【司法研修所起案対策】供述の信用性(刑裁起案・検察起案・刑弁起案)

1 考え方

主に刑事裁判・検察・刑事弁護の刑事系科目を念頭に,供述の信用性について司法研修所起案との関係でどう考えるとスムーズに処理できるかを説明する。

結論として,供述の信用性は「実際にあったことを,正しく認識・記憶し,嘘偽りなく述べた供述は信用できる」という3段階の判断軸に照らして判断すればよい。逆に「実際になかった」,「認識・記憶に誤りがある」,「嘘をついている」といえる場合には,その供述は信用できない。

個人的には,嘘をつくなんて口先だけでできる非常に簡単なことであるから,すべての供述は嘘の可能性があり,信用できないと思う。少なくとも,被告人が否認しているのに被害者の供述だけを頼りに有罪認定するなんて,自分が裁判官であれば怖くてできない。もっとも,そんなことを言っていては起案は書けない。

ものの本には供述の信用性判断のメルクマールとして,①供述者の利害関係,②知覚・記憶の条件,③他の証拠との符合,④供述内容,⑤供述経過,⑥供述態度などが挙げられていて,これらを検討すればよいと説明されている。しかし,雑多な要素を並べているように見え,それぞれの検討結果が信用性判断の結論とどう結び付くのか悩ましい。すべての項目を網羅的に検討すると冗長になる。

そこで,白表紙の説明や,小森田恵樹「供述証拠の証明力の評価の在り方」安廣文夫編著『裁判員裁判時代の刑事裁判』189頁などを参考に検討し,「実際にあったことを,正しく認識・記憶し,嘘偽りなく述べた供述は信用できる」という3段階の判断軸を立て,これをベースに供述の信用性判断のメルクマールと言われているものがそれぞれどの段階で何をチェックしているのかを整理してみた。そうすると,すんなりと供述の信用性について論述できるようになった。この記事ではこの理解を共有し,起案の際に役立てていただければと思う。

2 3段階の判断軸と供述の信用性判断のメルクマールの対応関係

(1) 「実際にあった」「実際になかった」

供述の信用性判断のメルクマールのうち,実際にあったか否かをチェックするのは,③他の証拠との符合,④供述内容である。

ア ③他の証拠との符合

(ア) 客観証拠との一致

供述の内容が,客観的な証拠から明らかな事実と符合していれば,実際にあったことを述べているのだろうな,ということになる。

もっとも,客観的な証拠から明らかな事実と符合していることによって最低限担保されるのは,その明らかな事実そのものについて正しく述べていることだけであって,供述のそれ以外の部分が正しい保証はまったくないとも思える。

ただ,供述のうちいくつかの部分をランダムに抜き出して客観的な証拠と照らし合わせて正しいことを言っていると確認できれば,供述全体が抜き取り検査に合格したといえ,その供述全体が信用できると扱うと考えれば,一応筋の通った判断方法といえる。

このような抜き取り検査は,検察起案のように捜査段階の豊富な資料をベースにすれば,十分有効な検査になっているといえる。これに対し,刑裁起案・刑弁起案を念頭に裁判官の立場で考えてみると,刑事裁判の厳選された薄い証拠(しかも,証拠開示され,公判までに十分な準備が可能)をベースに抜き取り検査をしても十分な検査とはいえず,このような限定された証拠との一致で信用性を肯定してよいのか個人的には疑問に思う。

それはさておき,起案に際しては科目間の差異をそこまで気にせず,客観証拠と一致しているところをいくつか取り上げて信用できると断じればよい。

(イ) 他の供述との一致

口裏合わせがないことを前提にすると,ある供述者の供述内容が他の供述者の供述内容と一致していれば,二人とも実際にあったことを述べているのだろうな,ということになる。

事実の経過のすべての点について,口裏合わせのない二人の供述が一致しているということは,実際にあったことをそれぞれが独立に観察して正確に思い出して述べているのでなければ説明がつかない。とても強力な信用性判断のメルクマールといえる。もっとも,一連の事実経過のうち一瞬の1つのできごとの有無(例えば,一歩踏み出したか否か)だけが争点であって,その点につき一瞬でも「あれはなかったことにしよう」と口裏合わせするチャンスがあれば,全体として事実経過のすべての点について供述を完全に一致させることが可能である。なので,起案で他の供述との一致を指摘する際は,口裏合わせの有無に言及するのが必須だと思う。

イ ④供述内容

「供述者が真に体験した事実を述べる場合,その内容は自然で合理的なものにな」る(前掲小森田203頁)という経験則があるから,供述内容が自然で合理的であるといえれば,実際にあったことを述べているのだろうな,ということになる。

もっとも,優秀な嘘つきは自然で合理的な嘘を述べるから,本当にこれでよいのかとも思える。しかし,起案との関係では,上記経験則を念頭に,供述内容が自然で合理的だから信用できると述べればよい。

(2) 「正しく認識・記憶した」「認識・記憶に誤りがある」

供述の信用性判断のメルクマールのうち,認識・記憶の正しさについてチェックするのは,②知覚・記憶の条件,③他の証拠との符合,④供述内容である。②だけかと思いきや,③④でもチェックすることができる。

ア ②知覚・記憶の条件

適切な知覚・記憶の条件下で事実を認識したのであれば,その供述は信用できる。不適切な知覚・記憶の条件下での認識であれば,供述は信用できない。

知覚・記憶の条件は,以下のような要素があるが,丸暗記するのは難しい。一応把握しておいて,実際の記録を見て気付ければ十分である。
・明るさ,距離,観察時間等の客観的な観察条件の良否
・供述者の視力,観察の意識性等の主観的な観察条件の良否
・観察の対象が知覚・記憶しやすい事柄であったのか否か
・供述者が年少者であったり精神障碍を有していた場合の影響
・人の同一性の識別供述の検討要素:
 - 目撃者と目撃された人物との関係
 - 目撃された人物の人相や身体的特徴等の特異性の有無や内容
 - 観察の時間や観察の位置等の観察の客観的条件
 - 犯人の観察から識別までの時間的間隔
 - 犯人識別の手続や方法等

イ ③他の証拠との符合

実際にあったことを正しく認識・記憶したからこそ,他の証拠から認定される事実と供述内容が一致する。認識・記憶に誤りがあれば,他の証拠との符合は起こらない。なので,他の証拠との符合も,知覚・記憶に誤りがないことを裏付ける。

ウ ④供述内容

小森田前掲203頁は「供述者が真に体験した事実を述べる場合,その内容は自然で合理的なものになり,記憶がしっかりと保持されていれば,その内容は具体的で真に迫ったものになることが多い」とする。供述内容が自然・合理的・具体的・真に迫ったものであれば,事実を正しく認識し,しっかりと記憶して述べたといえる。

(3) 「嘘偽りなく述べた」「嘘をついている」

供述の信用性判断のメルクマールのうち,嘘をついているか否かについてチェックするのは,①供述者の利害関係,④供述内容,⑤供述経過,⑥供述態度である。

ア ①供述者の利害関係

これは,イからエまで(供述者が嘘をついたか否かそのものを判断)とは異なり,供述者に嘘をつく動機があるか否かを判断するものである。供述の信用性判断の前提事項になるから,起案では最初に書くことが多い。

嘘をついた方が得をするという利害関係があるのであれば嘘をつく動機があり,そのような利害関係がなければ嘘をつく動機はない。嘘をつく動機がある者の方が,動機がない者より嘘をつく可能性が高い。逆に,嘘をつく動機がまったくないのに嘘をつくことは考え難い,ということである。もっとも,何ら動機がなくフランクに嘘をつくサイコパスはいるように思う。

刑事事件における証人のタイプに応じた類型的な利害関係は以下のとおりである。

(ア) 共犯者

共犯者は,主犯が自分であるにもかかわらず被告人のやったことを過大に言って刑責を押し付けたり,真犯人である第三者をかばうために被告人を犯人に仕立て上げる可能性がある。

前者につき,共犯者の事件が終了して判決が確定している場合,もう刑責を押し付けようがないのだから,あえて被告人を引っ張り込む危険が薄くなるとも考えられる。もっとも,自分の公判で述べた被告人を引っ張り込む供述を事件終了後も一貫して述べている可能性もある。判決確定の場合についてはこのようにどっちにも言えるので,起案では自分の導きたい結論に都合のよい方を強調することになる。

(イ) 目撃者

小森田前掲195頁は「目撃者は,何らかの理由で当該犯行等を目にしている者であり,自己の見たままの状況を述べるのが通常と思われ,あえて虚偽を述べるとは考え難い。」とする(その後に虚偽供述であるおそれがないとはいえない場合の説明が続く。)。かなり納得のいく説明であり,起案でもこのように書けばよいと思う。

(ウ) 被害者

小森田前掲194頁は「被害者は,当該犯行によって害を被った者であり,犯人について適切な処罰を求めるのが通常と思われ,あえて虚偽を述べるとは考え難い。」とする(その後に虚偽供述であるおそれがないとはいえない場合の説明が続く。)。基本的にはこのように考えればよいのだと思う。もっとも,仮に筆者が被害者となった場合,被告人がきちんと処罰されるよう警察に対して若干強めの被害申告をするように思うし,その後は引き下がれずその供述を一貫させそうだから,目撃者供述と比べると虚偽供述の動機が若干あるのではないかと思う。

なお,犯行前後の被害者と被告人の人間関係が濃ければ,それに基づく濃い利害関係は上記被害者としての薄い利害関係を上塗りしてしまうだろうし,愉快犯的な被害申告も考えられないではないので,留意が必要である。

(エ) 被告人

利害関係でいえば,被告人は最も利害関係があるに決まっていて,否認供述について虚偽供述をする動機は十分とも思える。でも,それを言ったらおしまいであるので,そこには触れず,ほかのメルクマールから虚偽供述かどうかを起案する。

他方,犯行を認める供述は,わざわざ嘘をついて自分を罪に陥れて刑罰を受けることなど通常しないから,虚偽供述の動機という観点からは動機ゼロ,信用できるということになる。もっとも,自白法則があること,自白法則の背景としての自白偏重の暗黒の歴史があるのだから,これもそのまま受け取れない。

結局,被告人の供述について利害関係という観点から分析するのは得策でなく,ほかのメルクマールで判断することになる。

イ ⑤供述経過

これは,供述内容に変遷があるのであれば変遷前後のどちらかが嘘である,いずれにしろ嘘つきである,ということである。小森田前掲205頁は「通常であれば,真に体験した事柄は,いつの時点で聞かれても一貫した同じ内容を答えるはず」と述べる。

もっとも,思い違い,勘違いなど変遷の合理的な理由はいくらでもある。
起案では,導きたい結論に従って変遷理由が合理的かどうかを決めつけることになる。

ウ ⑥供述態度

供述態度が真摯であれば信用できるし,動揺したり言葉に詰まったりすれば嘘をついているのではないかと考えられる。ただ,真摯に嘘をつく人はいるし,法廷で緊張したり,別の隠したい事情があって動揺して言葉に詰まる人はいるのであって,しかも供述態度など裁判官の感じ方の問題であり,ましてや起案の記録を読んで書記官の文学的表現によって供述態度を判断するのは危険であると思う。

起案との関係では,大事なところで嘘をついていることを突かれて言葉に詰まって「・・・。」となっているところは,まさに教官が指摘してほしくて目立つようにそう書いているのであるから,素直に指摘して信用できないと判定することになる。

エ ④供述内容

(3)ウと重複するが,小森田前掲203頁は「供述者が真に体験した事実を述べる場合,その内容は自然で合理的なものにな」るとする。供述内容が自然で合理的であれば,真に体験した事実を嘘をつかずに述べているといえる。

3 起案での書き方

起案では,明示的には書かないものの,あたかも「実際にあったことを,正しく認識・記憶し,嘘偽りなく述べたこと」,又は「実際になかった」「認識・記憶に誤りがある」「嘘をついている」ことが立証テーマであるかのように念頭に置きながら,①供述者の利害関係,②知覚・記憶の条件,③他の証拠との符合,④供述内容,⑤供述経過,⑥供述態度のメルクマールを取捨選択して書くと書きやすかった。メルクマールを網羅的に検討するのが目的でなく,供述が上記の立証テーマに当てはまることを,メルクマールを取捨選択して説明するというイメージである。

さらに言うと,検察起案等で時間がなければ,④供述内容が自然・合理的・具体的・真に迫ったものである,ということを書けばよい。2(1)イ,2(2)ウ,2(3)エと,「実際にあったことを,正しく認識・記憶し,嘘偽りなく述べたこと」の3段階のすべてについて④供述内容で判断できるからである。地裁の裁判例で供述が自然・合理的だという程度のことだけであっさり供述の信用性を肯定しているものがあるのは,この3段階のすべてを供述内容だけで一応説明できるからであるといえる。もちろん供述内容がどうだというのは評価であり,個人的にはそれでいいのかと思うが,実際の事件では結局それくらいしか評価しようがない事件もあるのだろう。

4 民事系起案について

(1) 民裁起案

民裁起案3(事実認定)の記事で説明しているように,争点に関する直接証拠たる供述の信用性判断では,上記のようなメルクマールの検討はしていない。むしろ,争点に関する間接事実の総合判断を実質的にして,その結論と供述内容が合致していれば供述は信用できる,というような結論先取りの判断方法をとっている。

民事訴訟の当事者の供述は利害関係が最強であって,嘘をつく動機は十分であり,上記の検討方法になじまないからだと思う。

また,動かし難い事実を認定する際に「不利益な事実を自認している」と指摘するのは,①供述者の利害関係に基づき信用性を肯定しているといえる。

(2) 民弁起案

自らの主張を支える供述について,③他の証拠との符合が裏付けになっていることを述べて信用できると論述していくことが多い。それ以外のメルクマールは使いにくい。

以上


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