「メモ:死ぬのが怖いについて」





何度か自殺に関する記事を
執筆したが、12月3日に、

Facebookの「過去の思い出」なる
機能で、2019年12月3日の呟きが
出てきた。

生と死については、もう書かないと
思っていたけれど、
何となくこの言葉をなくさぬよう
残しておこうと思う。


ここから先がそのメモ。


死ぬのがこわい、に関して時々、その想いに駆られすぎて真夜中になっても明け方になっても寝付けないくらいにずっと、


 死


という得体の知れないものが
くっついて怖くなって
考え込んでしまう時があるのだけれど




いつぞやか、
死ぬのが怖い高校生の想いに
哲学を専攻している方が答えた回答を
読んだことがあった。
その時も、違う、そうじゃない、
と思った。



 死んでいく、その過程とか
死んだ後のその自分の身体から
水分が消えていく感じとか、
 血の気がなく、あの青白い感じとか
お棺がしまったときの暗さとか、
そのあと焼かれている時の熱さとか、


そして自分がいなくなった後も
自分なんかいなくても
この世界が続くことや、そういう
過程や事実がとても怖いのであって

人は誰しも死んでしまうだとか、
哲学者サルトルが
「人は生まれながらにして
死刑囚なんだ」といっていたその考えや


よく生きるとは何か、
良い死は何かを考えよう!だとか、
そんなことは何にも、
私の死への恐怖への解決にならなくて
ましてや死ぬのが怖いの答えではなく



死ぬのがこわい、も
人によってきっと意味合いは
違うけれど、

私は、あの、

死のもたらす、
亡くなった祖父がその後お通夜まで
1週間冷蔵されたあとにお通夜で
久しぶりに対面した時のあの、
独特な血の気のない顔だとか、
冷蔵されていた
遺体の異様な冷たさだとか臭いとか
その時の、爪の透き通った白や
棺が閉められて
焼きに入れられた時の、
もう、続きはない、肉体は消失すると断定された時の感覚だとか
頭の中で想像し追体験される
焼かれている熱さだとか
そういうすべての過程や、
死んでしまったら、
口に出したことのない自分の
頭の中にしかなかった考えや感情、
感覚がこの世の中から完全に、
消えてなくなってしまう、消失する
消失していくという現象が怖いのだよ

特にそういうことを考えた時の、
“今、目をつぶって、
そのまま気づいたら
自分はこの世にいないのだ"とか、

そういう、そういう一瞬のうちの
生から死への変貌みたいな過程が
怖いんだよ




 そう、私はメモしていた。


 そういうのが
怖かったんだ私は。
そうか。
そうだったか。

 あんなに、小学生から
15年間くらい、
生きている理由だとか、
私は生きていていいのかとか
なんでこんなに苦しいのに
生きたいと思うのかとか、
どうやったら死ねるとか、
考えていたのに、


最近は生とは、死とは、
を考えなくなってきた。


きっと、noteに書きながら
自分の中のモヤモヤとした想いを
言語化したからだと思う。

 人は、言語を通じて
物事を、感情を、世界を
理解していくものだから。

 たくさんの言葉に置き換えてみて
たくさんの言葉を紡いでみて、
やっと私の中で
生きている理由とか死を、
ふわふわ浮いて掴めないのに
私の頭の中にずっと浮遊する
得体の知れない不吉な塊から、

 言語化したことで、何かしらの実態を持っているであろう客体、として
どこかにおさまったのかもしれない。


#死ついて

#生と死

#メモ


ありがとうございます😊サポートしていただいたお金は、勉強のための書籍費、「教育から社会を変える」を実現するための資金に使わせていただきます。