ほたてを食べよッ🎵
ー えたいの知れない不吉な塊が私の心を始終おさえつけていた。
焦燥と言おうか、嫌悪と言おうか ー
(梶井基次郎, 『檸檬』)
疲労と言おうか、
倦怠感といおうか、
はたまた、これは、
自己肯定感の低さからくるものかも。
自律神経も、
多分もう7〜8年くらい
ずっとやられている。
体力の満タン値も、
心の体力、心力の満タン値も
年々減ってきて
それはまるで、長年使っていると
どんどんと最大容量が減っていく
スマホの充電のようなものだった。
(コ○モ石油さん、
ココロも満タンにしてぇえ)
良い日だったと思えるような日は、
少なくなって、いや、
やっと目覚めてお昼、
そこから起き上がるまでに数時間
やっとご飯だけ食べて、
また部屋に戻ると体力がなくて
動けない。気づけば夕方。
アルバイトがない日は、
ずっとそう。
みんなは、院生時代の過労による
持病ばかり気にしてくれるけれど、
結果したてんかんや神経衰弱がいけないのではない。
また、一向にプラスに転じない、
稼げないアルバイト生活だけが悪いのではない。
いけないのは、その、新卒で
辞めてきた時からはっきりと私に棲む
不吉な塊だった。
(これは2016年の秋頃、持病のきっかけとなる出来事が始まったあたりからはっきりと私の中に棲んでいて、その出来事たちは全て気持ちも片付けたのに、今の私の生活を辿ると、その不吉な塊に辿り着くのだった。)
2019年は少しだけ違った。
仕事も2つ並行していたし、
下半期は彼氏もいたし、
かなり体力はあった方だ。
それでも、下半期は
毎月ひどい風邪を引いて寝込んだし
それでも随分頑張りすぎていた。
けれど、もう2020年の自粛明けから
うまくいかない。
時には『檸檬』の「私」と
同じように、
昨年までは、
昨日までは、さっきまでは私を
喜ばせ楽しくしてくれたどんな曲も
我慢ならなくなる。
また、気分転換にと、動画を見ても散歩をしても、辛抱ならない時もある。
いたたまれなくなってまた、
ベッドの中に入って、布団に潜り込んで
着替え途中のパジャマはそのままに、
ぼーっとし続けて気づけば夕方に、
そしてやがてあたりは真っ暗に、
なっているのだ。
夜は、幾分マシだった。
少し前までは、昼間は良くて、
夜が来ると、日が沈むと同時に
心もどんよりと重く暗くなるものだったが、
周囲の真っ暗さは、私の心を
幾分、解放させた。
本当は、(そんな夜中の時は)気ままに、
ふらふらしたり、コンビニに入って
何かを買ったりして、
夜道を散歩したいものだな、と思う。
実家暮らしではできないけれど。
この数年間、苦しくて涙を流す夜が
いくつあったか知らないが、
少し前からひとりで涙するのは、
お風呂の中だけと決めた。
(まあ、それでもベッドで泣くことも
あるけれど。)
誰かの前で思わず泣くのは、
親愛なる1人の友人の前だけだった。
みんなみんな、働いている。
立派に、まともに、社会人になって
もう3年も5年も働いている。
昔から友人たちについていけなくて
必死だったけれど、もう、友人たちは
私の手に届かないところまで進んでしまった。
わたしには、彼らのように、
フツウに生きてフツウに働いて、
きちんと社会という歯車と噛み合って
生きることすらできない。
『檸檬』の中の“わたし”は、
みすぼらしくまではないまでも、
ありふれた果物店でれもんを買って、
そのれもんによって、得体のしれない不吉な塊がいくらかゆるむと見えた、と述べている。
私にはそういうものがあるだろうか…
この日、いつも通り、
もう目覚めてから、
3時間以上経つというに、
パジャマを半分も着替えない
中途半端な形で寝転がったままの私は
どんよりとした気持ちと、
何も予定のない今日という清々しい日を交互に感じている。
数年前までの、あの予定詰めの毎日は、あんなに頑張っていた院生時代の私はどこへいってしまったのだろう…
赤いNOLTY エクリB6の、
2017年手帳を引き出しから出してきて
ペラペラとめくりながら思う。
人は成長すれば、できることが
増えてゆくというに、年々、
“フツウの人”が、“フツウに、考えることもなく”送れるような、
当たり前の日常がどんどん送れなくなってゆく。
いや、小さい頃から、その当たり前を享受できてはいなかったが、
少なくとも、朝起きて
朝ごはんを食べ、学校にいく。
家に帰ってきたら勉強をして、遊んで、ご飯もしっかり食べて、お風呂にも入って、良い時間にきちんと寝る、
そういう、小学生の時に当たり前に
できていたことすら、できない。
幼い自分にできたことすらできないというのは、かなり憂鬱になる。
私の心の中には、いつからか、
いつからいるのかわからないほど、
いつからか、灰色の不吉な塊が棲んでいて、その塊が、すべてを重くしてゆく。
時々は軽く感じる日もあって、
でもとてもとても重くて起き上がれない日もたくさんある。
そんな日に、たまたま、いつになく
水樹奈々の
『アノネ〜まみむめ☆もがちょ〜』
が流れてきた。
ひとえまぶたもいいんじゃない
涙のつぶはバキューンバキューン
ウィンクもし放題あいさつのかわり
自信過剰もいいんじゃない
右手でまわせ地球地球
へこんでもブルーでも
お腹ならへるし
プラス思考が一番だ
“ネ・ウシ・ウ・タツ・ミでGO!!!”
アノネ、アノネ、それっていいんじゃない
I LOVE YOU I NEED YOU
ほたてを食べよう
なんだか、少し、気持ちが
明るくなる。
この歌はいつもそんな風にしてくれる。
そして梶井基次郎を思い出す。
冒頭に記した 『檸檬』は
続いてこう綴られるのだ。
ー その日私はいつになくその店で買い物をした。というのはその店には珍しく檸檬が出ていたのだ。檸檬などごくありふれている。がその店というのは見すぼらしくはないまでもただあたりまえの八百屋に過ぎなかったので、それまであまり見かけたことはなかった。いったい私はあの檸檬が好きだ。レモンイエロウの絵具をチューブから搾り出して固めたようなあの単純な色も、それからあの丈の詰まった紡錘型の恰好も。ーー 結局私はそれを一つだけ買うことにした。それからの私はどこへどう歩いたのだろう。私は長い間街を歩いていた。始終私の心を圧えつけていた不吉な塊がそれを握った瞬間からいくらか緩んで来たとみえて、私は街の上で非常に幸福であった。あんなに執拗かった憂鬱が、そんなものの一顆で紛らされるーーあるいは不審なことが、逆説的なほんとうであった。それにしても心というやつはなんという不可思議なやつだろう。
その檸檬の冷たさはたとえようもなくよかった。 ー (梶井基次郎, 『檸檬』より)
水樹奈々のこの歌は、
まさに、私をそんな感覚にさせる。
中高時代から、水樹奈々の歌でも
特にこの歌はそういう心持ちにしてくれるから好きなのだ。
梶井基次郎の『檸檬』のなかの
私にとって、“あの丈の詰まった紡錘型の格好の、ありふれた檸檬”のように、
私にとって、始終圧えつけている
不吉な塊が、そんなものの一課として
紛らわせてくれるのは、
ホタテを食べよッッと
言ってくれるまみむめ☆もがちょなのだった。
わたしは、その日も、
わたしにとっての“檸檬”を手に入れた。
(ちなみにこの歌は、2001年に、
テレ東で放送された
アニメ「まみむめ★もがちょ」のタイアップソングとしてつくられたそうで、
ホタテを食べようというのは、このアニメの主人公もがちょくんの大好物がほたてだかららしい。)