見出し画像

④パトリック・ピアース最愛の弟「ウィリー・ピアースの足跡」

ガバガバ歴史探究つづき。前回と同じく、パトリック・ピアースの弟ウィリー・ピアースの人生について紐解いていこう。

1910年、兄パトリックは教育に適した静かな環境を求めて、聖エンダをラスファーナムというダブリン郊外の土地に移転させる。

このころから、聖エンダに政治と関わる人間が出入りするようになった。

たとえば、バルマー・ホブソンとコンスタンツ・マルキエヴィッチら(※1)によって設立された「フィアンナ・エイリアン(Na Fianna Éireann)」との関係がある。

この団体は表向きはボーイスカウトだが、実際には若者に精神的・肉体的訓練を施し、兵士として育て上げ、アイルランド独立を再び成し遂げることを目標にしていた政治団体。

彼らの手によって、聖エンダでも少しずつ軍事に関する授業が行われるようになった。

ただ、1910年時点のパトリックは、「よっしゃ革命やったるぞ」といった具体的な計画を持っていたわけではない。

ちょっと過激な団体の会合に参加して、ロバート・エメットやウルフ・トーンなどの有名な反逆者について講演したり、対英武力闘争を掲げる秘密組織「IRB(※2)」の会議に出席しては、口先ばかりで行動しないメンバーにプンスコしていた程度である。

とはいえ、パトリックの「教育を通して国を変える」という理念が少しずつ崩れ始めていたのは間違いない。19歳のころには「武力でアイルランドを解放することはできない」と冷静に語っていた彼だが、イギリス政治への不信感から、徐々に暴力の必要性を無視できなくなっていくのだ。

ウィリーは本当に「巻き込まれた犠牲者」か?


そんなわけで、「ウソ…うちの学校きな臭すぎ…?」という感じの聖エンダだが、ウィリーはこの事態をどのように思っていたのだろう?

実は、ウィリーが政治についてどのように考えていたのかはよくわかっていない。彼は自らの考えをほとんど紙に残さなかったため、いつから政治に関わるようになったのかもハッキリしていないのだ。

このような事情もあり、ウィリーを「兄への愛ゆえに蜂起に参加した、悲しい芸術家」と評する人もいる。だが、彼の行動を調べると意外とノリノリで、この評価には疑問が浮かぶ。

たとえば、1912年には「ウルフ・トーン委員会(The Wolfe Tone Committee)」と呼ばれた、当時もっとも過激だった民族主義団体に自らの意思で入会している。

その後、兄の後を追うように入隊したアイルランド義勇軍(※3)では、演習や行進に熱心に参加していたし、蜂起の直前には聖エンダで銃弾や爆弾の製造に勤しんでいた。

ウィリーを単なる「巻き込まれた犠牲者」と考えるには、どうにも活動的すぎるのである。

もちろん、兄が過激になるにつれてウィリーも過激化していったので、兄に影響されたことは間違いないだろう。洗脳されたと考えることもできるかもしれない。ウィリーはパトリックが決めたことにはすべて従い、異論を唱えることはなかったからだ。

とはいえ、ウィリーの知人で女優のMáire Nic Shiubhlaighは、ウィリーが兄の影にあったことを認めつつも、この考えをやんわりと否定している。

ウィリーの尊敬は人格を欠いたことで生まれたものではありません。彼らを知る人々が最も驚愕していたのは、あらゆる問題に対する二人の見解が似通っていたことです。これは、二人が互いに惜しみなく注ぐ賞賛と相まって、兄弟をとてもユニークな存在にしました。P.H(パトリック)が考えたことはウィリーも信じ、ウィリーが好んだものはP.Hも愛したのです。

『Willie Pearse: 16Lives』P101より

兄に逆らえなかったのではないか? との疑問も浮かぶが、ウィリーの友人だったデズモンド・ライアンはこう証言している。

ウィリアム・ピアースは兄の親友であり、相談相手であり、時には評論家でもありました。わたしは、彼らが生徒の行動や性格、新しい学校のプログラムや計画について、何時間も議論に費やしていたことを知っています。また、ウィリーが兄の演説に率直に意見したことも覚えています。「酷かったぞパット。同じことを何度も繰り返していたし、あまりにもスローでみんな退屈してた!」と。

『The man called Pearse』P72より

パトリックは、「ウィリーの全ての批評に最大限の敬意を持って耳を傾け、彼がひどい言葉で舌をもつれさせるまで好きなように言わせていた」という。デズモンド・ライアンは、「パトリックが真に耳を傾けたのはウィリーの言葉だけ」とまで述べている。

ウィリーは無理やり従わされるどころか、兄パトリックを堂々と批判できる人間だったわけである。パトリックにとっても、ウィリーは唯一の対等な親友であった。

ウィリーと私は真の兄弟だった! 男子として彼は唯一の遊び仲間で、男として彼は唯一の親友だった。私たちは多くを共に成し、苦しみ、そして深い喜びを共有してきたのだ。

『Home Life of Padraig Pearse』P17より

兄弟の距離は年を取るにつれてさらに近くなった。二人はしばしば休暇を取って西アイルランドに旅行しては、二人だけの「秘密の言語(※4)」で会話を楽しんだという。

一方、芸術学校の仲間たちは、政治にのめり込むウィリーから距離を置くようになった。

来たるべき反乱に備え、銃の訓練に励むウィリーは、もはや芸術家というよりも、「先鋭的な民族主義者」と呼ぶにふさわしい存在になってしまったのである。

「兄の右腕」として組織の中枢へ


兄弟の思想は年を越すごとに過激になっていった。

兄パトリックは、1914年にアイルランド義勇軍の指導者に選ばれ、IRBのメンバーにも正式に迎え入れられた。当初は熱心なIRBメンバーではなかったようだが、演説の巧みさから有用だと見込まれ、徐々に存在感を増していった。

ウィリーは、そんな兄を影ながら支え続けた。

1915年になると、ウィリーはアイルランド義勇軍の作戦部長に昇進した。期待されたことはただ一つ、アイルランド義勇軍の指導者である兄の「右腕」として働くこと。リーダーとしての活躍は特に期待されていなかったし、お世辞にも評判はよくなかった。

彼は兄のような男らしさに欠けており、仲間たちをほとんどコントロールできていなかった。勇猛果敢であっても、指導者には向いていなかっただろう。仲間を命令し、確実な死に向かわせるような強烈な個性がなかったからだ。彼は目立つ存在として生まれたわけではなく、指導的な役割を担うことも求められていなかった。彼が完璧に果たすべき役割は、兄の参謀長であることだった。

『Willie Pearse: 16Lives』P190より

名ばかり作戦部長とはいえ、ウィリーは政治の中心に深くかかわるようになった。ウィリーがこれまで培ってきた芸術の才能は、蜂起の作戦図などを描くことに使われるようになった。

聖エンダでの指導は続けていたが(※5)、彫刻家としての活動はおざなりになった。1913年以降、ウィリーが展示会に作品を出した記録はない。

「逃げ場のない袋小路」に迷い込む組織


1915年9月、イギリスに対する蜂起の計画はさらに具体的なものになった。

IRBの最高委員にまで昇進したパトリックは、仲間と共にドイツからの武器の密輸計画や、蜂起の作戦について話し合いを重ねた。紆余曲折ありつつも、蜂起は1916年4月、復活祭(イースター)に決行されることが決まった。

おそらく、この時点では一般兵の多数が「蜂起は成功するかもしれない」と考えていた。

第一次世界大戦でイギリスが苦境に立っていたこともあり、「ダブリンを1週間支配できれば、イギリスは交渉の席に座らざるを得なくなる」と、多くが成功の可能性を信じていたようだ。一部の指導者すら同様だった。

しかし1916年、蜂起の直前になって、頼みの綱であるドイツからの武器密輸に失敗。仲間同士の意思疎通の不備も加わり、蜂起の成功は絶望的になってしまった。

蜂起は失敗する。失敗はすなわち死を意味する…蜂起指導者の大半がこの恐ろしい事実に直面した。しかし、イギリスによる一斉逮捕を恐れたからか、今しか行動を起こせないと焦ったからか、結局彼らは自滅の道を選んだ。もはや蜂起を止めることは、彼ら自身にもできなくなっていた。

蜂起の2週間前、ピアース兄弟は蜂起について何も知らない大多数の生徒のために、イースターの休暇を例年よりも早く与え、家に帰した(※6)。

目の回るような忙しさにあっても、兄弟は互いを視界から外すことはほとんどなかった。蜂起の直前、ピアース兄弟は休暇を取り、昔住んでいた家などの「幸せだった子供時代のありとあらゆる景色」に訪れたという。

兄弟は美しい思い出に別れを告げ、死ぬ覚悟を決めた。

つづく

_______________________________________

(※1)アイルランド独立運動に身を捧げた女性。とても有名なので、覚えておくと良いことがあるかもしれない(多分)。

元々は裕福なプロテスタントの家に生まれ、広大な土地を所有する「支配者側」の人間だったが、40歳になると独立運動に熱心に関わるようになった。イースター蜂起にも参加しており、降伏後はイギリス軍に拘束され死刑判決を受けたものの、女性であることを理由に無期刑に減刑された。

(※2)アイルランド共和主義者同盟の略。1858年に結成された秘密組織で、アイルランド独立を目指してさまざまな活動をしていた。しかし、このころのIRBは老人の自慢話が飛び交う社交場と化しており、パトリックはひどく失望していたそうだ。

(※3)北アイルランドのユニオスト(アイルランド自治に反対していた親英派の人々)が結成した武装集団、「アルスター義勇軍」に対抗するために作られた組織。兄パトリックは創設メンバーの一人だった。

結成当初の目的は、武力に訴えてでも自治を阻止しようとしていたユニオストから、「自治法」を守り抜くこと。

ご存知の通り、当時のアイルランドはイギリスの植民地。イギリスに一方的に統治され、アイルランド人の意志を政治に反映することはできなかった。そんな彼らにとって、自治権の獲得は悲願だったわけである。

しかし、自治法の実施を目の前にして、第一次世界大戦が勃発。自治は棚上げにされてしまった。アイルランド義勇軍は、イギリスへの戦争協力に賛成派と、反対派の二つに分裂。その後、パトリックを含む反対派の一部は過激化し、あくまでイギリスの支配下にある自治ではなく、完全な独立を目指す武装集団に変貌した。

著名な独立活動家の多くがこの組織に属しており、イースター蜂起ではジェームズ・コノリー率いるアイルランド市民軍と手を組んで戦うことになる。

上記の説明を読んで頭が痛くなった人は多いと思う。

(※4)文字通り、パトリックとウィリーが独自で作った言語(?)。ピアース兄弟の友人であるデズモンド・ライアンによると、赤ちゃん言葉っぽい響きだったらしい。なんだそれは…。

(※5)1915年以降、ウィリーは絵だけでなく歴史や地理、英語も教えるようになった。教えすぎと思うだろうが、このころの聖エンダは閉校秒読みの借金まみれ状態で、教師に給料を払うこともできなくなっていた。マトモな教師はほとんど辞めてしまい、ウィリーや姉マーガレットが代わりを務めていた…というわけである。パトリックに財布を持たせてはいけない(戒め)

(※6)イースター蜂起に参加した聖エンダの生徒数は、元生徒が30人以上、在校生が数人で、ほとんどの生徒は蜂起の計画すら知らなかったようだ。ちなみに、参加した生徒のなかで最も若かったのは、Eunan McGinleyという16歳の青年だった。また、同じく蜂起に参加したGerald Keoghという22歳の青年は、伝令中に狙撃され死亡。聖エンダの生徒の中で、唯一の蜂起死亡者となってしまった。


<参考文献>

私が特にオススメしたい書籍。アイルランド独立にまつわる混沌とした歴史が、非常にわかりやすくまとめられている。文章も読みやすい(ここ重要)アイルランド独立の歴史を学びたいという方が、まず手に取るべき本だ。

『The man called Pearse』by Desmond Ryan
https://archive.org/details/mancalledpearse00ryanuoft/mode/2up

<参考ページ>
https://en.wikipedia.org/wiki/Fianna_%C3%89ireann
https://www.irishexaminer.com/viewpoints/analysis/padraig-pearses-brother-had-different-dreams-of-being-remembered-393484.html
https://fiannaeireannhistory.wordpress.com/about/
https://www.historyireland.com/20th-century-contemporary-history/well-dressed-and-from-a-respectable-street/


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?