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履歴書の文脈とライフプラン


※記事全体が長くなりました。かなり私の履歴についてかなり細かく書きました。これまで、両親が私に与えてくれた環境と、私のかなりプライベートなところまで記載したので途中から有料にしています。 

売上は、金額によりますが、持病にかかるお金を両親に払ってもらっているので、両親への感謝に、そして支えてくれる親愛なる友人に、恩返ししたいと思います。





学歴というのは、現代社会において、
さほど重要視されていないと思われながらも、
「学歴で人を判断するな」とか
「学歴が良ければいいわけじゃない」とか
どちらかと言えば否定的な意味合いで
頻繁に用いられる気がする。本当に重要視していないというならば「学歴が…」「学歴で」「どこ大出身で。」などという会話が飛び交うだろうか。


 また、だんだんと、学歴至上主義だけの価値観でなくなっているにしろ、わたしの親世代、つまり50代より上の人は「○○大出身で☆☆会社に勤めてるxxさんは」などと、人を紹介したり誰かについて話すときに不必要でもその人の肩書きみたいなものに大学名だの高校名だの会社名をつけたがるし、私の祖父母世代ともなると、「○会社の社長のお嬢さんの・・ちゃんは優秀で♪大学を出て$会社に入社して」なんて、あっけらかんと他人の個人情報をどんどん公開する。


 個人情報保護もへったくりもありゃしない。

そのたびに、だからなんなんだと思うし、
学歴至上主義なのかなと思ってしまう部分もある。
(きっと我が親の時代は少なくともそういう時代があったろうし、我が祖父母の時代は戦争の終わりでろくに学校に行けなかったという人も多いから、学校に行っていること、優秀と言われる大学などに進学することは素晴らしいことであったろうし、祖父母の時代も父母の時代も、いい学校、いい大学に行っていい会社に入れば一定程度の恒久的幸せを得られる時代でもあったのだろうと思う。)



そして現代では、やっと
「学歴がすべてじゃない」だとか
「学歴がなくても…」という意見も多い気がするが、

しかし、学歴というのは、その人の人生の一部であり、その人の過去の家庭環境の豊かさや努力の証のひとつでもある。


名刺のようなものだ。


学歴はすべてではないし、学歴が関係なくなる場面は社会においては多くみられる。それは、頭の中の知識の広さだけで生きているわけではないからだ。人柄の方が重要な場面は多い。

以前にも書いたが、慶應卒という人でもこの人ほんと自己主張ばかりだし、気も効かないなと思う人もいるだろうし、機転が効いて周りをよく見ていて落ち着いていて、とてもお優しくて素敵な方でと思っていたら「私は高卒だから…」なんて方もいる。
(いやぁほんと、出会ったその人が慶應生だったばかりにこういう時慶應生を例にとって申し訳ない。優秀で穏やかで聡く、親切な慶應生もたくさん知ってるんだけどね、どうしても出会った慶應生たちのインパクト強くてね)


 人格や経験、その人の人生という観点でいえば、学歴は一部でしかないし、頭の良さを測る指標のひとつでしかない。



一方で、

「学歴」が、瑣末なもの、という認識もまた、少し間違えている気もする。
 それは学歴が、それでも人生の一部であり、大多数の人の場合、どこかの時点で頑張った証拠、つまり実績でもあり、今のところまだ、日本の社会は、学歴がどうのこうのという社会であり、事実、学歴フィルターは存在するからという部分が少なくないからでもある。
 (その最たる例が、前述の親世代より上の人たちに、よく見受けられるその人の肩書きで、誰かについて話すことだろう)

 それに、その大学に至るまでに学び、修得した知識が身についている、十分な知識をもとに深い思考ができる人と仮定すれば、やはりそれなりの学歴の人はそれなりに頭の良い人であろう。




 大学の授業などに、キャリア形成とか、
キャリアプランニングみたいなのがあったような気がするけれど、私はどれも履修しなかった。


 そもそも、キャリアなんてプランしたところでその通りにできる努力をして、環境や幸運に恵まれた人はプラン通りに行くものかもしれないけれど、


 私なんて計画立てているその場から計画壊してしまうくらい計画通りなんてできない人間だし。


 20代前半だった頃、careerという英語の、もとを辿ればcarrusというラテン語の意味合いを辿って


 プランニングするものではないのだ、と私の中で結論づけていた。


 だって career→carrusの意味は
「車輪のついた乗り物」でそこから、
「轍」「車輪の通った跡」を意味する言葉だから。




だから、キャリアというのは
職歴のことというよりは、
未来のことというよりは、
そうした限定的なものではなく


 生まれてからこれまでの自分が人生で通ってきた道の跡の事である、と。


 その考え方自体は今もたいして変わらない。


 どんなに計画立てていたって、
突然の災害で生活がどうにもならなくなったり、
命を失ってしまうこともあるだろうし、病気になったり怪我をしたりしてプラン通りにできなくなることもたくさんあるし、恋愛や結婚、出産は自分がしたいと思ってできるものでもなくて、相手が必要なことだし、天命と関わるだろう。


 だから、そういう意味で、
「キャリアプランニング」や
「キャリア形成」こそが大事とは思わない。

それこそが最重要とは思わない。



 けれど、ある程度のプラン(計画)は

立てておかなければ、いつか結婚できるだろう、とかいつか働けるだろうとか、そんなものはないということもよくわかるようになってきた。


 今、やりたいことを続けた先や
今生きている自分の先に出会うことやできることも増える一方で、


 何か目的や目標を立てた上での逆算的な計画を立てなければ、怠惰な人間である私は、計画を立てても実行しないんだから、何も変わらないまま、変われぬまま、成長しないまま、若さだけが失われるんだと認識しはじめた。否、こういうことは本来26歳頃までにはなんとなくわかっていたけれど、自分が向き合っていなかったのだ。


 多くの友人たちがもっと早い段階、20代の前半までには気づいていただろうに。



 今の仕事に就いた際に、履歴書に記載する
「高校卒業」以降の私の履歴を付箋に書き出して、手帳に貼っておいた。



 2012/3    高校卒業
 2012/4    大学入学
 2016/3    大学卒業
 2016/4    大学院入学
 2018/3    大学院修了
 2018/4    公立中学校教諭(英語科)着任
 2018/4    公立中学校教諭(英語科)離任
 2018/6〜 VC(非正規)就業開始
 2019/3〜 塾講師(非正規)就業開始
 2019/3〜 ビデオ講師(非正規)参画
 2019/4   ビデオ講師契約終了
  (納得のいかぬ事由が多かった)
 2020/3    塾の教室閉鎖に伴い塾講師退職
 2020/6   コロナ禍で職場閉鎖続きVC契約終了
 2020/7〜 アフタースクール(非正規)着任
 2021/9   アフタースクール退職
 2021/10〜 現職(教育関係事務)


 履歴書を見た面接官はこう考えるだろう。


 「大学を卒業し、大学院に入ったのですね」

 「大学院を修了してすぐ公立の先生になられているようですがすぐ辞めたんですか、どうしてですか?」


 「学校の先生を辞めたあとは、ベンチャー企業に、でも、塾講師やアフタースクールなど、やはり、教育がいいんですね」


 「正社員の就業経験はないんですね」


 「これまでに就活は?」

 「あ、特に職歴などはない…うーん」


などと。


では、ここからこの履歴書の奥を、
少しだけ書き足してみることとしよう。

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