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「キリスト、故郷でコケにされる」(マルコ6:1~13)

 イエス様の生まれたナザレは旧約聖書のどこにもその名が記されていません。ヨハネ1:46に「ナザレからなんの良いものが出るだろうか」とあるように、ガリラヤ地方によくある無名な小さな田舎町のひとつで当時の人口は数百人だともいわれています。現在のナザレはアラブ系住民の町となっています(アラブ系クリスチャンも結構いるみたいですけど)。会堂に集まった人々は、その語るところに驚嘆し、イエス様の背後に神さまの愛を見たのだと思います。しかし、それまでの驚嘆のマナザシから一転「おい、こいつ大工のイエスだよな…?」ここから人々の意識が変わります。あのですね…私なんとも言えない気持ちになるんです。というのも私の死んだオヤジは大工でしてねえ…。今は亡き金子工務店の跡取り息子だったのです。「大工じゃないか」「大工の息子だろ?」自分がそういわれている気になるんですよ。「あ、すみませんねえ大工の息子で…跡継がなったんですけど」「そうだよ!大工の息子で悪いかよ!」そんな感じにね。

 余談ですけれど当時の大工は、ニワトリ小屋を作ったり、屋根や扉を治したりと、いわば町の「なんでも屋さん・便利屋さん」です。農家だけでは食えない人々が、兼業としてやっていたケースも多い。推測ですがイエス様は宣教の旅を続けながら、大工稼業も継続していたのかもしれません。町に入ると、「すみません、小屋とか治しましょうか」とかそんな感じで。それは人々の中に入っていくための手段であり、また、生活していくための営みだったのでしょう。
 父ヨセフは既に他界されていたのでしょう。長男であるイエス様は、家族を養うために、このナザレの町で家業を継ぎ、決して裕福とはいえない毎日の暮らしを送っていた。そんなイエス様の一人の労働者としての姿を、町の人々はみんな知っていたわけです。そこに人々の声が響く-なんだ、こいつはあのマリアのセガレのイエスじゃないか。あいつの弟や妹もみんな知ってる。そういえば最近姿を見なかったなあ。どこ行ってたんだよ。そうなるともう人々はイエスさまの言葉を聞こうとはしません。
 ちなみに同じエピソードをマタイは「人々が不信仰だったので、そこでは奇跡をあまりなさらなかった」つまりイエス様の自由な意志によって、奇跡の業を敢えてなさらなかったと記します。これに対してマルコでは、イエス様が奇跡を行うことができなかったとはっきり記しています。癒すことができなかったんです。イエス様の失態と言える様を描いているのです。
 福音に触れるとは「驚き」なのです。私たちは日常の中でこの世の常識で物を見て考えます。そんな私たちに、キリストの福音はいつも驚きをもって、それも神へと導く道筋を驚きとともに示されます。ところが、ナザレの人々は福音に驚くのではなく「あのイエスがまさかこのような」というギャップに驚いてしまったのです。「その人が何を語っているか」ではなく「誰が語っているか」で判断しようとすることがあります。完全に否定されるものではない。しかしそれゆえに私たちは、神様からの言葉を幾つも聞き逃しているかもしれない。イエス様も宣教の過程で「所詮あいつはナザレ出身の田舎モノ」とバカにされ続けました。イエス様と出会った人々も、その存在すら数に入れられないような人々でした。ファリサイ派などの上流の人々はその福音に気づけませんでした。

 イエス様も悲しかったでしょうね。故郷の人にこそ神の言葉を伝えたい、その純粋な思いは実に「この世的な」基準に踏みにじられてしまった。時は変われど宣教者が直面するのは昔も今も変わりはしません。それは確かに不信仰です。でもこのエピソードはキリスト教会にとってのマイナス面だけでしょうか。「ごくわずかな病人に手をおいていやされただけだった」と書かれているじゃありませんか。こんな中でも「この人には神の救いがある」と見定めた人たちがいたのです。
 イエス様の言葉や癒しの業で多くの人が従った、とかペトロの説教で三千人が洗礼を受けたとか、そういう大規模なリバイバルが実際に起きたらいいなと正直牧師としては思います。日本でもキリシタン伝来の頃の急速な伝道の広がりだとか、戦後のキリスト教ブームだとか…その時のことを知りませんけれど…でもいまそういうことは起きそうもない。では宣教は絶望なんでしょうか。多くの人がイエスに躓いて、去っていった会堂の中で、あるいは街の片隅でイエス様のところに「私を癒してください」とやってきた人がいた。その風景を思い浮かべてみてください。たしかにいたんですよ、イエス様が大工だろうが貧しい村の生まれだろうが、「ここに神の愛がたしかにある」「この人は本物だ」「救い主がここにいるんだ」と見定めた人が。どんな人たちかは書かれていないけれど、きっと真に深く悩み、苦しんでいた人たちだったと私は思います。キリストの起こされた癒しとは一方的なものじゃない。キリストと目の前にいる私が魂の奥深くで共鳴した時に起きる奇跡なんです。

 もしも貴方の心の中にどうしようもない痛みが、苦しみがあるとすれば、貴方の気づかない間にキリストがそっと触れてくださっています。私が師事する牧会学の先生が学生に「あなたが苦しい時にどんな風に支えてほしいですか」という質問に対して「雨の降る日に何も言わずそっと傘を差しだしてくれるように」という答えがあったそうです。たぶん…イエス・キリストってそういう方だと私は思うんですよね。
 

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