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滑り落ちてゆくものは。

スマホが手から滑り落ちた。

刹那、タイル地になった床に叩きつけられた。


拾い上げると、画面にヒビが入っている。



正確にいえば、スマホに貼った画面保護シートにヒビが入っている。


昔からしょっちゅう携帯を落とし、なくし、
スマホになってからというもの、
何度落として画面をバキバキにし、
何度トイレに落として水没させたかわからない。


iPhone SE2に替えたのは昨年の11月。
それまでずっとiPhone初代を使っていた。
2世代目になって私の手には少し大きい。
今は少し持つのも慣れたけれど、やっぱり大きい。
初期のは手にもう少しはまったけれど、その初期ですらストンと落としてしまう私には、二世代目は大きくて。とりあえず買った百均の保護シールととりあえず買った百均のスマホケースのまま気づけばもう8ヶ月以上経っていた。初代を使っていた頃、iFaceを買ったらすぐにケースが割れてすぐiPhoneがダメになってしまったことがあるから、意外と百均のケースの方が優秀。


iFaceにする前にはスマホリングをつけていた頃もあった。統計をとってないから、スマホリングをつけている時とつけていない時で落とす確率がどれくらい異なるのかわからないけれど、幾分マシだったのだろうか。でも、結局スマホリングが外れてしまうから、嫌になってつけなくなった覚えがある。


スマホを持てば落として水没させ、
スマホを持てば落として画面をバリバリBUDDY...
バリバリBodyにさせ、
保護シールを貼れば貼ったで保護シールがばりばり。
スマホリングをつければマシかと思ったらスマホリングが外れ、スマホリングをダメにする。
iFaceになったら平気かと思えばそのうちiFaceのカバー自体を壊す。


壊し魔もここまでくるとどうにもならない。


物はよくなくすしよく壊す。大切に扱ってない証拠だとよく叱られるけれど、大切に扱うというのがどういう感覚かよくわからないところもある。


壊したくない物は、使わない。
無くしたくない物は、壊したくない物は、
使えない。触れない。


でもそうすると、愛着が湧かない。

持っていることも忘れる。大切に扱うことがやがてなくなる。


とても気に入ったものは、よく持ち歩く、身につける、頻繁に使う。好き。でも、すぐ壊す、すぐなくす。


先日、母から譲り受けた、母が30年以上使ってきたという日傘を譲り受けた。さすがに最近日差しが強い。今まで日傘の一つもさして生きてこなかった私が、大切に使うぞ、と思った矢先、もらった次の日に無くした。結局今も出てこない。


大切にしようとするとなくなる。
大切にしたいのに消えてしまう。

手からこぼれてしまう。
握りつぶして割ってしまう。
大切にしようと思った矢先にどこに置いたかわからなくなる。


絶対になくさないように、と思うとき、
心のどこかでふと無くしそうな不安がよぎる。


なくなってしまう気がする、という一瞬の嫌な予感。
だから、「なくさないようにしよう!」なんてその時は思ってちゃんと入れたと思ったのにその日のうちにどこかへいって、そしてそれは永遠に出てこない。





元カレから付き合っている当時もらったのに
なくしてしまったものは今も出てこないし、
中学生の時にお弁当箱と水筒が入ったエコバッグを電車に忘れたはずのものは結局全線探してもらったのに出てこなかった。

昨秋なくして家から出ていないから家にあるはずだったiPhoneは、なぜか最後の現在位置情報は家だったのにしばらくしたら大阪でインスタがログインされていて、乗っ取りだと思ってそのうちアカウントを取り返したけれど、散々部屋のものを全て出して部屋を綺麗にしたのにiPhoneは出てこなかった。
母から譲り受けた日傘は、家、最寄駅、電車、学校、電車、最寄駅、ドトール、マンションの循環バス、か

家、最寄駅、大井町駅、お台場、お台場周辺ビル、
スタバと電話しバスの運転手さんにも聞いたけど結局出てこなかった。


そういえばなくなってからあっという間に1ヶ月近く経ってしまった。



大切にする方法を私はわかっていない。


しょっちゅうものをなくすし、忘れるし、
どこ置いたのか、自分がどこにいるのか、何をしていたのかも3歩も歩かないうちにわからなくなる。


モノも、人も、自分も、時間も、
何も大切にできていないのか…と思う。


お台場のスタバに電話して確認するのも、夜中になって、そうだ電話して確認するんだった!と思い出すのに次の日になったらすっかり忘れてまた夜中になって思い出してを2週間続けていた。


部屋を片付けることもそう。部屋を片付けようというのは心の奥底にもう8年以上持っている。でも、目の前に別の情報が現れると、一瞬で消える。


さあ、部屋を片付けよう、と思った矢先、
何かを見たらもう片付けることを忘れている。


無くしものや片付けなんていうオオゴトだけじゃない。


例えば、お風呂に入ろうとしてちょっとその前にスマホを持ったらお風呂に入ろうとしていたことを忘れる、寝ようとしてアラームかけようとスマホを手に取ったら寝ることを忘れる、お水を飲まなきゃなと思ってキッチンの方へ向かったらもう何しようとしていたか忘れる。


3歩歩くと忘れるのが鶏だとか言われたりするけれど、鶏が3歩覚えていられるのなら、私はせいぜい1歩以内しか覚えていないかも。というより新情報を見たら忘れてしまう。



忘れたくないことも、思い出が手から滑り落ちてゆく。忘れてもいいことやどうでもいいことなんかは覚えてるくせに。


どうでもいい写真に埋もれているカメラロール、
少しメモしたり何かすれば捨てられるものに埋もれる部屋、
どうでもいいものたちに埋もれて、溢れていってどこにいったのかわからなくなってゆく大切なものたち。


目の前のことに忙殺されて、
本当に大切にしたかったものを大切にできずに
気づけば溢れて壊れてしまっている。
一度集中してしまうと目の前のことに没頭しすぎてしまって、でもわたしの頭の中には仕事のこともプライベートのことも渦巻いてちゃんとあって、けれど他人から見たらそのいくつかあるのは見えなくて目の前のことしかやってないように見られる。だからそう評価されてしまう。


恋愛もそうだった。

別に恋愛している時、他のことをしないわけじゃないけれど、やはり付き合っている時に就活をはじめたら就活に没頭しすぎて相手に忙しいと感じさせていただろうし、大人になってきてからは恋愛している時に仕事が忙しすぎても相手には仕事の話をしなくなって、だからどんなに忙しくても忙しいとか、大変だとは言わなくなっていたけれど、逆にそれで彼は、私がとても忙しいことに気づかず、「俺のことに構ってる暇があるなら自分のことしなね」とよく言ってきた。暇だと思われていたんだと思う。


そして、大切にしようとしていたのに
どうしたら長持ちするのかわからないまま、
うまくつないでいけないまま、
うまく手の中に包み込めないまま、
気づいたら、バキッと握りつぶしてしまう。




友人関係も多分似たような感じ。


ただ、中高の同級生や親愛なる友人が、
何度私が無くしても、壊してしまっても
見つけてなおしにきてくれているから、
親愛なる友人の場合、無くしたり壊したりする前に、壊れないようになくならないようにしてくれるから繋がるだけ。



大切にしたいと、大切にしようと思ったものほど
すぐに無くしてしまうのは、壊してしまうのは、
どうしてなのだろう。


傘にmamorioをつけておけばよかった。
もしかしたら携帯を無くすかもしれないけれど。
前のiPhoneにmamorioをつけておけばよかった。
今のところ、お財布だけは完全に無くしてしまった、という経験はおそらくない。ちょっと置き忘れたとかはあってもその日のうちに数時間のうちにだいたい見つけている。逆を言えばお財布以外のものは大抵無くしてきた。

携帯(スマホの前、ガラケの時代から)、
定期
お弁当箱
お弁当箱を入れた袋
体操服
水着
靴、
マフラー
コート
靴下
手袋

折りたたみ傘

ペンケース
ペン
シャーペン
消しゴム
蛍光ペン
定規
時計
ジャケット
デニム


傘と折り畳み傘に関しては、
買って2分もせずに無くしたことがある。


無くしたものをあげたらキリがない。


東横線かみなとみらい線に忘れたお弁当箱の入った墨で汚くなってしまったキティーちゃんとピンクの鞄なんて東急線全線探してもらったのに結局見つからなくて、見つかったら連絡しますと言われたけれど無くしてから16年経った今も電話はかかってこない。


なくす少し前、嫌な予感がほんの一瞬掠める時がある。それを察知してなんか嫌な予感がするなと思うのだけれど、だから気をつけていこうと思って、しばらく何も起こらず、気をつけてるから大丈夫だと気が緩み、その前後でなくしたり壊したりする。なくす場合、けれどその気の緩んでいるときには気づかない。しばらくしてなくなったことに気づいてから
「え、気をつけてたはずなのに」と思うけれど、
そこから探しても最近は出てこなくなってしまった。iPhoneを無くしたときも、最後の記憶では眠すぎる中で手に持っていたiPhoneをベッドの上で手を離したのが最後のはずなのだ。目覚めたらもうなくて、探して探して探しまくったけれどどこにもなかった。けれど、最後の記憶が寝る直前に持っていたはず…という程度でおまけになくす前となくしたあとの間は寝ていたから記憶が定かじゃなくて。
でも、部屋のものほぼ全て引っ張り出して片付けて探したけれどどこからも見つからなかった。



iPhone2世代目のSEに替えてからなんとかこのiPhoneは無くさずに今のところ生きているけれど、
消えたiPhoneはいまだに見つからないし、安心しはじめてしまったらアブナイ。


定期もだ。どこのタイミングで定期がなくなったのか
全然わからないけれど、ある日気づいたらなくなっていて家を探し、駅までに通るお店全部に聞いて、駅でも探してもらって警察にも届けたけど結局は今も見つからないまま。


財布以外は大抵なくしてなくなったままだ。財布は無くしかけることはあっても無くしたことはほとんどなくて、ないなぁとなっても大抵その日のうちに見つける。でも他はめっきりダメ。



挙げ句の果て、モノを探して街へ出た自分の居場所がわからなくなったりする。今はiPhoneさえあれば、なんとか地図を出して現在位置情報見ながら家に辿り着くことができるけれど、昔は地図もめっきりだった。


小学生の時、最終の21:30前に家に着くバスに乗ったのに、寝てしまって運転手さんも乗客も誰一人私が乗ったままであることに気づかなくて、営業所に帰っている途中のバスの中で起きたら運転手さんがびっくりして、夜の暗い路でその場で降ろされたことがある。当時はまだ携帯なんて持っていなくて、夜遅い知らない街(今考えれば地元からそう離れているわけではないが、小学生の私の生活圏外)に突然降ろされた私は、なんとか歩き続けてやっと見つけた1番近くのセブンイレブンで地図と電話を借りて母に電話をして迎えにきてもらったことを覚えている。母が迎えにきて、結局家に帰ったのは、最終バスで帰っているはずの時間の1.5〜2時間後くらいだった気がする。


迷子は中高生の時もだった。
最寄駅から学校に行く路がわからないから最初の方は担任の先生に毎朝最寄駅に迎えにきてもらっていたようだし、家の最寄駅から家までの道で普段と1本違う道に入ったらわからなくなって15分の道を1時間も2時間も帰ってこなかった。


学校行事のバスの集合場所の時も、
最寄駅に集合時間の30分以上前に着いているのに
集合場所がどこなのかわからなくて彷徨い続けて
集合時間に間に合わなかった。


無くしモノも、尋常じゃない。大切にしたいモノを何度もなくしてきた。ひとつのモノを大切に長年使うということにとても憧れていたけれど、私は高いモノを買っても良いモノを買ってもすぐ壊すしなくすから、すぐに買い替えられるような、壊しても無くしてもショックが大きくなりすぎないような、わりとどこでも手に入りそうな、思い入れのないモノを使うようになった。日用品も洋服も、鞄も。


その習慣があってか、普段から持ち歩くようなモノでブランド物は滅多に使わない。カードケースとお財布以外ほとんどノーブランドのものなのは、そういう理由がある。


当然、無くしたくて無くしているわけじゃないけれど、自分の持ち物も把握できない。それは把握しようとしても次の刹那には頭の中は違うことが占有して前に考えていたことは消える。


部屋の片付けをはじめたら、部屋を片付けている時に見つけた何かに集中が移って片付けていることを忘れるし、そもそもどうやったら部屋が整理整頓されるのか頭の中にイメージができない。


勉強もそうだった。どんなに計画を立てても、
どうやったらうまくいくのかはよくわからなかった。


それに、忘れ物をしたり、何か不具合が生じると
パニック状態になってしまって突発行動をしてしまう。一旦落ち着いて考えなくてはならないと、普段から頭に何度も何度も言い聞かせているけれど、緊急事態に思考は停止している。いや、むしろ稼働しすぎてアンコントローラブルになっている。




 これまで大切にしたいのに失ってしまったのは、
モノだけじゃない。


 大切に関係を築きたかったはずの夜神くん、メロくん、マリア、Lくん。


メロくんは別問題もあるから一旦置いとくとして

マリアとLくんに関しては友人として適切で私がここにいてほしいと思う位置で仲良くなっていったのに、自分がアンコントローラブルになってしまった結果、私と彼らが良い関係を築ける距離は、「昔話したことのある同級生」程度の位置付けになってしまった。



夜神くんに至っては、もう話すことも会うこともできなくなってしまった。夜神くんと別れる1ヶ月ちょっと前、夜神くんの家に5日ほど泊まりに行って東京の家まで送ってもらった帰り際、バイバイした手に、何ともいえない嫌な予感がしていた。その2週間ほど後にデートした時(それが最後のデート)は、もう待ち合わせで会ったときから嫌な予感がしていた。崩壊していることに、無意識的にどこかで気づいて、でも直したかった。気づいた頃にはもう壊れて、修復したかったけれどどうすればいいのかわからなくて、ダメになって結局夜神くんが離れたいんだとわかって自分から手放した。


 多分、その前に何度も何度も、
手から滑り落ちて床に落として少しずつ傷がついていくスマホみたいに、ちょっとずつヒビが入っていたんだろうって、ずいぶん後になってから気づく。何度も同じような恋愛を繰り返しても、後戻りできない崩壊まで適切な修復方法を見出せず、結果見出せないままバリバリに壊れてしまう。修復しようとした時にはもう遅くて取り返しがつかない。


だから、壊したくないモノを引き出しの奥底にしまったままであるように、壊したくない関係も、手に入れたら奥底に仕舞い込んでしまえと時々思ってしまう。けれど、奥底に仕舞い込んでも、今度はしまったことを忘れてしまうような関係にしかなれないだろうし、友人関係なら、仕舞い込んだまま長年放置(もしくは熟成?)しておけても、恋仲としての関係だったら結局それは、熟成というよりは腐乱するし、人間関係を奥にしまっておくというのは、難しいことだ。それは結局、連絡も取らず、ただ繋がっている、というだけにするしかないから。友人関係でもそうしていれば、結局のところ"昔同級生だった人"程度のわりとどうでもいい関係性に収まっていってしまう。



丁寧に使う方法が私にはわからない。
モノも、使っててダメになったら捨てる。
昔からそうだった。すぐなくすしすぐ壊すし、
無くしたり壊したりしたら少しは悲しいけれど
買い直せるモノなら買い直せばいい。
その時要らないと思ったらすぐ捨てる。
モノに思い入れがないぶん、7年半前に元カレからもらった電気カイロも、夜神くんがくれたブックマーカーも、何も感じずに自分のものとして使い続けられているわけだけれど、思い入れがないぶん、もらったのになくしたものもある。ペンケースですら無くした。



長く使っていたり、持っているものがないわけじゃない。未だに日能研生の時のノートやバッグやグッズも持っているし、中学受験の受験票や大学受験の問題用紙や中高時代のプリントやテキスト、好きな小説も持っているし、ベッドの上のぬいぐるみたちも、ランドセルも幼稚園から大学までのアルバムなどももっているし。きちんとした形で残っている。でも、それは"そのまま"保存しているだけで、手をかけて愛情を渡しているかと聞かれると、うんとは言えない。丁寧に扱っているとは言えない。


それらは、本当に、ただ、保管されているだけ、という感じで。


化粧品も香水もたくさん持っている。
それらは、欲しいから買ったわけだし、少しずつ使っている。
CDやDVD類も人生で初めて買ったCDのHey!Say!7からHey!Say!JUMP、嵐、V6、Nissy、BE:FIRST、尾崎豊とCDやアルバムを持っているし、永遠の0、図書館戦争、家族ゲーム、Disney Magical 10years、Nissy5th Anniversary Tour DVD、嵐のライブDVDや5×20など数えきれないほどある。それらは、ライティングデスクの上のガラス戸のなかと、ベッドサイドのキティーちゃんの3段引き出しのなかにしまわれている。ライティングデスクの中に入れた方は、わりと丁寧にいれたけれど、キティーちゃんの方に入れた方は他のものと雑多になっているし、ライティングデスクのなかのものも、入れたままほとんど開けない。手入れしているというわけではない。


保管しているだけ。



大学生になったあたりから気づき始めていたけれど、私は所有することに欲があるようだ。


所有した何かではなく、所有していることそれ自体で満足してしまう。だから家族ゲームのDVDを買ってから8年近く開けていなかったし、図書館戦争のDVDも8〜9年ぶりにあけてDVDが再生しないことに気づいた。所有することに目的があってそこで終わる。


所有することだけに関心と目的があるから、何が部屋にあるのか全てを把握しているわけではないし、要らないと思ったらその瞬間に処分する。



モノの扱い方には、人との人間関係が見える気がする。私は"所有している"ことで満足してしまう悪い奴なんだろう。そう、5〜6年前から薄々気づいていて、夜神くんとの恋愛を経てそれは少し確信に変わった。所有していることが重くなったら捨てたくなるし。


人と人との関係だから、変わっていくモノで変化していくモノで、手をかけて育てて、向き合って大切にしていかなきゃいけないと頭でわかっていて、その癖所有癖の思考だから、どうすればいいのかわからなくて、結局うまくいかなくなってしまうのかもしれない。


夜神くんのことが好きだと気づいてからやっと、大切にしようと思った。付き合い始めてから、大切にしようこの関係をどうにか保持しようと思って、でも変化していく関係のなかで、私は保持することに必死で立ち止まって、夜神くんに結局心を開けないまま、すれ違ったまま、進んでいく、変わっていく関係をどうにか修復しようとしていただけなんだろう。


 そして、気づいたら、手から滑り落ちて、私と夜神くんの間には、あっという間に亀裂が入った。


 大切にしようと思っていたのに、大切にするとはどういうことなのか、わかっていなかった。


 人間関係は、ケースに入れて、全く折れないように曲がらないように、破れないように、そういう保持の仕方ではいられない。


 ぶつかってこすれて、破れて、ボロボロになって、でもその度に、補修していくような、そういう方法で続ける他ないのだと、だって、互いに互いの人生、生活があって自分と相手という関係以外に社会には他の人との繋がりがそれぞれあって、いろんな要因でお互いに変わるし、互いに介在する関係というものも変化するし、そのわたしたちを包含している社会自体も変わっていく。

 その変化の中で、その変化していくすべてを
受け入れながら、手をかけて、補修したり新しく構築したりしながら協働していける関係でなければ、保てない。

 私はその方法がわからなかったし、夜神くんはそういうことをしていこうとする人じゃなかった。


 モノだって部屋だって、手をかけなければ、
荒み、壊れ、消えてしまうんだから、人間関係などという目に見えないものはなおさら。


 そして、人間関係を大切にできる人でいるために、自分の所有するモノを、部屋を丁寧に扱わなくてはならない、ひいては、自分自身をも。頭でわかっているのに、どうして私はそれができないのだろう。特性もあるけれど。


 予定を詰める、スケジュール管理ができない、片付けができない、よく喋る(一方的に)、集中力がない、でも過集中してしまう、どうでもいいことに固執する、ケアレスミスが多い、落ち着きがない、衝動的に行動してしまう、目の前のことしか把握できない、金銭管理が苦手、思い立ったらすぐ動いてしまう、すぐ喋ってしまう、突然走り出してしまう(教育実習で授業はじめてから忘れ物に気づいて誰にも何も言わず突然走って取りに帰ってしまったことがあるくらい)


 幼少期からこれで、圧倒的にADHD要素だと自分でも思うくらいなのだが、これでも医療機関で「発達つける必要ない、不利になるだけだ」「差別されるだけだから診断はつけないほうがいい」などという理由などから診断をつけてもらえるに至っていない。だけど、なんとなく自分にこういう特性があるなとわかりはじめた19歳頃から私なりに努力はしてきた。それに、小さい頃からこれらの特性(幼少期はこれに加えて、食べるのが遅い、やることにすべて人の2〜3倍の時間がかかる、説明などを聞いてもすぐ理解できないなどもあった。あと道がわからない、3歩歩けば忘れる、あることをしていて別の何かを見たら何をしていたのか忘れる、物忘れが多い、忘れ物が異常など)を、「自分はできない人間なんだ」と自覚して生きてきた。両親にも「お前は人より何にもできないなら、人の何倍もやれ、人がはじめる前からやれ、できないですませるな」と言われてきた。(だから言い訳して努力しない人が好きじゃない。今の自分も。)


 モノにも人にも特段執着がないのも逆に変なところに固執するのも、これで十二分に説明できるようなものだけれど、なんにせよ、診断もつかないし、診断がついたところで社会生活の中で理解されるわけではないから、私が変化していくしかないのだということはよくわかる。



多分、これからも、所有に満足する傾向も、よくモノをなくし壊してしまうのも、気をつけていても無くなることはないんだと思う。でも。



昔より少しずつ、本当に少しずつ、
自分の特性理解も深まってきたし、
生きやすくなってきた。


昔より、「大切にしたい」というモノが出てきた。
(20歳頃まで、人間関係ですら「壊したくない関係」「大切にしたい」という感覚はなかった。)


それでもまだ、落として、割ってしまうけれど、
ポンとおいてどこにいったかわからなくなってしまうけれど、


何度壊しかけても、落としても見つけて拾ってくれる友人がいて、何度私が堕ちても拾い上げてくれる友人がいる。ヒビが入りそうになったら、落ちてヒビが入ってしまう前に手を差し出して捕まえてくれる友人がいる。親愛なる友人がいる。


でも、だから、壊れたら捨ててしまうような、
壊れてしまうまで気づかないような、そんな自分になりたいのに。やっぱり、持っていると壊してしまうしなくしてしまう。



どうやったら、滑り落ちてしまわないのだろうか。


わたしには持ちすぎているのだろうか。


まだ、大切にする方法がわからないままに、
過ごしている。


#所有欲


#人間関係

#捨て魔

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