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"Fラン"を知ったのは院卒後だった。


 よく"Fラン卒"とか、"Fラン"という言葉を聞く。
その言葉自体はなんとなく高校生の時もたぶん聞いたことがあったし、大学時代も院生時代も。つまり、教職課程履修中、塾講中も聞いていた。




 そして、日本の大学においては偏差値表に基づくランクがあることもなんとなく知っていた。"Sランク"が国公立では東大、京大、一橋大など、私学では早慶などを指すことはなんとなく知っていたし、自分の出身大学が中堅私大と言われるあたりにいることもわかっていた。




 けれど、実は、Sランク〜Fランクの大学にそれぞれどの大学があてはまり、S1にはどこが、S3にはどこが、Aランクとは言ってもA1はどこの大学あたりでA2はどのあたりで…なんて詳しく把握できていなかった。




 ただなんとなく、東大、京大、東工大、一橋を含めたあの辺りの大学群がSランクに入ってるだろう、私立なら早慶はSランクというやつだろう、とか

 その他の有名国公立あたりがAランクだろう、自分の出身大学は真ん中前後くらいだろう、程度で


 どこの大学が何ランクなんて、考えることもなかった。自分の大学受験生の時にも、先生にも親にも偏差値の話はされても特に"ランク"の話をされることはなかったし、就活の時に、いわゆる学歴による大学別で得られる情報や条件が異なる程度は認識していたけれど、大学1年の冬から就活を考えて、大学3年の5月末から就活をして、その就活も大学院進学のために内定を得たいための就活で最終的に塾だけに絞ってそれも、なるべく春から夏前くらいに内定が取れるところに絞っていたからいわゆる"大手企業"の就活みたいなのはしなかったから何も関係なかった。もしかしたら、11社出して落ちた3社のうちどこかは、学歴シーリングに引っかかったかもしれないけれど、履歴書だけで落ちたところはなかったと思うからただの私の実力不足だと思う。




ちなみに私は、都内住みなのだが、
どこの大学に行きたい、といよりは
とりあえず英語好きだから英語関係で大学でもう少し勉強したいという考えで大学へ進学希望だったので、文学部と外国語学部と国際コミュ関係で
高一の時オープンキャンパスで見に行ったところで気に入ったところで大学の希望順位は
第一志望が慶應義塾大学、
第二志望群が上智の2つの学部
第三志望と第四志望がGMARCHのうち2校
そこまでは実力的に厳しいだろうということで
以下、一度も足を運んだことはないが中堅私大と言われるところが2校(うち一つ女子大。この女子大は高一でオープンキャンパスに行っていて、足を運んだ女子大で唯一気に入ったところ)
そしてあとは抑え3校女子校で受けた。


 受かったのは中堅私大の1つと抑え3校だけで、
中堅私大の女子大とGMARCH以上は落ちた。これは完全なる言い訳になるが、そもそも大学受験勉強をきちんとはじめたのが高3の11月、その11月に気持ちが入らなくて絶賛停滞期だったのが悪いのだ。結果として私は、12月の女子大を2つ受け終えてやっと、ああ受験なのだ、と実感した。受験生としての生活は失敗したけれど、高校生としての生活は大満足でほとんど後悔がないから私は大学受験に関しては、「勉強しなさいよ」とは今振り返って思うけれど、やり直したいとか、こんなはずじゃなかったとか、この大学で失敗とか思わない。何より、今の出身大学に入らなければ教職課程をとらなかったし、英語教育にも第二言語習得にも興味を持たなかっただろうし、英文科でもなく、コミュニケーション学科てきなところでもなく、英米文学科にいたおかげで得られた知識や考え方があって今の私があるし、大学院進学したいと思えるほどの先生方と出会えた。


 だから、特段今の出身大学に入ったことも、卒業したことも後悔していない。一方で、今の大学が第7志望の大学だったという点においては、大学受験のみをとりあげれば、"失敗"といえる。結果論的にこの大学だったからこそ得られたことはたくさんあったしこの大学だったからこそ広がった進路や得られた人間関係があるけれど、一方でそれは第一志望や第二志望の大学に入っていればそれはそれで同じように思えただろうし、今持っていない何かを持っていた可能性もあり、その反対に今持っている何かを持っていないだろうから、
 良いとも、悪いとも思わないわけだ。




 それなのに、社会は、教育業界では、学校では塾では、就活市場では、

Sランク大学
Aランク大学
Bランク大学



と区切られる。
(ちなみに言うと、私は学歴至上主義はいかがなものかと思うが、学歴フィルター反対派ではない。学歴というのは先天的に与えられた経済状況や家庭環境の恩恵とその人自身の努力の総合だから、学歴だけでその人が評価できるわけではない一方で、学歴も一つの評価指標であるわけで、一定の大学や高校、専門学校などを卒業できるというのは、それだけの努力の結果にもなるし、通う学校によってやはり学生の質というか、雰囲気というか、学力も含めたレベルがあるのは、間違ってはいないだろう。もちろん、その大学に通っている=この人はこういう人、とすべての人に当てはまるわけではないが。)


 そんなこんなもあって、わたし自身は
第7志望の大学であったし、世の中的にも中堅私大あたりなのはわかっていたし、だから偏差値がどのくらいというのはなんとなくわかっていても、ランクがどうとかをそこまで気にしたことがなかった。そして、実を言えば、高一でオープンキャンパスに行った中で、雰囲気が良い、楽しそう、これを学んでみたいという感じで志望校を決めて行ったので、偏差値やランクで志望校を決めたわけではない。おまけに、私が足を運んでここに行きたいと決めたのは第6志望までで、第7志望だった今の出身大学以下女子大も入試日まで一度も足を運んだことがない。


 現在の出身大学に関しては、父に、第6志望にしていた女子大と同じくらいのレベルかつ歴史ある大学でいいところだし、日程的にその日空いてるから受けてみたらと言われて受けたのだ。


そんな程度の感覚で受けたわけだし、学校説明会にもオープンキャンパスにも行ったことがなかったから入学する時も、受かった女子大の一つ(ランクでいうとDランク中位)と出身大学(Cランク上位)で迷っていたくらいだった。
(大学入学時点では受かった大学の偏差値もランクもよくわかってなかったから、どっちなら何ができるか考えて迷っていただけ)





 そして、この出身大学で教職課程をとり、第二言語習得ゼミで卒論を書き、大学院進学したいと考えて、大学院に関しても、他の大学の先生という手もあったろうが、自身のゼミの先生からまだまだ搾り取れることがあると考えていたこと、
他の大学のゼミに院ゼミ参加したり、先生方とコネクションをつくりながら就活をしながら(大学院入試受験の約束が内定3つ以上とってくることだったため)、
卒論を書きながら塾講で中学受験生3人とそのほかの生徒たちを見ながらなんてことは私には難しかった、自由に研究させてくれると確信が持てるのは指導教授のもと、書きたい論文内容の方向的に他にピッタリの研究者が非常に少なかった(考えていたのは青山学院大学の教授だけで後は適任は自分のゼミの先生だけだった)、青学の大学院生の人数と自身の大学院に進学する人数を考えると後者の方が少なくてきちんと面倒をみてもらえる、内部進学すれば取りこぼしていた教職課程の履修をしやすいなど(特に最後の理由が決め手)の理由から、自身のゼミの教授に大学院で指導を仰ぎながら研究をすることを選んだ。





 大学院に入学する時、他の女子大(Dランク:女子大としてはランクは上の方)に通う友人が、私とは別の(そしてその女子大とは別の大学ランク分けでいうと学部はAランクの)大学院に進学するということで、中高の友人たちが彼女の院進報告投稿に、そんな(偏差値が高い大学の)大学院すごいすごいと書いていた。友人は、"私は学部の時にあの先生に指導仰ぎたかったけれど大学受験では届かなかったからこの大学院に進学するだけなのに、やたら大学名だけですごいすごいと言われるとなんか嫌だな"と言っていた。そして、その友人がすごいすごいと言われるたび、中堅私大の内部進学で大学院進学した私は、やはり院進以外の人たちから、偏差値的に彼女の方がすごいといったことをいわれて、少し嫌な気持ちを持っていた。


 その時初めて、

 みんなそんなに、大学ランクや偏差値というものを意識したり、認識したりしてるんだなあと思った。


 わたし自身、わたしの出身の大学に関しては、大学生活を十二分に楽しんだし、悪い大学でもないし、人数の多いマンモス大学でもなかったし、少人数ででも共学でこじんまりとしているけど、学生が世間的に目立って荒れてることもなく、特にわたしの周囲の友人たちは極めて真面目で素直で優しくて頭の聡い子たちが多く、

そのまま内進した大学院でも、先輩も後輩もみんな同じ学部からあがってきた人たちだったが、優秀で、聡明で、温厚で、優しくて、面倒見が良くて、この人たちに出会うために大学院へきたのだと思えるような人たちばかりだった。


そんな中で、学部生の塾講時代は小学生と中学受験を教えていて、院進のためだけに就活をして、内部で院進し、周りも内部から上がってきた人たちで、大学院時代もD進を考えていたし、受けたのも東京都教採だけで就活はしなかったし、院卒後も東京都教員→VC→アフタースクールときたので、特に大学ランクなるものを知る必要もなかった。





 本来、教育で生きていて、教員免許を取得している私は、"教員"という立場になることも想定してもう少し大学ランク分けについて知識を持っているべきだったと今は思うけれど、私が大学のランク分けをきちんと認識したのは現職について仕事で必要になってからだったし、それは現職になって必要に駆られて知っただけにすぎない。(そしてそれは、大学受験からおよそ10年経っていたので、私の大学受験当時と多少ランク分けに違いが出ている。)


 2022年4月更新のランク分けをみた。
S上位〜E下位までは大学名が乗っていてF級には
「Fランク大学」とだけ示され、短大や専門学校は学校名なしにその他と書かれていた。つまり、


Fランク大学


と世間で言った場合、四大で、
このランク表に名前の記されていない大学ということなのだろう。

その表では私の第一志望の大学がAランク上位
第二志望の大学が準Aランクとなっていて、私の出身大学はCランク上位にあった。


 それを見てやっと、(いわゆるその表内ではCランク中位やDランク中位、Eランクに入る)友人たちに

「あなたは、大学受験勉強しなさすぎて失敗したとか、大学受験失敗だった、とか自分は頭悪いし、とかいうけどさ、あなたの入った大学に、あなたの受かった大学にも入れなかった人たちいるんだよ」と言われた時の意味合いがわかった。


 そして、ランクを知ったその時に、
ああ、みんな大学のランクなるものをいつのまに知っているんだなあ、と感心した。教育を専門としているにもかかわらず私はきちんと認識したのは最近なのに…


 彼女たちが大学ランクがどうとかを詳しく知っている、わけではないと思う。けれど、私の行くn大は、自分(彼女)のm大よりなんとなく世間的な?偏差値的な?評価(:いわゆるこのランク分けをする時の区分の指標となる評価)が上だ、と認識があるんだなあと思ったのだ。


 そして、noteを色々と読むようになって
「Fラン卒の私が…」と言った題名や内容を読んで、ははあ、みんなFランがどことかいつの間に知っているんだなあ、と感心した。


 もちろん、こうした人たちの中には、
特段ランク表に基づいているわけではなく
揶揄したように表現する人もいるだろう。それでも、私はFラン大学という言葉も、Fラン大学生だという人も、Fラン大学卒だという人も、noteの中で知ったのだった。


 さて、院卒5年目になるまではっきりと大学ランクも知らず、Fランという言葉は知っていても使う機会もなく、FランがどこでDランがどこでとか自分の大学のランクは何でなど調べることもなかった私が、この、ランク分けに関して思うことといえば、


 ①大学ランク=その人の人間性全体ではない

 ②一方でやはり"頭が良い"と思う人はSランク〜Aランク大学卒が多い(とはいえ私と同じ大学卒の友人たちにも優秀な人たちは多いので、Sランク卒だから頭がいい、ではないが、比較的知識量、見識、人間性などで特にSランク国公立大学の学生には優れた人が多い)
(もちろん、『彼女は頭が悪いから』に書かれた男子学生たちのようにこうした上位ランク大学の学生にも人間としてどうかという人はいる。そしてそういう人たちが"ごく一部"ではないことも知っている。一方でみんながそうというわけでもない)

 ③どこの大学卒だろうと院卒だろうと、入社時などには一定程度"皆同等レベル"、初めてのことがあるし、実力というものは、能力×経験で考えられるものだもするならば、仮にその、学歴フィルターなるものによって能力わけされた時、


(能力に関して何を100というか問題はあるが、ここではその仕事において必要な技能、知識を含めたものを能力とし、その全体を100とする)能力値70のAさんと能力値30のBさんがいて、


1年目の段階ではAさんの方が"仕事のできる人"となるだろうが


実力が能力×経験で考えられるのであれば、


能力値70で入ってきた1年目のAさんより、


能力値30で入ってきた30年目のBさんの方が
実力的に上であることは十二分に考え得ることである。



 さて、そうした場合、大学ランク分けなるものの問題は何なのだろうか。


 有名企業の多くは、1年目からなるべく優秀な人材が欲しい。なぜなら、営利企業にとって利益を、売上をもたらさない人材はコストでしかないからだ。だから新入社員等は、研修期間は売り上げをもたらさないのに(教育にかかる)人材、時間、(給与などの)支出がかかるコストでしかない、のがいわゆる労働資本主義における考えだろう。(ちなみにこの考えは大学3年生の就活を始めた時に学んだ)そう考えれば、採用の際から、なるべく即戦力になる、理解力の高い、知識や見識豊富な、頭の回転の速い人材が欲しい。その指標が大学ランクなのだ。


 いわゆる、スーパー内部(小学校から大学までその大学などの完全内部進学者)以外は、どこかのタイミングである程度、蹴落とされる競争の中での勉強をしてきたわけで(AO入試制度による進学者は、受験生には近年人気だが、こういう視点から中年の方々からすると、「AOで受かったってことはさあ、」となる可能性もあるし、一定程度の大学であるとAO入試でもかなり苦労するとは思うが、なかにはやはり勉強できないけれど、○○ができるから…という理由で得意分野一点で入学を目指す人もいるだろう。それが良いか悪いかはおいて。)その勉強してきたことが、知識、実力となっていくならば、

やはりそれなりのレベル(ここでは大学ランクの意味)の大学に入った、卒業できる=それなりの人材である、と考えることになる。どこかのタイミングで、とても頑張ったからその学歴を手に入れているわけだ。


 そして、その大学のなかで人間関係を育み、その学歴や人間関係で得られる知識、見分、情報を得られる。


 大学ランク分けなるものの本当の問題は、


この、いわゆるランク表で区分されている、


このランクの、上と下の人間たちでは見えている世界も、得られる人間関係も与えられるチャンスも異なるわけで、そのなかで、自身はどう生きていくか、どう何を得ていくか、何を楽しむかが問題となっていくはずなのに、やたらFランという言葉だけが先行していること、逆に「Fランだから...」「慶應だから...」と同じ大学の人を一括してラベリングする人がおおいことと、


世の中には階層もフィルターもあるのに、「学歴フィルターはない」とか「Fランでもなんでもできる」といった希望を持たせる提言をする人たちが多いことが未だ多いことではないだろうか。


前者はおよそ多くの方が想像できると思うので後者の問題について語りたい。


後者の何が問題かというと、
学歴フィルターは確実に存在していて
見える世界も与えられる選択肢も得られる情報や人間関係も周りの人間性や学力レベルも、全く異なるのに、そしてそれらが自分自身の知識量や人間成長、進路選択や将来にわたる所得格差、または出会う人々などに影響するのに、それらを無視していることである。


そして、そのまま、経済格差や情報格差、知識格差、機会格差(特にこれ)が例えば当該人Aさんと別のBさんが結婚したいとかパートナーが欲しいと言った場合、その出会う相手の範囲が異なる可能性が高いこと、仮にそうなっていった場合、当該Aさん親の学歴、知識量、人脈、収入はAさんが家庭環境を構築し子どもに再生産され、Bさんの学歴、知識量、収入などはこれもまた子どもに再生産されるのである。


 ちなみに、本記事では、ランクの話をするためだけに大学卒の人たちを前提に話を進めてきたわけだが、そもそも大学に進学できる人という時点で、Sランク大学だろうがFランク大学だろうが、社会的に、経済的に一部の恵れた人である可能性は高い。その一部の大学進学者においても、やはりAさんの学歴が子どもに再生産されたのと同様、Aさんが例えば早慶などに入れたという場合、そもそもAさんの親がAさんがそうした学歴やそれらを得るための学習環境を整えられるほどの余裕や経済力、良い環境を与えることができる人だった、ということで、

もちろん、なかには貧しく十二分に勉強できる環境を得られない中で努力して知識を、学力を身につける山田太郎のような人もいるかもしれないが、やはりその山田太郎も、家庭のために大学進学はしないと、進路選択で提出した。(山田太郎ものがたり、というお話があります)。


 こうした内情を含めた環境要因が、学歴に影響していくのにも関わらず、つまり生まれてきた環境は大いに学歴や得られる知識、人間関係、環境に影響するにもかかわらず(もちろん、私のように努力不足や実力不足による不合格を経ての今の学歴という人も多くいても)、その結果の学歴はすべて自己責任で抱えなければならないこと、受験時や就職時にそうした過去の背景が無視されること、学歴によって生涯に得られる経済力がかなり変わってくるのが事実であることだろう。


 中卒の人、高卒の人と大卒の人という違いもあるし、大学卒でもやはりそのSランクなる大学卒で学歴フィルターを通り抜けて十分な収入を得られる会社で頑張れる機会を与えられた人と、Fランなる大学にいて学歴フィルターに引っかかって自分の理想通りにいかない人もいる。さらにいえば、受験したくてもできない、進学したくてもできないという時点で日本の学歴社会は公平性に欠けている。


 大学卒だけに限っていえば、そもそもそのフィルターを通ってある程度自分の大学はこのくらい、自分のレベルはこのくらいとなってくると、挑戦する機会や条件が与えられないだけでなく、それらによって「私なんてこんなものだろう」と自身の能力値に上限をかけてしまうことも大いにあり得るという点も問題だ。


 その上で、この"Fラン卒だから"とか"Fランだから…"という人たち(当該人がFランク卒ではなく、そういう人たちを嘲笑する場合でも)の一部には、さまざまな理由で大学に進学できない人がいることがやはり"見えない"こともある。
(この場合の"見えない"は、いわゆるSランク大学の人たちが学歴フィルターに気づかない場合と同様)


 先にも述べたように、私は学歴フィルタそのものは悪とは思わない。それらは、家庭環境の恩恵が大きく作用しようとも、やはりその人の一部であり、その人の努力の一部でもあると思うから。そして営利企業などが人材をとる場合に、学歴フィルターをかけることも一部仕方ないと思う。


 仮に履歴書1枚1秒で見たとして1000枚きたら、ただ履歴書を見るだけで1000秒(17分)かかるわけで、何千、何万ときた場合、会社にとってコストの大きい「人材採用」という場面にそれほどの時間や労力やお金(採用者たちの給与やその業務をしている時間の高熱費等)をかけられるわけではない。そういう意味で、もともとチェックする対象人数を狭めるのに、学歴という指標は非常に使いやすいと思う。


 だけれども、学歴フィルターが存在していることを、学歴フィルターを通っていける人たちには認識することが難しい。もちろん出身大学だけで人生が決まるわけでもなく、Fランなる大学卒業だったら失敗というわけではないのだが、しかし、与えられるチャンス、得られる情報は異なること、経済格差の影響の場合、選択肢がないことや得られる情報がないということがあまり認識されていないことが問題で、学歴フィルターを通っていける学歴を持っている人たちには、その下の人たちの処遇や状況は見えにくいことが多いのだろう。


 日本全体でさらなる問題をあげるとすれば、日本の大学進学者の一部は、「経済的に大学に行けるから、またはなんとかいけるから、就職のために進学する」とか「みんな進学するし、まあなんとなく進学する」とかもちろんもう少しやりたいことがあるとか具体的理由がある人もたくさんいるのだけれど、

 大学という研究機関・学問機関が、就職のための過程の一つとして考えられていることがほとんどで、およそ大学院にいこうなどのこうした研究をしたいという人たちや、こういうことを勉強したくてそのためにこの分野の大学に行きたいなどの意志がある人でない限り、大学進学できる家庭環境を持つ人の多くに「まあ周りも大学いくし、就職とか諸々含めて大学行くのが"一般的"だから行く」が多くいることだろう。そして多くの大学が、特に中堅以下の大学が、定員を満たすために、学生にやさしくあろうと、就職に力を入れているだとか、留学に強いとかを推し、どんどん手厚くなっていることだろう。


 大学という機関が本来、学問を研究する機関であるにもかかわらず、諸外国に比較し日本では、政治家や教育者に修士卒、博士卒が少ない、政治家や教育者にかかわらず、修士や博士進学が"特異"に扱われすぎているというのが、結局のところ、優秀な人は海外の大学、研究機関、そして海外での仕事へと流れる理由のひとつでもある。(おまけに日本では、税金や生活にかかるお金に比較し、収入の伸びが小さいし。)


 偏差値教育はいずれは終わるだろうし、学歴がどうこうも人生の選択肢において大きな影響を及ぼすにせよ、それだけが人生における幸不幸を左右するわけではない。けれど、大学ランク分け、入学時の能力によるシーリング、または、親の学歴や経済力により見える世界が異なることをもっとはっきりと事実と認めた上で、近年増えている各学校で異なる成績基準にもかかわらず一律で5段階評価のうち4.0以上の生徒などとする指定校や学力試験を除いたAO入試などは、もう少し検討していかなければいけないし、それらに通ずることのできる"家庭環境に恵れた生徒"だけが、実際的に得られている権利(もちろん彼ら彼女らの実力も上乗せはあるが)があること、偏差値だけに留まらないがやはり偏差値という一つの指標での区分で、どこの大学かで、学問の環境や情報、そこにいる研究者たちの感じが全く異なること、

Fランなどと揶揄される場合や学歴フィルターがあるなどという場合、大学卒ばかり前提になっているが、大学卒の割合は55%(うち四大卒は50%)であって、専門卒も含めれば高校卒業後の進学者は76%ほどになるし、就職を希望する人がいるにしても100%ではないという時点で日本において学歴による分断があり、学力は親から子へ、家庭の経済格差、環境格差、リテラシー格差などで再生産される可能性が高いことは、もう少し考えられるべきであるし、


大学機関は、今のように"教育機関"と"就職予備校"的なモラトリアム機関ではなく、学術機関としての役割を果たすべきなのである。


 そのためには、ノーベル賞を受賞した本庶先生などが仰っていたように、研究者の研究時間、研究費用、資金など研究を底上げする要素が削られていっては困るし、仮に学部卒後、就職という道を選んだとして、大学機関をもっと"研究機関"としての認識を国民が持つべきなのだ。(そのためには現在のような就活スケジュールなども見直すべきである)がしかし、結局そうならないのは一重に、採用する側が学生の授業や研究成果を就活にさほど起用しないからだろう。(理系の場合少し異なるだろうが)


 そして、結局、学歴においては
入学した大学の名前のみでの仕分け=学歴フィルターが有効になるわけである。

先にも述べた通り、Sランク大学卒なら人生安泰、Fランは不幸などということは決してないと思うのは、幸せ、幸福の指標が経済的なことに限らないからだ。がしかし、どの大学に入るか、どの大学を卒業するかで(特に専門分野に注力することのない学部卒の場合)見える世界や得られる人間関係が異なることに気づくのは、自分とは異なる世界にいた人と出会った時や学歴フィルターなどの分断によって自分が何かを得られなかった時となるのだろう。


 そして、大学院生を、"学生"(=学部生と同じような意味での学生扱い)と認識する人が多い(特に文系院生だとそう認識されることばかりです)日本社会は(とはいえ、日本の大学院生の場合、専門分野に注力するほどの時間を与えられるわけでもなく、また修士だと特にただ忙しくなるだけで完全に学生扱い)、学歴フィルターだのなんだのを使っているにもかかわらず、高学歴者(大学院卒や研究者)が社会をリードすることも少ない。保守的だ。


 学歴フィルターや採用などにおいて"Fラン"という言葉が飛び交う。そしてそれらは密かに、"まあでも、仕方ないものだ"、とされている。しかし、フィルターを大学卒よりさらに広げれば、社会の分断の問題が見えてくるはずだし、高校卒業→学部進学→就職の道を辿る人が多数占める日本社会のなかの就職問題では、高卒以下のグラスシーリングをなかなか問題にしないし、逆に、大学院進学を特殊なものとする前提がある。


 そうした背景のため、大学は学術機関というよりは就職前提のモラトリアム機関のような扱われ方をするし、学生たちの多くが学部卒→就職を前提に大学へ進学し、企業も学部卒→入社を前提とするから、はやくから良い人材を確保したいと就活はどんどんはやくなっている。そして、大学自体も、子どもの数が減っていることや補助金が少ないことなどの影響か、

より学生にやさしい、学生によりそう、丁寧な"学校"が増えていると感じる。


 以前から思っていたことだが、我が母校も、
大学案内を開けばキャリア支援センターの手厚さやどんなところに就職したかの結果、就活のためのセミナーがいかに充実しているかや、学内研修、学内インターンの充実を推す。結局のところ、学生を確保できなければ大学は運営できないし、規模の小さな大学となると、一人一人への手厚さを魅力として押し出すしかないのは必然。


 がしかし、学部生だった頃から違和感を感じていた。大学がこんなに手厚くしなくても…結局、自分で得るものなのに…と。そして、大学側が就職のためにいかに手厚い"教育"を施すほどに、"研究機関としての教育"には時間も資金も提供されなかった。私の大学院は、特に私の研究科は教授たちは研究やそのための勉強に関しても熱く、丁寧で、授業もきちんとする人が多かったが、大学院生のための施設や大学院生のための環境が十二分だったとは言えないだろう。
 Fランと言われる大学ではなかったけれど、決して研究機関として良い大学だとは思わなかった。そして、大学進学した人たちがほとんどの友人関係の中で育ち、周囲の仲良い人たちは院進、または大学院行きたかったけれど就職した人たち、大学院に対して肯定的な人たちの中で学部後半から大学院生を過ごした私は、やはり自分の周りの環境、同じ大学の同級生、同じような学歴の就活生、同じような環境の大学院生たちに囲まれていた。高卒で働く優秀な方と相見えたのも、文系で大学院まで出るとその時点で逆に就活でフィルターかかってことごとく断られる(私の実力不足や資質の向いてる仕事でなかったのもあれど)こととも、年齢制限があることも、女性だと特に年齢や採用でそれを理由に断ってくる採用者が未だかなりいることも、大学院を修了してから知った。


大学のランク分けなるものをはっきり認識したり、そのランク分けと進学を見たのも現在の仕事をはじめてからだ。


 教員免許をもち、長い間教育と携わってきたのにもかかわらず、だ。結局のところ、学生のアルバイトでの教育の特に進学関連に関しては、シーリングを目の当たりにすることはあまりないし、教職課程でもやはりない。およそ、教員になる人たちのほとんどはどの大学にせよ、(一部別の方法で教壇に立つ人がいても)大学卒、教職課程を履修し切る程度の真面目さ、学生時代にも教育に携わることに関心を持ち、携わってみたりし、公立にしても私学にしてもなんらかの教員採用試験を通ってきたという人だ。もちろん、教育者である限りは、生徒と向き合う中でさまざまなことを知り、考え、感じるだろうし、そういう人たちは貧困の現状や進路の現状もそれぞれの生徒に合わせて調べ、ともに考えたりする。けれど、やはりどの大学卒だったとしてもやはり教員も一部の人でシーリングというシーリングに合わずに生きている人も多いんだろうなと思う。


 よく、ジェネラリストかスペシャリストかという話が就活の時にあった。本来のジェネラリストの場合、総合的な判断力や決断力を基にしたマネジメントの立場をいうのだろうから少し意味合いが異なるが、就活の時の意味合いでいえば

ひとつの専門を極めるスペシャリストの対極として多様な業務をまんべんなくやるジェネラリストとおかれていた。そういう意味で、雇用の安定しない、またひとつの会社に勤めたり、会社に雇われるだけでない働き方が広がった現在では、何かに特化した才能や技能、知識を持つスペシャリストが重宝されていくだろう。そうなった時、このグラスシーリングが密かに続くなかで、親の経済格差が子どもの学力格差へ再生産されているサイクルが続く社会のままで、大学院という組織を軽視し、大学期間を研究機関と認識しない企業側、学生側、大学側の状態のままで、大学卒・大学院卒でも特に女性の非正規雇用が続くこの日本経済社会で、何をもってスペシャリストとされ、どの程度の人材があつまり、日本の社会はどれほどに豊かになるのだろうか?学術を軽んじた社会における大学のレベルや組織はどうなっていくか。想像は難くない。


 日本に経済格差はほとんどないとか、日本は豊かな国だと思っているのは、不都合な真実を隠したい人か、なんの苦労もなくお金の入る恵まれ側か何も知らない人たちだけだろう。


Fランがどうという記事や、大学ランク分け表をみながら、ふとそんなことを考えた。


 学歴社会や学歴や大学組織や学校という場について、指標や話題の一つにするだけでなく、大学卒業時点や入社時点ではなく、もっと時間軸という空間的線的な見方に変えていくべきではないだろうか。

 そこにはその人の家庭環境格差と能力格差、努力値、専門性などさまざまな視点が取り入れられるといい。



さて、そんな私は恵れた家庭に育ち、
私学の大学院まで出してもらったのに、
自立もできず懐育ちでいるのは、
これは実力不足×経験のなさ×体力値のなさ
で、体力値がある程度"アンコントローラブル"なものなら、経験のなさと実力のなさを動かすしかない。


そんなことを考えていたらまた夜更かしして5時を過ぎていた。


#学歴社会


#学歴フィルター


#グラスシーリング


#分断

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