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「霊の正体」(マルコ1:21-28)

聖書を読む時、一人であっても、あるいは司式者の立場で会衆の前で読む時に、できるだけ丁寧に、穏やかな気持ちで読もうとします。それは間違いではないのですが、しかしそれはそこに書き記されている出来事の生々しさを弱めてしまうかもしれないのです。たとえば今日のテキストなどは非常に激しい場面だったことは明白でしょう。彼は会堂の中で人目もはばからず叫んだのです。それに対してキリストも叱った。激しく、彼の言葉に応酬するように。

 

「汚れた霊」とはなんと忌まわしい表現でしょうか。当時は病気の大部分は悪霊がついたからだといわれていました。そうした人々は町の外に置かれてしまう(感染症を防ぐという意味はあったとしても)…それが常識でありました。特に精神的な障害、心の病を抱えている人が非常に多かった。彼らは、不吉な存在としてコミュニティーからは疎外されていました。5章にやはり悪霊に取り付かれた人が出てまいりますが、この人は「鎖につながれ墓場を住まいとしていた」。たいへん悲しい話ですが、それが現実だったのです。そのような時代の中で、なぜこの人は会堂の中にいることができたのか…考えてみれば不思議です。ひょっとしたら、イエス様を試すために、ファリサイ派が連れてきたのかもしれません(こういうことって教会ではよくあることなのです)。いすれにせよ、この人の深い孤独を思います。24節の言葉は「終末的な信仰告白ではないか」などと解釈する声もあるようですが、そうではなく、彼は心病み、見えないものが見えたり、聞こえない声が聞こえたりといった症状があったことが想像されます。自分ひとりのことを「我々」と言ったり、福音書で他に用いられることのない「神の聖者だ」という言葉を用いていることからもそれは明らかです。礼拝中にもしこのようなことが起きたら、どうでしょうか?私だって慌てふためいてしまうでしょうね。
 聖霊が「神と人、人と人とをつなぐ力」であるとすれば「汚れた霊」とは「神と人、人と人との関係を破壊する力」であるといえるでしょう。実際、彼はイエス様に「かまわないでくれ」と関係を断とうとします。直訳しますと「俺とお前の間に何があるっていうんだ?」となります。

 私はここで「信仰の弱い人、キリスト教を拒むから心を病んでしまうのだ」とか「キリスト教を信じれば心の病から解放されるのだ」なんてスットコドッコイなことを言いたいわけじゃありません。子どもの頃から教会に通っていたって、心病んでしまう事例なんて普通にありますからね。ただ、人を追い詰めてしまう色んな要素というのは、すべからく神とその人を、あるいは人と人を切り離すものなんです。それはなんでしょう?あなたと誰かを比較させることでしょうか?そのままの貴方ではなく、無理な方向に向かわせようとすることでしょうか?あるいは格差がもたらした厳しい状況ですか?たとえば東京大学の前で高校生が犯した傷害事件を思います。名古屋の進学校に通っていたけれど、成績が下がってきたといいます。でもそれだけでなぜそこまで追い詰められてしまったのでしょうか。 

昨日、うちの子が聞かせてくれた歌があるんですけどSEKAI NO OWARIというバンドの「銀河街の悪夢」という曲です。「希望とか未来とか、そういうものが無ければみんなとの差も開かないのに」「明日を夢見るから今日が変えられない」と、心の問題を抱える人の心をこれでもかと赤裸々に綴った見事な歌詞です。ヴォーカルのFUKASEくんの実体験からでしょうか。そうなんですよね。その人がその人でいることよりも「将来のために勉強しなさい」「素晴らしい明日のために自分磨きをしなさい」「クリスチャンらしく振舞いなさい」みたいな言葉が結局人を不幸にしかしないんです。

  キリストの言葉はこの時、会堂にいた人たちに「権威ある新しい教えだ」と言われました。キリストが批判されていた律法学者、ラビたちの言葉遣いは「なんとかラビが○○と仰った」という形式をとるものでした。3人も4人もの伝承者の名をあげて、自分の言葉を正当化しようというのです。時にはモーセまでさかのぼり、自分の言葉がいかに正しい系譜に属するかを語るのです。私だって「ルターがこう言っていた」とかよく言ってますよね(笑)。これも自分の言葉の巧妙な権威づけなのかもしれないなと反省しています。律法学者と変わりません。キリストは神の子でありながら神の権威付けを必要としていない。そうではなく、あくまでも「私とあなたとの関係」の中で語られるのです。この人の「今」だけを見つめていました。だからこの人にも、会堂にいた人の心に響いたのです。みんな自分の心の弱さに触れられたのではないでしょうか? 

 キリストの権威とは単にありがたい教えを伝えるのではありません。福音とは現実を変える力を持っているのです。「神の国は近づいた」というメッセージは、イエスが悪霊に苦しめられ、神や人との交わりを喪失していた人を、神や人との交わりに連れ戻すことによって、もうすでに実現し始めたのだと言ってもよいでしょう。何かの現象を「悪霊の仕業だ」と言ったり、誰かのことを「あの人は悪霊に取りつかれている」と非難したって、それは意味がないでしょう。むしろ、悪霊に覆われてしまっているような人の、もっと深い部分にどのように触れ、どうしたらつながりを取り戻していくことができるか。そのことがわたしたちに問われています。それが牧師やキリスト者、教会のなすべきことですものね。

 

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