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「それは搾取か信仰か?」(マルコ12:35-44)

 この話は、教会においては献金の模範のエピソードとして伝えられてきました。この物語をもって「ですから精一杯の献げ物を」と説教することも可能です。しかし、これはそんなに「美しい話」として単純に受け止めてしまって良いのでしょうか。
 
 確かに、金銭に余裕のある方々がたくさん賽銭箱に入れる様子と、この貧しい女性が自分のなけなしの財布からわずかレプタ2枚(1デナリ=一日の労働者の賃金の128分の1)を入れたというその行為は、「献げる」という意味においては称賛に値すべきことかもしれません。でも、それは私たちが自分の意思で教会に通って、そこで献金を献げるというのとは全く違う状況なのです。
 2000年前のイスラエルにおいて、もっとも小さな貨幣であるレプトン1枚だけを捧げるのは、「神を冒涜する行為」として本来は禁じられていた行為です。施しをする場合にも貨幣1枚だけを施すというのは「その人をバカにする振る舞い」として禁じられていました。それでも、当時のイスラエル社会において、神殿に最低限の献げ物さえしない人は、罪人の烙印を押されて、貧しさだけでなく社会的・宗教的な制裁をも身に負わなければならなかったのです。つまり彼女は「献金せざるを得なかった」のです。
 
 やもめの献金物語の前に、イエス様は律法学者を厳しく非難されています。「律法学者に気をつけなさい。彼らは…やもめの家を食い物にし見せかけの長い祈りをする。このような者たちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる。」夫の遺産の相続問題は死活問題であり、このようなもめごとの裁定も律法学者の役割でした。夫を失った当時の女性の弱い立場に付け込んで、利益を上げていたということが考えられますし、「祈ってお払いしてやるから金を出せ」という悪徳律法学者もいたかもしれません。こうなると、いま再び問題になっている”あの団体”と変わらないように思いますが…しかし、それは対岸の火事ではなく、キリスト教会にだっていくらでもあった事でもありますし、献金で食べているこの私自身が律法学者なのではないか…牧師をしつつ自分に問いを突きつけられているように思うのです。
 
 この貧しい女性にあって律法学者たちになかったもの。それはただシンプルに「神様への信頼」だったのではないでしょうか。「たとえなけなしのお金さえ無くても、神様が生かしていてくださる。」その揺るぎない信頼は一朝一夕につくられたものではないのでしょう。苦しい孤独生活の中で祈りを欠かさずにいたから、希望を捨てずにいたからこそでしょう。
 
 これを観ていた弟子たちも、これから先「ただ神に信頼する以外はなくなる」状況へ否応なしに連れていかれます。私たちの生きている全てを神様にささげる歩みへと導かれるのです。私たちはどうでしょうか。思い出していただきたいのですが洗礼を受けた時に、頭から水をかけられただけで終わりではなかったはずですよ。水をかけられたその後に頭に手を置かれたでしょう?あれは「按手」が行われたのです。牧師になる按手はまた別ですが、信徒としての按手が貴方にも行われたのです。貴方は神様に信頼して生きるしかない一人とされた。キリストに仕えて生きるものとされたのです。
 
 この出来事があったのは神殿です。この貧しい女性のことに目を留められたのは、イエス様ただお一人でした。そこにいた弟子たちはエルサレム神殿の見事さに目を奪われています。イエス様が弟子たちを呼び寄せて「はっきり言っとくぜ」と言ってきかせたのに、です。でも人はそういうものなのでしょう。確かにこの世の中には誰の目にもわかる大きな力を持つものがいくつもあります。でもそのようなものはあっという間に崩れ去るのです。少し前までこの国の政治は「安倍一強」と言われていました。その権力はあの人の退陣後もずっと続くように思われていました。でも現状どうですか?その力は実に虚しいものだったじゃないですか。
 イエス様は「栄華を極めたソロモンでさえ、この野の花のひとつほどにも着飾ってはいなかった」と語られました。ここも同じことです。「あの律法学者たちが束になっても、この女性一人ほどの神への信仰はないし、彼女の信仰はいつまでも語り継がれても、この神殿が崩壊することは避けられないだろう」
 
 イエス様はこの神殿に入られてから、律法学者や商人たち…様々な人と出会い、関わられました。そして最後にこの女性と出会い神殿を後にされました。イエス様の十字架とは、そんな彼女たちの日常や祈りを背負われたものだったのです。

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