見出し画像

蕁麻疹と喉の痛みと檸檬


 喉の調子が悪くなった。正確にいえば、金曜日の勤務中くらいから調子が悪い。なんというか、喉が渇く感じと、何かがつっかえている感じで、咳も止まらないし、喉が痛い。


 とはいえ、熱もなければ、"風邪ような咳き込み"もない。


 そして、今は、喉の痛みより左手左腕に広がる謎の湿疹とかいてしまって血だらけの腕の方が気になるし、


 木曜日くらいに洗面所で落として無くしてしまって全てのものを退けたくらいどけたのに謎に見つからないピアスの方が気になっている。


 ちょうど、梶井基次郎を読んでいたから、


なんだか、彼の病弱性と自分を重ねてしまう。


 梶井基次郎の作品は、自身の心の働きや感覚を切り取った描写がある。


 蕁麻疹も数日前からひどくなっていて、蕁麻疹の上から新しい蕁麻疹が出ている。


 福島から帰ってきた後くらいから、特に手と腕(特に左手と左腕)が痒くなって荒れて傷だらけだ。



 おまけにピアスが消えて私の心持ちは不安定なまま。

 仕事で本の紹介ポップを作るために、梶井基次郎を借りたのだけれど、借りたから読んでいるのだけれども(実のところ、梶井基次郎に関しては「檸檬」と「桜の樹の下には」が気に入っていたけれど、それ以外の作品は読んだことがなかった)、鬱々たる日々の中で、命を搾り取って生み出したような彼の作品を読むのには、一定程度の心身の健康が必要なのだと、この度読んでから気づいた。



 檸檬はまだ、爽やかな方で、比較的読みやすいし、桜の樹の下には、は、短いのでこれもまた読みやすいのはあるし、むしろ、彼の作品における「檸檬」や「桜の樹の下には」は、少し特殊な方で、倦怠や鬱屈した心情から脱して、感覚の世界の不思議に驚くというのが、梶井基次郎の世界の基本だ(解説にもそう書かれている)。この二つの作品には特に、内面を描くというよりは自己と世界との葛藤が色濃く描き出されていて、そういう方がむしろ私の好みだったのかもしれない。


 レモンイエロウの絵具をチューブから搾り出して固めたような紡錘形の恰好のあの檸檬を、丸善の本棚に置いて爆発する妄想を図る、その気持ちが、私の中にもあるのだ。梶井基次郎ほどの想像力はないけれど。あったのだと思う。


 おそらく、桜の樹を見上げた時に、その桜色を見上げてただ美しいと喜べるのではなくて、あの異様な幻想的美しさを放つその下に、まさに花を咲かせた生の対比としての、屍体、死の存在を想像し、あの異様なまでの美しさが持つ、恐ろしさとか畏怖の背後には、死があるのだというような想像により、えもいわれぬ特別な感覚を持つのは納得がいく。そしてやはりこの物語の主人公も、不安と憂鬱の中に生きていて、花の盛りに死を重ねることでどうにか心の均衡を得ようとしていると、解釈できることも納得がいく。



 レモンイエロウとか、桜のあのえもいわれぬ美しい色とか、


 棚に仕掛けてきた檸檬が爆発する妄想とか、桜のあの美しい色の下には屍体が埋まっていて血を吸っているのだという妄想とか。


 けれど、「檸檬」では

ー 始終私の心を圧えつけていた不吉な塊がそれを握った瞬間からいくらか弛んで来たとみえて、私は街の上で非常に幸福 ー

「檸檬」

になるのだけれど


桜の樹の下にはでは、


ー 俺にはその美しさがなにか信じられないもののような気がした。俺は反対に不安になり、憂鬱になり、空虚な気持ちになった。 ー

「桜の樹の下には」



 「檸檬」では、不安や焦燥や嫌悪を、手放したいと願っているようなのに、「桜」ではむしろ、そうした憂鬱や空虚を求めているような気がする。




 私は、梶井基次郎には詳しくはなくて、ただ『檸檬』と『桜の樹の下には』の言葉の選び方とか、表現の感じとかが至極好きというだけで、梶井基次郎は、たぶん、檸檬とか蒼穹とかのように、会話があったりするよりも見える風景とかそこと心情とが交錯するような文章の方が好きなんだと思う。

 私が患っているのは肺尖カタルでも肺結核でもないけれど、喉の痛みと胸の辺りのゼエゼエと、手脚の発疹、痒みが強くなるたびに、そしてその発疹が故の傷を、痕が残るとわかっていても引っ掻いては血を出して、その血を見つめながら、むしろ、腕をつまむなどして身体から血を搾り出してみたりしながら、


 喉の痛みというか、渇きというか、渇きによる痛みのようなものに、時折喉を鳴らしながら、


 梶井基次郎のセンスが羨ましかった。私には、彼のように寝込んでいてもなお、"神経衰弱でなければつかめない美"、神経衰弱だからこそつかんだ美は、降りてこない。



 非正規雇用だから、休んだらお金が減るし、伝染病を患っているわけでもないけれど、


 神経衰弱と、結果した喉の痛みや空気にすら押しつぶされるくらいにかたく重い身体を引きずりながら、


 一向に治ることのない、手腕の傷を、長袖で隠してようやっと生活していた。


 なんだかそれで精一杯になっているうち、7月はあっという間に1週間が過ぎてしまい、6月末週の多忙から、ふらふらと頭では思っていても動けないままに刻だけが、過ぎていく。


 梶井基次郎の文体が好きなのは、おそらくいわゆる「感覚のリアリティ」が好きなのだろうと思う。


 御礼の手紙を書きたいなと思ってからおよそ10日経ってやっと、御礼の手紙をどう書くか決め、そこから、書き始めるのにさらに3日かかり、せっかくこの時期だから、心ばかりの品をお贈りしようと思ってから動き出すのに3〜4日要した。


 私の心を始終圧えつけている憂鬱は、福島の友人と話していたときは、いくらか緩んできたと見えていたけれど、"日常"に戻ったらやはり、どこかに棲んでいて、これが持病によるものなのか持病になるまでのあの苦痛しかなかった日々によるものなのか、それ以外のものから来ているのかさえわからないまま、ただ、其重い心を引きずって私はもう6年も歩いているんだと思った。


 だから、檸檬を読むことを、欲していたのかもしれない。


 たぶん、わたしの中の"檸檬"を、今探していたのかもしれない。そんなものの一顆で、少しでも紛らされるなら。


 とりあえず、明日にでも、お手紙を買って本書きして、贈り物を探してすぐに「お中元」として贈らないと…。時期を外してしまう。


 ところで、レモンの旬は12〜3月だそう。
梶井基次郎の「檸檬」が発表されたのも1月だから、時期だったんだろうね。でも、なぜだか、「檸檬」を読むと、いつもそこが夏のように想像してしまうのは、なぜだろう。


 「檸檬」発表時、当時梶井基次郎はまだ23〜24歳とか。その若さが、わたしにはやっぱり羨ましかった。


 梶井基次郎の最高傑作は、「桜の樹の下には」と「冬の蝿」と言われているけれど、桜の樹の下にはは結構好きだけど、冬の蝿はなぜだか彼の作品の中では結構好きランキング低めなのよねえ。でも檸檬や桜の次に好きな、「器楽的幻覚」と、この「冬の蝿」はなんというか文章が、英語を日本語にしました!って感じを強く感じるよね…そういう意味でこの二作品も書き方が他と違うなと思ったり。


 実のところ、わりと予定詰めで忙しかったり全然集中できなかったり、体調を崩したままだったりして、全然集中して読めなかったんだけれども、そして他にやることもできないくらいだったんだけれども、


 久しぶりに梶井基次郎を読んで良かったなと思う。鬱々とした気持ちに彼の作品は、さらに沈められるような感じもしたけれど。


 ひとまず、本を置いて、他に溜まりに溜まったやるべきことたちを片付けていかないと、わたしこのまま本当に30歳になってしまう。


 "才能を持たないカラダ"が重過ぎて

 ベッドも部屋も沈んでしまいそうだよ。


#梶井基次郎


#読書


 喉の痛みに耐えていたらすっかり朝になっていた。


ありがとうございます😊サポートしていただいたお金は、勉強のための書籍費、「教育から社会を変える」を実現するための資金に使わせていただきます。