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「それは、夕暮れからはじまった」(ルカ24:13~35)

 先週はイースター礼拝でしたね。陣内先生の投稿によりますとみんなでランチを…とはいかなかったようですけれど、楽しく交わりをされたようでよかったですよね。今から3年前、まだコロナが世界に広がった当時のことですが、ローマ教皇が世界のすべてのキリスト者に向けて「今夜◎◎時にみんなで主の祈りを一斉にささげましょう。世界中の祈りを合わせましょう。」と呼びかけたことがありました。もちろんそれはパンデミックの状況に向けてのこと。私も礼拝堂で夜に祈りました。あの時、本当に奇跡的な体験といいますか…私の祈りが世界中のキリスト者たちと天でたしかにつながり一つとなったことを実感しました。もちろん今もコロナウイルスの脅威はあって、とくに医療機関ではまだまだ気を抜けないわけですが、それでもゆっくりとではあっても、あの時の祈りが聞かれているのかなと感じます。
 
“二人の弟子”の素性はよくわかりません。ともかくもここでは「二人で一緒に歩きながら論じ合っていた」ということが重要です。イエス様が声をかけると、それがイエス本人だとはわからず暗い顔をしていた。当然ですよね、だって心から慕っていたイエス様があんな無残に処刑されてしまったのだから…。その姿は私たちが人生を生きる旅路そのもののように思えるのです。希望が見えない。神様の御心がわからない。でもそんな人間が悩み、語り合いながらそれでも日々を生きていこうとする。教会というのはそういう共同体なんじゃないかな…。

 彼らはエルサレムで起きた復活の事実をイエスに告げます。彼らはこのことを事実としては知っていたけれど、それが我がこととして受け止めてはいませんでした。聖書のことは知っている。けれど、自分が生きている出来事の中に、イエス様が確かに共におられることに気づけるかどうか。私は高校二年生の時に洗礼を受けましたけれど、きっかけは各地の高校生の集まるキャンプでした。それまで教会に通っていて、教会だとか聖書がキライなはずもないし、イエスという人の話も聞いてきた。でもそれが自分へ向けられていることという実感はなかったのです。だけど同じように感じている同世代の仲間がいると知ったことで洗礼へと導かれたのです。「二人が語り合っていた」というのは信仰者にとって大きな意味をもつのです。
 彼らの心は暗かった。私の心が暗くて重くてどうしようもない時にこそキリストは「それと気づかないように」いっしょにいてくださる。“寄り添う”って言葉を皆さんよく聞きますよね。では“寄り添う”って具体的にはどういうことでしょう?ある先生が大学生に問うた時に「土砂降りの雨の中、自分は濡れても何も言わず私を傘の中に入れてくれるような」という答えがあったそうです。なんだかずいぶん都合がいいな…と思うでしょうか?でも苦しい時、悲しい時にイエス様はそんな風に私とともにいてくださるんだと私も思います。とはいえ「寄り添う」って簡単じゃないですよ。二人でひとつの傘に入れば完全に雨を防ぐのは無理。傘を差しだした方も濡れることは覚悟しないといけない。そんな風にイエス様は「寄り添って」くださるのです。
 聖書の言葉を聞いて心が燃える経験といえばね…朝日新聞社を退社してフリージャーナリストとなった鮫島浩さんがこんなことを言ってました「昔は新聞記者が集まると、政治のことや新聞とはどうあるべきかの議論をしていた。それがどうだ、今は人事の話しかしていない」と。私たち牧師もそうじゃないですか。「日本の宣教を、伝道はどうあるべきなんだ」という議論をせずに「あいつがあの教会に行った」「今度の教区総会で誰それに投票しろ」とかそんな話ばかり。教会の中ではどうですか。語り合い、聖書の言葉に聞き、互いのために祈りあう共同体になっているでしょうか?どこの教会の話とかじゃなくてね。
 
彼らはイエス様に対して「この方(イエス)こそイスラエルを解放して下さると望みをかけていた」と答えます。憎きローマ帝国に支配されて、国家のアイデンティティも奪われ、ファリサイ派の連中は、威張ってるけれど自分たちの不満には答えてくれない(あれ、なんかどこかの国みたいですね)。イスラエルの解放というのは彼らにとっては切実な願いであることは当然。けれど、キリストはきっぱりと答えられる「物わかりの悪い連中だな。メシアは、これらの苦しみを受けて、栄光に入るはずではなかったか」と。
 私たちの生きている中でのそれぞれの願望を、神様に願い、祈っていいんですよ。だけれども、それが実現することが神様の御心とは限らない。 その時には「何だよ、神は俺たちの祈りに答えてくれないじゃないか」 そうとしか思えない現実が示される。けれども、後になってみればもっともっと大きな恵みが思いがけない形で、神様からの深い愛として、この私に与えられる。そういうことってあるじゃないですか。いや、私たちの信仰の歩みというのはそういうものではないでしょうか。この時は彼らが願っていたイスラエルの解放というテーマは実現しませんでした。力ある者たちの高笑いがあったことでしょう。でも、今ローマ帝国というのは残っていますか?
キリストが私たちのために苦しみを受け、死に、よみがえられた。このことは地上のどんな大きな武力よりも、どんな政治的な力よりも私たちにとって大きな、計り知れない力なのです。
 
  エマオの村でイエスはなおも先へ行こうとされました。そこで弟子たちは「一緒にお泊まりください」そう言って無理に引き止めました。なんとしても真理にたどり着きたい、神様から答えをいただきたい。私たちのその願いに対してキリストは答えてくださいます。祈り、願わない者は、何とかしてそれを掴もうとしない者は、いつまでもそれを得ることができません。神様から大切なものをいただくことができません。

牧師になって26年ぐらい経ちますからいろいろと家族のことで相談を受けます。なんとしてでも我が子を助けたい、私自身が癒されたい。そういう切実な願いを表す人は、いつかそれが聞かれると思うのです。「うちの子はダメよ」「俺なんてどうでもいい」という人は残念ながら問題解決には遠い。これは実感としてあります。
 地上にある全ての教会は、果たして真摯に福音を求めているでしょうか。そう願わない教会は教会と言えるんだろうか。真摯に祈らないキリスト者はキリスト者と言えるんでしょうか。み言葉と向き合い胸熱くされない教会は教会でしょうか。
 
 イスラエルの一日は日没から始まります。私たちと一日の考え方が違うのです。「夕暮れ時は寂しそう」なんて歌があります通り、たしかに寂しさが募る時です。彼らも絶望の中で、ようやく一緒にいてくださる方がキリストだと知ることができた。もうその姿は見えない。だけどこれまでよりも遥かに近くキリストを感じることができるようになりました。人生の絶望に思えるその場所に最も近く、キリストはおられる。人生の夕暮れからまたはじめて行きましょう。

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