるけれど、便座も温かく、腹痛に悶えながらなんとか歩いてきた私は、寒さに凍えることなくお手洗いを済ませられた。ありがとう、あのお手洗いをつくった皆様!!)


 ああいう綺麗なお手洗いが、駅付近にぽんと建てられているのは日本の衛生面での世界的な高さゆえね。とても感じたわ。

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