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ただ毎日をすみっコでふわふわと生きたい。



 将来の夢が、「進路」になり、現実の目の前の選択だけになってしまったのはいつからだろう。




 なんでも叶うわけじゃないと思ってしまったのは、いつからだろう。





 目の前にある幸せや些細な願いに気付きにくくなって、叶わないことやできないことばかり目につくようになるのはなぜだろう。





 自分の夢を諦めたり、叶わないからと苦しい気持ちになるようになってしまうこの心はどうしたものだろう。






 無職のままもうすぐ満4年を迎える私。
文字もまだ読めない、専門だった英語は元から全然できないけれど、全くわからなくなってしまった。何もできない最近の楽しみはアニメや映画を観ること。そのアニメや映画だってNetflixなどで観ている時は10分と集中力が続かない。


けれど、映画は好き。コロナ禍になって、
よく観るようになって、もっと好きだと気づいた。



 映画が好きで、だから、心が落ち着かない時こそ、もやもやする時こそ、辛い時こそ、ゆったりとひとりで映画を観たくなる。


それから好きなもの。


 「すみっコぐらし」も。


 ぬいぐるみも何もかも集めるほどのファンとまではいかないかもしれないけど、結構好き。


 それこそ映画2回観にいったり、
今年のGODIVAのバレンタインは、
すみっココラボだと気づいたから
(年末もコラボしてたのは見落としてた…)
2個もチョコ買ったくらい。




あの優しい世界観。愛おしい日常。
穏やかな、ありふれた生活が抱きしめたくなるほど愛おしく感じる。




 ー これは、この世界のどこかにある、
すみっこでひっそりと暮らしている
すみッコたちの物語 ー
映画「すみッコぐらし 青い月夜のまほうのコ」より





映画『すみっコぐらし』を再び観に行った。




 12月にも地元からそう遠くない映画館に観に行って、今回はわざわざまだ公開している日本橋まで行った。


 1回目は泣いた。


 今回は泣かなかった。


 泣ける映画じゃなくなったわけではないし、
ある程度ストーリーを覚えているにしてもそうもの覚えの良くない私は、2回目に観ている時にやっと、ああそうだこんな流れだった、と思い出す場面もあった。



 1回目に観た時は、12月中旬で今回は1月中旬。


 この1ヶ月も色々あった。1回目の鑑賞のときはメロくんとの関係を切った後だったから、エモかったのかもしれない。




 ああ、それに、確か1回目の映画の時も子どもがいて鑑賞前に、「映画中喋らないでくれよ」と祈っていたんだけれど、1回目の映画の時の小学生くらいの子どもたちはわりと静かに鑑賞していて、2回目の時は3歳か4歳かそのくらいの女の子とお父さんが斜め前に座っていて、その女の子がまあシアターに入ってきた時からずっとお喋りしていて、映画中もちょこちょこ喋っていて、それからポップコーンか何かの音が結構大きかった。だからかもしれない。




 私は結構、映画鑑賞にはこだわりがあるんだ。


 本当はプレミアムボックスシートみたいな、
半個室状態みたいなシートで耳元でサウンドを聴きたいし、映画中は誰にも音を立ててほしくないからポップコーンも近くの人に食べて欲しくないし、ましてや話し声やら携帯を使うなど問題外。



  1回目の鑑賞のとき、苦しかった気持ちを
ほどいてくれたすみッコたちとナレーションの
いのっちこと、井ノ原快彦さんと本上まなみさん。涙を流したBUMPの歌。


まほうつかいたちのナレーションをしていた本上さんとすみっコたちの世界をナレーションしていた井ノ原さんの声は、やさしく私の心をすくっていった。



 2回目は、肩の力の入った私の心を
そっと両手ですくって、優しくゆっくりで温かい世界に誘ってくれた。


 ああ、今こういう優しさをすごく必要としていた。1回目の時は、苦しい気持ちを救ってもらって底なし沼に引き摺り込まれて息ができないような私を地上にあげてもらったようだった。

 2回目は、地上を彷徨う私にも、まほう使いの5人?匹?がまほうをかけてくれて、とかげやほかのすみッコたちがふわふわと飛んだように、私も魔法にかけられて、ふわふわと心が浮いた。軽くなっていく。





 すみッコたちの世界はゆったりしていて、
毎日に急かされない。

 日々を楽しく過ごして、みんなで毎日を思い出にして、困っていたら助けて、寂しいときはみんなが一緒にいて、みんな願いごとを持っている。



ふぁいぶが、
夢が叶わないって悲しいことだ、それならみんなの夢を無くしたらいいんじゃないか

って、まほうで夢を消してしまうのも優しさで、でもやっぱり夢って叶えるものじゃなくて見るものなんだよなぁと思う。


 空想も理想も、夢で、


 寝ている時に見るのも、
起きている時願うのも夢で。



(ここからネタバレ含みます)

 魔法使いたちの世界には、魔法練習中の
ふぁいぶがいる。

 まだまほうをうまく使えるわけじゃない
ふぁいぶに、

 他の魔法使いの兄弟たちは

大丈夫、いつかうまく使えるようになるよ、

と励ます。


 みんな初めからできるわけじゃない、
練習して、失敗して、練習して、失敗して、
そうして少しずつ成長していくんだと思える、
そういう存在のふぁいぶ。


 今日は大きな青い満月の日。


 魔法つかいのふぁいぶは魔法の練習中だけれど、魔法つかいの世界では魔法でなんでも出せてしまうから、夢という概念がない。


 叶わないものや現実に得られないものを夢で描くすみッコたちには、その夢が必ずしも叶うものじゃないわけで、だから悲しい想いもする。
魔法練習中の末っ子、ふぁいぶは、すみっコたちと出会って、なんでも叶うわけじゃないことを初めて知る。叶わないくらいなら夢なんか消してあげた方が幸せだって、ただ純粋にすみっコたちを思って夢を消してしまう。それはふぁいぶなりの優しさで。



 ふぁいぶが大満月の夜が終わったのに他の魔法つかいの兄弟たちと一緒に帰れなかった時、彼の隣にはすみッコたちが寄り添ってくれた。


 お母さんであるスミッシーの存在を隠して、お母さんに会いたいけれどお母さんに会いたいと言えないでひとりでひっそりと暮らしているとかげには、家族と離れ離れになる寂しさがわかる。だから彼?(とかげは果たして彼なのだろうか、彼女なのだろうか、それともそれ、なのだろうか。今回はとりあえず彼としておこう。)は、ひとり置いていかれてしまったふぁいぶを迎え入れる。




 すみっコの仲間たちが癒しになるのは、
決して前に出ない、真ん中にいない、
すみが落ち着く彼らが
ただ"彼ららしく"生きていることを、
仲間たちで尊重しあえているからだと思う。

それがよしとされているのだ。前提として。


 秋めいた日々もすみっコたちは、
やっぱり各々に過ごす。


 寒いのが苦手で風呂敷といっしょに暖かい場所を求めてやってきたしろくまは衣替えする。

 同じく残り物どうしで仲良しのえびふらいのしっぽととんかつはたまに油のお風呂にいっしょに入って揚げ直して"ころも替え"しているみたい。


 恥ずかしがり屋だけど優しいねこは、
いつもざっそうにお水をあげている。


 ざっそうに優しいねこも、季節の変わり目で
毛が抜け落ちるけど、たぴおかがころころしてくれる。

 そんなたぴおかたちは、ミルクティーだけ先に飲まれて残っちゃった子たち。

それぞれに、日々を自分のペースで生きている。



 本を読むのが好きなぺんぎん?は、
本を読んで自分探しをしている。


 みんなには内緒だけど、恐竜の生き残りの
とかげは、お母さんのスミッシーに会いたいと願っている。でも、恐竜だってばれたら捕まっちゃうからとかげのふりをしているとかげ。その秘密を共有しているのは、同じく"にせもの"同士のにせつむりだけ。


 個性豊かなすみッコたち。

 その個性を潰すことなく、からかうことなく、
ただ受け入れられているのだ、この世界では。




 お買い物シーンでは、あじふらいのしっぽとあげっこたちも出てくる。えびふらいのしっぽとざっそう推しの私としては、あげっこたちが映画に出てくれて本当に嬉しい。


みんなでわいわい楽しくお買い物。


そんな、たわいない、愛おしい日常。


すみっコたちは、
それだけでいいんだ、と思わせてくれる。


秋がきてキャンプにいくことにした
すみっコたち。



 すみっ湖についたみんなは大人気のスミッシーが優しくて大好き。けれど、とかげはスミッシーがお母さんだと言えないからお母さんに心置きなく甘えることができない。


 それぞれにいろんな苦手やヒミツや楽しさを抱えている。わたしたちと同じように。

 でも彼らは、相手を否定しないし、決して意地悪しないし、そこにいて良いとお互いに無意識にゆるしている。それぞれに個性があって、それぞれに違うけれど、そこに存在することを、当たり前に受け入れ合っている。




 キャンプの日は大満月の夜。その夜、すみっコたちの世界に、魔法つかいたちがきてみんなの夢を叶えてくれる伝説がある。それですみっコたちはキャンプファイヤーをしながらみんなで夢を語り合う。
 とかげの夢は、みんなに言えないけれ
お母さんといっしょに暮らすこと。


 ゆっくり過ごして朝も湖をみながら温かいコーヒーと朝ごはん。そう、こういう時間が、本当はとても大切なんだと思う。


 仕事ややらなきゃいけないことはたくさんあるけれど、こういう時間が本当は優しく丸く、日常を穏やかに幸せに過ごすためにとっても大切なんだって。私は勝手にそう受け取った。


ゆっくりして、さあそろそろみんな帰ろうかとしていると、伝説だったはずの魔法つかいたちが現れる。


 5年に1度の青い大満月の夜。まほう使いたちがやってきて、夢を叶えてくれる夜。 5年ぶりにすみっコたちの世界にきた魔法つかいの兄弟たち。1番末っ子のふぁいぶは、初めてのすみっコたちの世界。異文化交流だ。



 まほうつかいたちの魔法にかけられて、
いつもの街が別世界に。ワクワクして魔法使いたちを追いかけてみることにしたすみっコたち。きらびやかなパーティーに誘われ、魔法をかけられたすみっコたちは、魔法使いに。ケーキもナイフやフォークも、何もかも魔法で出せるまほうつかいたち。まほう練習中のふぁいぶは、やっぱり上手に魔法を出せないでいる。



 ー 失敗ばかりのふぁいぶは、すみっこで見学することにしました。 ー (本上さん)
映画「すみっコぐらし 青い月夜のまほうのコ」


 魔法をかけられた街のなかで、
いっぱい遊んだ魔法つかいとすみっコたち。
夜が明けて大満月の夜にも終わりが。みんなが帰ったのにふぁいぶは取り残されてしまった。。

 次の青い大満月は5年後なのに、帰れなくなってしまい、悲しくて泣いているふぁいぶ。そんなふぁいぶを家に泊めてあげることにしたのはとかげ?。とかげは、家族と離れてる寂しさをちゃんとわかってるから、だからふぁいぶにも優しいんだね。





 まほうつかいの国に帰れなくなったふぁいぶを招いて、優しくして、すみっコたちの世界に受け入れたすみっコの仲間たち。公園で遊んだり駄菓子屋さんにいったり、いっしょにパン教室に行ったり。すっかりすみっコたちの世界ですみっコたちと仲良くなる。


 受け入れられるって、それも異文化のなかで
異世界で受け入れられるということが、どれほど安心感をもたらすか。想像すると、すみっコたちのその優しさと相手を想う心に温かくなる。



 その温かさにふれ、それぞれの夢を語るすみッコたちをみて、まほうつかいなのだから恩返しに彼らの夢を叶えてあげようと思うふぁいぶ。けれど



 ー ふぁいぶの力では、みんなの夢を叶えてあげることができません。 ー (本上さん)
映画「すみっコぐらし 青い月夜のまほうのコ」




 夢が叶わないと悲しいのだとみんなを見て思ったふぁいぶは、そんなことならいっそ夢などみなければと、一生懸命「しょうしつのまほう」 を練習して、みんなが寝ている間にみんなの夢を消してしまった。


  「しょうしつのまほう」にかかって、夢や願いや理想の自分を忘れてしまったすみっコたち。それを見てふぁいぶは、自分のまほうがみんなにかかっていたのだと気づいた。


ー ふぁいぶがしょうしつのまほうでけしたのは
みんなの夢。叶わなくて悲しい思いをするくらいなら消してしまった方が楽しく暮らせると思ったのです。 ー (本上さん)
映画「すみっコぐらし 青い月夜のまほうのコ」


ー でも消えた夢は、すみっコたちの、
すみっコたちらしさでもあったのです。ー
(井ノ原さん)
映画「すみっコぐらし 青い月夜のまほうのコ」



 そうして、すみっコたちらしさを取り戻してほしいと願ってみんなで工夫して、協力して、しろくま、ねこ、とんかつ、ぺんぎん?の夢を思い出させる。こういう過程を経て、


ー ふぁいぶは、夢が大切なものだとしりました ーー (本上まなみさん)
映画「すみっコぐらし 青い月夜のまほうのコ」


 夢の大切さを知ったふぁいぶは、
あの時みんなに語らなかったとかげ?の夢を聞く。


 とかげの夢を聞いて、スミッシーのひみつを共有しあったふぁいぶととかげ。



 ふぁいぶは、とかげの夢を想像して、離れている兄弟のまほうつかいたちのことを思い出す。


 あんなに夢でなんでも叶えられて、欲しいものも夢も知らなかったふぁいぶが、すみっコたちと共に暮らし、夢の楽しさや大切さ、そして家族と離れている寂しさを理解していく。ふぁいぶが兄弟たちと離れて寂しかった時、隣にいたのは、寂しさを知っているとかげだった。
 とかげは、寂しさを知っているから
優しくできるのだと思う。そんなとかげに出会えたのは、ふぁいぶの人生、いや"まほうつかい生"というべきか、に大きな影響を与えたことだろう。こういう出会いが、人間にもある。
とかげは、ふぁいぶに友愛をくれただろう。
とかげはふぁいぶの隣人となった。



 そうしているうち、まほうつかいたちがすみっコの世界へ再びやってきた。ふぁいぶがすみっコの世界に取り残されている間、遠くで兄弟たちが心配し一生懸命ふぁいぶを迎えにいく方法をかんがえてくれていて、すみっコの世界では、すみっコたちが温かく迎え入れ、いっしょに生活し、さまざまなことをおしえてくれながら寂しい時一緒にいてくれた。ふぁいぶには、いつも寄り添ってくれる人がたくさんいるんだ。


 この物語に「愛」という言葉は
出てこないけれど、ふぁいぶは間違いなく「愛」に満たされていたであろう。



 ふぁいぶによくしてくれたお礼に、まほうつかいたちはすみっコたちにまほうをかけてくれて、空を飛んで散歩するすみっコたち。そしてスミッシーに会えたとかげ。スミッシーととかげは、まほうで空に飛び、星空散歩を楽しむ。
 ひと時だけれどお母さんに久しぶりに甘えられて嬉しかっただろう。たったひとときの間しかあわせられなかったことを申し訳なく思うふぁいぶだが、とかげは、また会えることが夢なのだとふぁいぶに話した。



 まほうでなんでも叶えられるのが当たり前で、
なんでも叶うから夢なんて知らなかったふぁいぶが、まほうつかいの世界とは別の世界にきて、すみっコたちとであい、当たり前にいた兄弟たちと離れて暮らし、今まで知らなかった価値観に触れ、すみっコたちの優しさと愛にふれ、さまざまな願いや夢を知り、夢を見ることの幸せを、例えいっときしか叶わなくとも、たとえ現実になかなかならなくても、夢を持っていることそれが素敵なんだと知るのだ。その価値観の共有が愛おしい。



 そうした経験を経て、ふぁいぶにも、素敵なまほうつかいになりたいと、自分にも夢ができる。



 この映画は、そういうことを伝えてくれる。


夢は、何かをしたいと思い描く気持ち。
夢は、こうなりたいと思う想像。

 踏み出したから、経験したから、
夢が生まれた。
失敗したから夢を持った。


 そして、その夢は、叶っても、欲が出てまた次の夢が生まれてくるものだけれども、

 夢があるということは、素敵で、
それが叶うにしろ叶わないにしろ
実現途中にしろ、夢や希望を持てることは
幸せなことなのだと思わせてくれる。



ー 夢は、空に輝く星。見上げるだけで、
勇気が湧いてきます。 ー (本上まなみさん)
「すみっコぐらし 青い月夜のまほうのコ」


  夢を持つことは素敵なことで、夢を見ると勇気がわいてきて、自分の夢は何かを考える時、夢を追いかけているとき、隣人でいてくれる人の存在で、自分の身の回りの幸せに、自分自身は既に幸せが近くにあることに気づかせてくれる。




 私は夢を叶えていない。
今は、夢が何かもわからない。



 小さい頃に思い描いていた自分になんか、
全然なれていない。理想の自分も、周りのみんなと同じような日常も、何も持っていない。残念ながらこの資本主義社会に生きる私は、すみっコたちのように、ただ生きていればいいで許される世界ではないのだけれど、でも、夢を描いて、ぶつかって、叶わなくて悲しい思いをして、失敗して怖くなって踏み出せなくなって、つらくてひとりぼっちな気持ちにたくさんなって、どうにも苦しくなって生きているのが辛くなる時も、それでもやっぱり、夢があることが「生きることをやめること」から遠ざけてくれたし、夢があることが今までの人生を支えてくれたし、そしてその夢の欠片のなかには、既に私が持ち合わせているものがたくさんあることも、夢を持てる幸せがあることも人生の中で気づかせてくれた。



 不器用で、いろんなところにぶつかって
怪我ばかりして傷だらけになりながら進んできたけれど、その道を歩んで親愛なる友人やLくんや夜神くんや、支えてくれる友人たちに出会った。


 眠る時、こんなに苦しいなら自然に息絶えてくれればいいのにと願う日もあって、
 そんなことまでいかないけれど、ただただ寂しくて涙が止まらない日もあって、一人泣く夜は続く。


 そんな想いが、エンドロールと共にながれはじめたBUMP OF CHICKENの「small world」に乗っかっていく。


 歌が流れはじめて、涙が溢れてきて、エンドロールが全然観られないくらいに目の前は歪んだ。


 ボロボロ落ちた泪は、じんわり熱くて、
堪えていた何かが溢れ出した。


 何にもできない私。

 働けていない。自立もできない。
恋愛もうまくいかない。必要とされてない。
誰にも苦しいって言えない。なんで苦しいのか
わからない。みんな辛いのわかってるけど、
みんなが辛いなんて関係なく、ただ辛い。
でも、でも、生きていたくないわけでも、
死にたいわけでもなくて、今も幸せで、ささやかな幸せをわかっているのに、失ったものや手に入れられないものを想って泣いて、何もできない自分に満足できなくて、落ち込んで、失望して。

 みんなが必死に働いて、みんなが大人になっているのを感じるたび、私はどうしてこんなに何もできないままでこんなに社会に、大切な人たちに何もできないのだろうと自分に落ち込む。


 時々、苦しくなりすぎて、消えてしまいたくなって。夢や希望やこうなりたい自分が苦しい。全然近づけない。

 全然言葉が出てこない。優しくしたいのに、
優しくいたいのに、優しくいられなくなる。


ー すぐに言葉間違えそうで
 傷付けたり怒らせたりしそうで
 気をつけるようにしていたら
 ただ喋れなくなっていた ー
BUMP OF CHICKEN /Small World


 歌が私に沁み渡ってきた。

 何も進めていないのは、どこからだろう。辿ればもっと前からだけど、けれどやっぱりずっと、ずっと愛されたかったのだと思う。愛されたかったと思うと、やっぱりまだ夜神くんのことを想う。


 夜神くんのことを想って泣けるのは自分ひとり布団にくるまっている時と、親愛なる友人の目の前だけ。でも、その夜神くんのことも手放しはじめている自分に気づいている。これを手放したらさらに目の前のものがなくなってしまう不安に包まれる。けれど、それでも、親愛なる友人はきっといてくれる。



 何にもできない私のそばにいつもいてくれる
親愛なる友人。


 Small Worldが流れる間、
夜神くんのことを想っていた。
同じように、親愛なる友人のことを想っていた。


 夜神くんのことを好きだとずっとおもってきた。今もおもっている。もちろん、あの頃の夜神くんのことをまだ好きなのもあるのかもしれない。けれどさっきふと、


 誰かを好きになってしまわないように、
 誰かに本気になってしまわないように、
 ずっと心の中に夜神くんをおいているのかもしれないなぁと感じた。

 やらなければならないことの隙間で生まれる
寂しさや苦しさや辛さを、他の誰かではなく叶わないだろう夜神くんへの気持ちに変換すれば、ただもう傷つかなくて済むから。仕事や今後のことや自分の身体のことから生まれるどうにもしようもない不安や苦しさを、頭の中で錯覚させて紛らしてるだけなのかもしれない。



 ただ毎日を、ふわふわと生きている、
ただ毎日の小さな生活のなかの幸せに満足して、
夢を描いて、誰かを想って、そんな小さい幸せでいいと思う一方で、


 やらなければならないことや社会的責任、
うまくいかない現実、叶わないこと、叶わなかったこと、どうにもならない過去にどうしても、もがいてしまう。苦しくなってしまう。


 やらなければならないことはやらなければならないし、社会的責任は結局いつかきちんと背負わなければならないし、楽しいことばかりではない。辛い現実も、苦しい事実も遭遇する。でも、いつもすみっコたちの世界を心に住まわせて、ちゃんと、小さな幸せを、隣にいてくれる人を、空想でも夢を、見失わず、ちゃんと感じて生きていたい。


 心がホッとして、本当に落ち着く映画だった。


#すみっコぐらし


#すみっコ映画


#幸せ


#幸福感


 BUMPのSmall World 優しくなれるから
聴いてほしい。





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