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意外といるぞ パトリック・ピアースの友だち①

皆さんご存知(?)、アイルランド建国の父パトリック・ピアース。教科書などで名前は見たことがあるかもしれないが、実際にどんな人物だったかを知る方は少ないのではないだろうか。

パトリックの性格は、ひと言でいえば「内気」。幼いころから極端な無口で恥ずかしがり屋だった。学校では友だちをつくろうとせず、いつも独りぼっちで本を読んでいた。同級生の取っ組み合いやバカ騒ぎを目にすればあからさまに怯え、「いくじなし」と言われることもあったらしい。

この内気さは大人になっても変わらなかったが、人をひきつける何かがあったのか、親しい友人は(意外と)いた。元生徒・政治活動家・音楽家…彼らは謎めいたパトリックの性格を、わずかながらも解き明かしてくれている。

というわけで、この記事ではパトリック・ピアースの(多分)友だちだった人々を紹介する。


メアリー・ヘイデン(Mary Hayden)


歴史学者、女性人権活動家。パトリックとは、所属する「ゲール語連盟(ゲール語の復興をめざす団体)」での活動を通じて知り合った。このころのパトリックはまだ10代で、ヘイデンより17歳も年下だったが、彼女はこの無口で、しかし内に野心を秘めた青年に優しく接した。

意気投合した2人は頻繁に会うようになった。夏の休日には、パトリックの別荘があるコネマラで、一緒にサイクリングをすることもあったらしい。デートかよ! と思うだろうが、2人の間に恋愛感情があった可能性はほぼないと考えられているので安心されたし。が、周囲の人間は2人の親密ぶりに、パトリックを「(いろいろな意味で)ヘイデンのお気に入り」だと思っていたようだ。

しかし、1914年ごろから2人は疎遠になっていく。パトリックがアイルランドのためならイギリスへの武装蜂起も辞さない、暴力的な思想を持つようになったからだろう。ヘイデンは暴力や蜂起に否定的な立場で、パトリックと徐々に距離を置くようになった。そんなヘイデンに、パトリックは「彼女のような人のためにアイルランドを救いたいのに」と嘆いたという。

結局、2人の仲は元に戻らなかった。パトリックは1916年にイースター蜂起に参加し、36歳で命を落としてしまった。のちにヘイデンは、「良心の助けになれなかった」「蜂起の前にもっと会っておけばよかった」と悔やむ言葉を残している。

最終的には袂を分かってしまった2人だが、パトリックを近くで見守ってきたヘイデンの証言は、パトリックの好みや性格を探るうえで貴重な資料となっている。

たとえば、彼の暮らしの習慣について。

「彼は奇妙なまでに禁欲的な人間でした。酒の味さえ知りませんでしたし、タバコも吸いませんでした。食べ物にもほとんど興味を示しませんでした。暑いとか、寒いとか、湿ってるだとか、そういった通常不快に感じることにさえ、彼は無頓着に思えました」

『Home Life of Padraig Pearse』P114より

たとえば、彼が愛したものについて。

「ピアースの世界を占めていたのは、もっぱら子どもたち、動物、花々です。彼はこれらを強く、けれど一様に愛しました。誰かを特別にひいきしたり、特定のペットをつくることはしませんでした。彼はどんなに卑しい生き物であろうと、それが苦しむ様子を見ていられない人でした」

『Home Life of Padraig Pearse』P114より

たとえば、彼が嫌ったことについて。

「彼は下品なことは何でも嫌いでした。いかがわしい話や冗談を聞けば、殴られたみたいに縮こまっていたものです。私が知る限りの『最もマイルドな汚い言葉』さえ、彼の唇から聞こえたことはありません」

『Home Life of Padraig Pearse』P115より

彼が起こした珍事件についても書き残してくれている。

「ゲール語連盟の会議では、彼による『我々の兄弟姉妹』という講義を聞くために集まった聴衆の何人かを、憤慨させたこともありました。主題は動物への思いやりだったのですが、彼はこの問題に関して、今のアイルランド人はイギリス人よりも遅れていると主張したのです。アイルランド語圏の人々は特に、と。『ゲール人は貧しすぎて動物のお世話なんてできやしない!』一人の男が口をはさむと、ピアースも反論しました。『犬を撫でるのは蹴るよりも金がかかるのか?』」

『Home Life of Padraig Pearse』P114より

と、このように、彼女が残してくれた記述には興味深いものが多い。オタクは足を向けて寝られない。


カール・ハルデベック(Carl Hardebeck)


盲目のオルガン奏者、ゲール民謡の収集家・編曲家。ドイツ人の父とウェールズ人の母の間に生まれ、ロンドンで裕福な少年時代を過ごしたが、ゲール語を学んだことをきっかけにその響きの美しさに魅了され、アイルランド各地のゲール民謡を収集するようになった。その惚れっぷりたるや、ゲール語を「まるで天使の調べのよう」とまで表現している。

カールとパトリックが出会ったのは、おそらく1900年から1901年ごろ。盲目の民謡収集家の噂を聞きつけたパトリックとゲール語連盟が、楽譜の出版のため、カールに民謡を6曲ほど用意してほしいと依頼したのがきっかけだと思われる。

お互い内気なので気が合ったのだろうか、2人は手紙を交わす仲になった。時には、パトリックがベルファストにあるカール宅を訪れたこともあったという。カールはパトリックに心酔し、「私は神とベートーヴェンとピアースを信仰している」とまで言い残している。

2人の友情はパトリックの死まで続いた。1916年のイースター蜂起の後、友の処刑を嘆いたカールは、ミサでオルガン奏者を務めた際、パトリックと投獄された仲間たちに敬意を表して、退出賛美歌をAmhrán na bhFiann(兵士の歌:現在のアイルランド国歌)に置き換えて演奏したという。

パトリックの死後も、カールはゲール民謡の収集と編曲を精力的に行った。両親から相続した財産は楽譜の出版にほとんど費やしてしまい、「物乞いをしなければならない」と考えるほど貧しい生活を送ったようだ。

しかし、カールが集め紹介したゲール音楽が、その後の世代にとって大きな財産になったのは言うまでもない。そのうちの1曲、「The Foggy Dew」は、今でも多くの人々に愛され、歌われ続けている。


アーノルド・バックス(Arnold Bax)


イギリスの作曲家。イギリスのクラシック界隈では結構有名な人らしい。ロンドンの裕福な家庭に生まれ音楽を学んでいたが、1902年の19歳のとき、アイルランドの詩人ウィリアム・バトラー・イェイツの「オイシンの放浪」などを読んでから、ケルト的文化に傾倒するようになった。そのときの衝撃について、彼はのちに「私の中にケルト人が現れた」と書き残している。

アーノルドはそれから、ゲール語を学び、アイルランドの伝説などを読みふけった。現地へも何度か足を運び、1911年にはとうとうダブリンへの移住を果たしてしまっている。

そこで彼は3年間ほど、「ダーモット・オバーン(Dermot O’Byrne)」というペンネームで、詩や短編小説を書いたり、文学サークルに参加して、詩人ジョージ・ラッセルを始めとした著名な文化人と交流したりするなど、アイルランドでの生活を満喫した。

さて、ある日のこと。文学サークルのメンバーで、文芸評論家のモリ―・カラムは、アーノルドに「ぜひパトリック・ピアースという男を紹介したい」と持ち掛けてきた。

「彼に会うべきよ、アーノルド! きっと兄弟のように仲良くなれるわ。けど、問題は彼がなかなか陸に上がらない魚ということね。あの人はいつも、どんなパーティだろうと行きたがらないから」

参考URL「Remembering Pearse in Music: Arnold Bax’s In Memoriam」などより。
元の出典はおそらくバックスによる自伝『Farewell, My Youth』より

しかし、モリ―の努力の甲斐もあり、パトリックはパーティの申し出を了承。数週間後、アーノルドの家で2人はついに顔を合わせることになった。

パトリックとアーノルドはどんな話をしたのだろう? 最初、パトリックは暖炉の側でぼんやりと火を見つめていたらしいが、アーノルドがコネマラ(コナハト地方)の海岸線の美しさについて語ると、彼はとても喜び、生き生きとし始めたそうだ。

意気投合した2人を見て、モリ―は少しいじわるな質問をした。

「まあピアースさん、この人が『イギリス人』だってことはご存知?」
「そうだな」ピアースは皮肉っぽい笑みを浮かべて静かに答えた。
「私も半分イギリス人だからね!」
※パトリックはイギリス人とアイルランド人のハーフ

参考URL「Remembering Pearse in Music: Arnold Bax’s In Memoriam」などより。
元の出典はおそらくバックスによる自伝『Farewell, My Youth』より

この風変わりな男との出会いは、アーノルドにとって一生忘れられないものになった。のちに「死を渇望する奇妙な夢想家の印象を忘れることができなかった」「もう一度彼に会いたくてたまらなかった」などと書き残している。

しかし、2人が会うことは二度となかった。1916年になって、アーノルドはパトリックが蜂起を起こし、イギリス軍に処刑された事実を突然知らされることになる。

アーノルドはパトリックの死をひどく悲しんだ。そして「世界がどう裁こうと、私は彼らのことを決して忘れない」と心に誓い、すぐに追悼曲を執筆し始めた。その年の8月には下地となるピアノ曲を、3月にはオーケストラ曲を作曲。ピアノ曲の楽譜には、「In Memoriam」というメインタイトルに加え、「I gcuimhne ar bPádraig mac Piarais」…パトリック・ピアースを偲んでとも記されていた。

この曲、控えめに言って大変な名曲なのでぜひ聞いてほしい。パトリック・ピアースとか知らね~~~! という人も聞いて。せめて10:45からでいいから聞いて。あまりのメロディーの美しさにピアースオタクはもう涙ドバドバ。超絶感動すると同時に、たった一度会っただけでこんな名曲を作ってしまうアーノルドの愛の重さに震えてしまう。

ちなみにアーノルド、これ以外にも追悼曲をいくつか書いている。すごい情熱である。会ったの一度だけなのに…。

しかしながら、どう考えても超政治的なこの曲。アーノルドが生きている間は、一度も演奏されたことがなかったようだ。彼自身の意思なのか、政治的な理由なのかはわからないが、当時のイギリスで反逆者を讃える曲を演奏するのが難しかったのは確かだろう。

アーノルドの死後、下地となったピアノ版の楽譜は、アーノルドの愛人だったハリエット・コーエンによって、アイルランド首相エイモン・デ・ヴァレラに贈呈され、大切に保管されることになった。

が、オーケストラ版の楽譜はなぜか行方不明になってしまった。人々はこの曲にオーケストラ版があるとは夢にも思わず、完全に忘れ去られてしまったのである。

こうして「In Memoriam」は幻のオーケストラ曲となった…かと思いきや、なんと1993年になって完全なオーケストラ譜が出版社の地下室から発見された。そして1998年、「In Memoriam」はかつての敵地であったイングランドで演奏・録音され、ようやく日の目を見たのである。なんか運命的。…ちなみに、一緒に録音に参加したマーガレット・フィンゲルフートというピアニストは、この曲を聞いて「ラブソングみたい」と言ったそうだ。たまげたなあ。


エヴリーン・ニコルズ(Eveleen Nicholls)


ゲール語連盟の活動家。なんとこの人、パトリック・ピアースの恋人だったと一部で言われている人である。パトリックをよく知るオタクくんたちにとっては、ちょっと信じられない話ではないだろうか。

エヴリーンは1884年にダブリンで生まれた。パトリックより5歳年下である。背が高く、威厳のある女性だったらしい。言語学の才能にあふれていた彼女は、大学の成績も常にクラスでトップ。1906年には、ゲール語における高い能力を認められ、奨学金も獲得している。また、ゲール語連盟の熱心な活動家でもあり、ゲール語の復興運動はもちろん、独立運動や女性の権利拡大運動にも関わっていた。その努力を評価され、ゲール語連盟の執行委員にも選出されている。

絵に描いたような優秀な女性だったが、1909年の始めに、友人とケリー県にあるブラスケット諸島で泳いでいたところ、何らかの理由で溺れ死んでしまった。一説によると、溺れた子どもを助けようとして死んでしまったらしい。

こうして、エヴリーンはたった24歳で悲劇的な最期を迎えてしまったわけだが、それにしても、パトリックと恋仲だったという話は本当なのだろうか。エヴリーンの兄によると、パトリックは彼女にプロポーズまでしたらしい。エヴリーンは家庭の事情で断ったそうだが…なんだか怪しさ満点である。

確かに、パトリックはゲール語連盟の女性たちとは仲がよかった。女性に対して異常にシャイではあったものの、メアリー・ヘイデンをはじめ、彼の特性を理解している女性とは親密な関係を築けていた。が、これはあくまで友人として。2人が交わした恋文はおろか、手紙の一つも残っていない状況で、恋愛関係にあったとするのはかなり無理がある。パトリックの性格上、手紙も交わさずに会話オンリーでお付き合いするとも考えにくい。

とはいえ、パトリックとエヴリーンのつながりは一応存在している。パトリックは、自身が編集者を務めるゲール語連盟の機関紙「An Claidheamh Soluis(クラウ・ソラス)」に、エヴリーンの死を悼む記事を掲載している。

また、パトリックがエヴリーンをいかに愛していたか証言している人間もいる。パトリックの生徒だったジェローム・クローニンがその一人だ。

「彼は唯一愛していた女性が、『ケリーの海岸で、襲い来る波から小さな子どもたちを勇敢にも助けようとし、命を落としてしまった』のだと話してくれました。そして『どういうわけか、彼女を想うように、ほかの女性を想うことができないんだ』とぽつりと付け足したのです」

『Patrick Pearse: The Making of a Revolutionary』P54より

そもそも、「子どもたちを助けようとして死んだ」という話が真実なのかは不明だが、恋愛関係を抜きにしても、パトリックがその噂話を人づてに聞いて、尊敬の念を抱いた可能性はなくもないとは思う。実妹のメアリーによると、こんなことも言っていたらしい。

「彼女はすばらしい人だった!」兄は続けて言った。「彼女は死の前夜、不思議な予感があったに違いない…崇高な犠牲をもって命を救ったんだ」
「でも悲劇よ!」わたしはささやいた。
「すばらしい…なんてすばらしいんだろう!」彼は感動に満ちた調子で言った。「弱く華奢な女性なのに、なんて強い魂なんだ! 彼女は迎えが近いことを知り喜んで逝った。けれどもう彼女が戻ることはない!」

『Patrick Pearse: The Making of a Revolutionary』P55より

さらに、パトリックの詩「O Lovely Head」に登場する女性は、エヴリーンのことではないかと考える人もいる。これは、パトリックの作品では数少ない「女性への愛」を表現したもので、愛する人の喪失を嘆く内容となっている。ただし、これを書いたのはエヴリーンの死から5年後のこと。また、この短い詩から2人の個人的な関係性を読み取ることは難しく、上記の証言同様、エヴリーンとの恋愛関係を決定づける証拠にはなっていない。

このようにフワッフワした話のため、一部の歴史家は、一連の恋愛話を「建国の父の人生をより美しくするための作り話」ではないかと考えている。パトリックの最初期の伝記にエヴリーンへの言及がまったくないこと、著作や手紙などから、パトリック自身に結婚の意志が感じられないことが根拠として挙げられている。

メアリー・ヘイデンとの手紙の中にも、結婚を拒絶するパトリックを、ヘイデンが諭す記述がある。この手紙が書かれた年度ははっきりしていないが、2人が積極的に手紙を交わしていたのは1903年前後と考えると、エヴリーンの死以前から、パトリックは結婚に消極的だったと思われる。

諸々を総合すると、エヴリーンとの交友…同じゲール語連盟なのであったかもしれない。死にざまへの感動…あったかもしれない。恋愛関係…あゃしぃ。といった具合だろうか。全部あやふやじゃん! と言いたいだろうが、実際に2人の関係を断定できる証拠がないので仕方ないのである。

ちなみに、現在の歴史家の多くは、女性との恋愛に対する関心の薄さ、男子たちをある種の芸術品のようにとらえ、深く愛していたことなどの理由から、「パトリック・ピアースは潜在的な同性愛者だった可能性が高い」と考えている。だが、キス以上のことをパトリックがしたと言える資料は現在まで見つかっていない。「潜在的」とあるのはそのためで、決定的な行動の有無はもちろん、パトリック自身にその自覚があったのかもよくわからないのだ。

なお、同性愛者ではなく無性愛者・非性愛者だったと考える人もいるし、自閉症やアスペルガーといったなんらかの精神的な特性が、性的な事柄への嫌悪感につながったのではないかと考察する学者もいる。

とにもかくにも、100年前に死んだ人間の性的指向を断定するのは難しく、この話は「よくわからない」と結論づけざるを得ない。むつかしいね。

以上、お友だち4人の紹介でした。友だちはまだまだいるので(大嘘)、次回に続く。


<参考資料URL>

メアリー・ヘイデン
https://www.historyireland.com/18th-19th-century-history/mary-hayden-1862-1942-historian-and-feminist/
https://www.academia.edu/2295204/The_Writings_of_Mary_Hayden
http://centenaries.ucd.ie/wp-content/uploads/2015/04/Hayden-Mary_Teresa.pdf
https://en.wikipedia.org/wiki/Mary_Hayden

カール・ハルデベック
http://www.irishnews.com/arts/2016/04/21/news/the-fascinating-tale-of-blind-composer-carl-hardebeck-beethoven-padraig-pearse-and-the-foggy-dew-491712/?param=ds441rif44T
https://en.wikipedia.org/wiki/Carl_Hardebeck
https://www.historyireland.com/18th-19th-century-history/the-blind-bard-of-belfast-carl-gilbert-hardebeck-1869-1945/

アーノルド・バックス
http://arnoldbax.com/the-background-to-in-memoriam/
http://qpol.qub.ac.uk/remembering-pearse-music-arnold-baxs-memoriam/
https://www.irishtimes.com/culture/heritage/sticky-wicket-an-irishman-s-diary-on-arnold-bax-1916-and-the-googly-1.2177043
https://en.wikipedia.org/wiki/Arnold_Bax
https://www.irishtimes.com/news/seditious-verses-of-the-royal-master-of-music-1.370642
https://digital.library.villanova.edu/Item/vudl:436571#?c=&m=&s=&cv=&xywh=-2797%2C-193%2C8153%2C3823

エヴリーン・ニコルズ
https://en.wikipedia.org/wiki/Eibhl%C3%ADn_Nic_Niocaill
http://kirbymtn.blogspot.com/2015/11/eibhlin-nic-niocaill-obituary-by.html
https://dib.cambridge.org/
https://nanopdf.com/download/patrick-pearse-ireland-in-schools_pdf
http://catalogue.nli.ie/Record/vtls000615038
https://www.irishtimes.com/opinion/does-it-really-matter-if-some-of-our-patriots-were-gay-1.3548202
http://sahjournal.com/index.php/sah/article/view/51


<参考にした本>


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